4 イスラム文明の発展

1 イスラム文明の特徴

 イスラム文明の特徴を一言でいうと融合文明であるということである。イスラム教とアラビア語を基調とし、それにギリシア・イラン・インドなどの先進文明を取り入れ、混ぜ合わせて出来た文明である。様々な色の液体を1つの容器に入れて混ぜ合わせると全く別の色になるように、様々な文明が融合して全く別の文明が作り出された、それがイスラム文明である。ペルシアの説話を骨子としてインド・アラビア・ギリシア・エジプトなどの説話を集大成した「アラビアン=ナイト」(千夜一夜物語)などは諸文明の融合を示すよい例である。

 イスラム文明は、イスラム教を核とする普遍的文明であり、イスラム世界の各地に伝播し、その地域・民族の特色が加わり、イラン=イスラム文明・トルコ=イスラム文明・インド=イスラム文明など多様な文明が形成された。また中世ヨーロッパではイスラム教徒の著作がアラビア語からラテン語に翻訳され、ヨーロッパにおける学問の発達を促し、後のルネサンスの開花にも大きな影響を及ぼした。

 自然科学が発達したこともイスラム文明の特色である。自然科学は近現代のヨーロッパ文明で大いに発達し、現代の我々の豊かで便利な生活を実現させたが、近代以前の文明のなかで自然科学が発達したことはまれで、わずかにヘレニズム文化とこのイスラム文化をあげることが出来るのみである。

 またイスラム文化は都市文明で、その主な担い手は商人や手工業者らであり、美術・工芸などの分野も発達した。

2 イスラム教徒の学問

 イスラム教徒の学問は、「固有(自国)の学問」と「外来の学問」に大別することが出来る。「固有の学問」は、アラブ固有の学問分野でイスラム教・アラビア語・ムハンマド・「コーラン」研究から発達した学問で、法学・神学・言語学・歴史学などが含まれる。

 言語学・文法学は「コーラン」の研究から発達した。「コーラン」はアラビア語で書かれていて、他の言語への翻訳は禁止されているので、「コーラン」を正しく理解し・伝達するためにはアラビア語の言語学や文法学が大切な学問であった。

 法学・神学も「コーラン」の解釈を中心に発達した。イスラム法は、「神の定めた掟」の意味でシャリーアと呼ばれ、行政法・身分法・家族法・商法など社会生活全般に関わる規定を含んでいるため法学は最も重要な学問とされた。イスラム神学・法学に精通した人はウラマーと呼ばれ、神学・法学上の問題の裁定を行う。従ってウラマーのイスラム社会での発言権は強く、社会のエリートとして大きな影響力を持った。神学者としてはイラン系のイスラム神学者のガザーリー(1058〜1111)が知られている。

 歴史学は、ムハンマドの伝承研究から発達した。イラン系の神学者・歴史家タバリー(839〜923)は年代記的世界史「預言者と諸王の歴史」を著した。

 イブン=ハルドゥーン(1332〜1406)はイスラム世界最高の歴史哲学者として有名である。チュニス出身で法学を学び、政治家となり若くして北アフリカのハフス朝(1228〜1574)の高官となったが、妬まれて各地を転々としたり投獄されるなど波乱の半生を過ごした。43才で政界を引退し、歴史書の執筆にあたった。「世界史序説」を著し、遊牧民と定住民との関係・交渉を中心に王朝興亡の歴史に法則性があることを論じた。50才の時エジプトに移住し、マムルーク朝に仕えてカイロの大法官となり、その後カイロで没した。   

 「外来の学問」は、ギリシア・インドなどの非アラブの学問で、哲学・論理学・地理学・医学・数学・天文暦学・工学・錬金術などで自然科学の分野を中心に発達した。

 これらの「外来の学問」は、9世紀の初めにギリシア語の文献が組織的にアラビア語に翻訳されるようになって飛躍的に発達した。特に自然科学は大いに発達した。

 医学・薬学は、ギリシア・インドから学び、特に外科・眼科などが発達していたと言われている。有名な医学者としてはイラン系の医学者・哲学者で「医学典範」の著者であるイブン=シーナー(ラテン名アヴィケンナ、980〜1037)とコルドバ生まれの大哲学者・医学者で「医学大全」を著したイブン=ルシュド(ラテン名アヴェロエス、1126〜98)がよく知られている。

