3 インド・東南アジアのイスラム化

1 インドのイスラム化

 イスラム教徒は、8世紀の初めウマイヤ朝の時代に、一時シンド(インダス川下流域)地方を征服したがその支配は長続きせず、イスラム教徒による本格的なインド征服が始まったのはガズナ朝(ガズニ、962〜1186)の時からである。

 ガズナ朝は、サーマン朝(875〜999)に仕えていたトルコ人奴隷のアルプテギン(?〜963)がアフガニスタンのガズナに建国したトルコ系イスラム王朝である。

 第7代スルタンのマフムード(位998〜1030)は、サーマン朝から独立し、1000年頃から10数回にわたって北インドに侵入し、北インドのイスラム化の道を開くとともに、アフガニスタン・中央アジア・イラン・北インドにまたがる大帝国を築き、都のガズナは大いに栄え、フィルドゥシーなどの文人を優遇するなど、ガズナ朝の全盛期を現出した。しかし、12世紀中頃からゴール朝の圧力が強まり、セルジューク朝とゴール朝によって滅ぼされた(1186)。

 ゴール朝(1148頃〜1215)は、ガズナ朝の支配下でアフガニスタンのゴールを拠点として台頭してきた。ムハンマド=ゴーリー(?〜1206)は、兄王とともにゴール朝の独立に活躍し、ガズナ朝を滅ぼし(1186)、以後30年間にわたってインドに侵入し、ラージプート族(好戦的なヒンドゥー教徒)の軍を破り、北インドのほぼ全域をイスラムの支配下に置いた。このため北インドのイスラム化が一層進んだ。兄を継いで王となったが(1202)、インド遠征の帰途、インダス河畔で暗殺された(1206)。その後、ゴール朝は部下の将軍の内紛によって分裂し、ホラズム朝に滅ぼされた(1215)。

 中央アジアのトルコ人のマムルークであったアイバク(?〜1210、位1206〜1210)はゴール朝のムハンマド=ゴーリーに部将として仕え、そのインド遠征に従事して功績をあげ、インド方面総司令官に任命されて北インドの実権をほぼ掌握し、ムハンマド=ゴーリーが暗殺されると、インドの支配権を握り、インド最初のイスラム王朝である奴隷王朝(1206〜90)を創始し、都をデリーに置いた。

 ガズナ朝・ゴール朝ともにアフガニスタンに拠点を持ち、インドに侵入して北インドを支配した王朝で、インドのイスラム王朝とは言えず、インド最初のイスラム王朝はアイバクが創始した奴隷王朝である。

 アイバクの死後、彼の奴隷でアイバクの養子となったイレトゥミシュがデリーでスルタンとなり、北インドにおけるイスラム王朝の支配権を確立した。彼を初め王位に就くものに奴隷出身者が多かったため、この王朝は奴隷王朝と呼ばれた。

 奴隷王朝は、北からのモンゴル人の侵入を防ぎ、内政に意を注いだが、末期には党争と内乱が相次ぎ、同じトルコ系のハルジー朝(1290〜1320)に取って代わられた。

 ハルジー朝の最後の王が暗殺されると、将軍のトゥグルク(父はトルコ人、母はインド人)が暗殺者を倒してトゥグルク朝(1320〜1414)を建国した。トゥグルク朝については有名なイブン=バットゥータの旅行記「三大陸周遊記」に記述がある。トゥグルク朝はティムールの侵入を受け(1398)、以後衰退した。

 ティムール軍が引き上げた後、命を受けてデリーの統治に当たったティムールの部将が独立して建てたのがサイイド朝(1414〜51)である。しかし、サイイド朝の支配地域はデリー周辺に限られ、4代でロディー朝に取って代わられた。

 サイイド朝の末期に、パンジャーブ地