 イブン=シーナーは、サーマン朝の高官の子としてブハラに生まれた。17歳頃サーマン朝の君主の病気を治療し、その宮廷図書館で学究生活を送った。その後各地を転々とした後ハマダーンのブワイフ朝君主の宰相となり、その保護のもとで14年間を過ごした。 その学問は医学・哲学・神学・数学・天文学に精通し、彼の著作は100を越え、「学問の長老」と称された。特に「医学典範」はアラビア医学の集大成で、ラテン語に翻訳され、12〜17世紀にかけて西ヨーロッパの大学・医学部で権威あるテキストとして重用された。 イスラム世界では現在でも利用されていると言われている。

 イブン=ルシュドは、コルドバの名門に生まれ、法学・医学・哲学を学び、その天分を発揮し、27歳頃モロッコのマラケシュに赴いてムワッヒド朝のカリフに謁見し、コルドバで法官となり、晩年にはムワッヒド朝のカリフの主治医となった。この間多くの著書を残したが、特にアリストテレス哲学の研究家・注釈家として有名で、中世ヨーロッパにおけるアリストテレス哲学の研究に大きな影響を与えた。

 数学も、ギリシアの幾何学やインドの数学を学び、特にインドから学んだ数字・十進法とゼロの観念を大いに発達させた。

 現在我々が使用している算用数字はアラビア数字と呼ばれる。インド数字を原型として、イスラム世界で完成し、後にヨーロッパに普及し、現在は世界中で使用されている。この アラビア数字の最大の長所はインドから学んだゼロの観念をアラビア数字・十進法と結びつけたところにある。

 ローマ人はアルファベットを用いて数字を表記した(1はI、5はV、10はX、50はL、100はCなど)が、大きな数字を表記するのに大変苦労した。例えば1999はCIC(1000) IC(500) CCCCLXXXXVIIII(1000と500の右端のCは、Cを裏返して左右を逆にした記号になる)と表記した。これをアラビア数字では1999で表せるし、さらに0を付け加えるだけで無限大の数字を表すことが出来るようになった。まさに画期的な記数法である。

 従来の数学は、例えばギリシアの場合も発達したのは代数学でなく幾何学であった。代数学が発達せず、幾何学が発達した理由はやはり数字の問題だと思う。この計算に便利なアラビア数字の発明によって、イスラムでは、代数学・三角法が発達した。イラン系のフワーリズミー(780頃〜850頃)は、ホラズムに生まれ、アッバース朝に仕えた。アラビアの数学を確立し、代数学の創始者となった。彼は天文学者としても有名だった。

 天文暦学は、古代オリエントでも盛んであった占星術がイスラムでも大いに発達し、そこから天文観測や暦学が発達し、正確な暦も作成された。

 オマル=ハイヤーム(1048〜1131)は、イランの詩人・数学者・天文学者で、セルジューク朝のスルタンの命により、きわめて精密な一種の太陽暦である「ジャラーリー暦」の制定に従事した。数学者としては3次方程式の解法の体系化しているが、彼の名を有名にしているのはペルシア語の「四行詩集」(「ルバイヤート」)の作者としてである。ルバイヤートは19世紀に英訳されて世界的に有名となった。

 錬金術は、古代エジプトに起源を持つ、卑金属を貴金属に変えようとする技術である。もちろん実現するはずもないが、そのためにあらゆる実験・観察が繰り返され、その中から様々な元素記号が生まれ、化学反応式さらに酸とアルカリの区別などが知られていた。このイスラムの実験・観察のデータをもとに、近代ヨーロッパで化学が発達することになる。

 ヨーロッパ人が、イスラムから様々な学問・知識を受け入れていく際、当時のヨーロッパ人には知られてなくて、そのものを表す単語がないときにはアラビア語がそのまま使われた。このため今日の英語の中にも多くのアラビア語起源の単語があることはよく知られている。例えばalcohol,alkali,algebra,alchemy,alembic,amalgamなどの科学用語の他にsugar,cotton,syrop,check,tambourine,luteそしてzeroなどがある。科学用語にalの付く語が多いがalはアラビア語の定冠詞である。

 「外来の学問」は、自然科学以外の分野では哲学・地理学なども発達した。

 哲学では、ギリシア哲学・特にアリストテレス哲学の研究が盛んに行われた。前述したイブン=ルシュドはアリストテレス哲学の研究家として知られ、彼の注釈は後の西ヨーロッパに大きな影響を与えた。イブン=ルシュドと同じく医学者として有名なイブン=シーナーも哲学者としても有名である。

 地理学の分野では、大旅行家イブン=バトゥータ(1304〜68/69あるいは77)が有名である。今までにもイブンの名の付く人物が多く出てきたが、イブンは長男に多くつけられる名前である。

 イブン=バトゥータはモロッコのタンジールに生まれ、22才の時にメッカへの巡礼の旅に出た。カイロ・ダマスクスなどを経てメッカに巡礼を行った。その後さらに足を延ばしてエジプト・シリア・小アジアを経て南ロシアに至り、クリミア半島・キプチャク=ハン国を訪れ、その後中央アジアを南下してインドに入り、トゥグルク朝で法官となり約10年間デリーに滞在した。のち中国の元朝への使節団に加わり、海路中国に至り(1345)、泉州・広州・杭州・大都(北京)を訪れた後、海路で帰国した(1349)。その後もスペインやサハラ砂漠を越えてニジェール川流域を旅行し、マリ王国も訪れた。

 彼の口述筆記による旅行記「三大陸周遊記」(原名は「町々の珍しさと旅の奇異への観察者に対する贈り物」)は1355年頃に完成したが、マルコ=ポーロの「世界の記述」(東方見聞録)と並ぶ旅行記として有名である。

 文学では、アッバース朝以後、ペルシアの文学の影響を受けて散文学が盛んとなった。その代表作「千夜一夜物語」(アラビアン=ナイト)は、8世紀にアラビア語に訳されたペルシア古来の「千物語」が骨子になり、それにインド・アラビア・ギリシア・エジプトなどの説話が融合され、16世紀初め頃までに現在の形に発展したものである。「アリババと40人の盗賊」「船乗りシンドバットの冒険」「アラジンと魔法のランプ」など子供向けのよく知られた話も多くあるが、イスラム教徒の生活や風俗を知る上でも貴重な書物である。またフィルドゥシー(940頃〜1025)が約25年を費やして完成した「シャー=ナーメ」(「王の書」)は、イランの建国から7世紀までの神話・伝説・歴史を詠んだペルシアの大叙事詩である。

 建築は、ドームとミナレット(光塔、この上から人間の声で礼拝の時が告げられる)を特色とするモスク(イスラム教の礼拝堂)が中心で、イェルサレムにある金色に輝くドームを持つ「岩のドーム」は初期の代表的なモスクである。またスペインのグラナダに残るナスル朝の宮殿である「アルハンブラ宮殿」はイスラムの代表的な建築で、世界で最も美しい建築の一つと言われている。

 イスラム教は偶像崇拝を厳禁する宗教である。そのため絵画・彫刻の分野はあまり発達しなかったが、ミニアチュール(細密画)が書物の挿し絵として始まり、後に中国絵画の影響を受けて盛んとなった。

 偶像崇拝禁止のイスラム圏で大いに発達したのが、アラベスクである。アラベスクは植物や文字を図案化して幾何学的に連続配置した装飾文様であるが、モスクなどのイスラム建築では見事なアラベスクが使われている。

3 人と物の東西交流

 広大なイスラム世界の成立にともない、ムスリム商人による遠隔地貿易が盛んとなり、人と物の交流は文化の交流を促進した。

 ムスリム商人は、より多くの利潤を求めて、イスラム世界の外へも積極的に進出した。 「アラビアン=ナイト」に描かれている「船乗りシンドバットの冒険」はそのことをよく示している。

 遠隔地貿易には、陸上の隊商貿易と海上の商船貿易とがあった。らくだの背に荷物を積んだ隊商は遠くは中国・南ロシア・内陸アフリカを往来し、イスラム教徒の商船は地中海・インド洋を縦横に航行し、遠く東南アジアや中国にも至った。 主要な取引品はインドや東南アジアの香辛料・宝石・綿布・染料など、中国の絹織物・陶磁器など、またアフリカの金・奴隷・象牙などであった。

 中国・東アフリカ・東南アジアの海港などには、ムスリム商人の居留地が設けられていた。唐・宋代の中国ではアラビア・アラビア人はタージー(大食)と呼ばれ、ウマイヤ朝は白衣大食、アッバース朝は黒衣大食と呼ばれていた。

 こうした人と物の交流とともに文化の交流も盛んであった。

 中国で発明された製紙法がタラス河畔の戦い(751)で捕虜となった唐軍の中にいた紙すき工によってバグダードに伝わり、さらにイベリア半島とシチリア島を経て12世紀頃西ヨーロッパに伝えられたことは前述した。

 同じく中国起源で宋代に実用化されていた火薬と羅針盤もイスラム世界を経由してヨーロッパに伝えられた。

 インドから西アジアに伝わった木綿や砂糖は、十字軍の兵士達によってヨーロッパへ伝えられた。

 元の郭守敬によって作成された「授時暦」にはイスラムの天文学の成果が取り入れられている。「授時暦」は江戸時代に作成された「貞享暦」に影響を及ぼしている、1年を365.2425日とする精密な陰陽暦である。




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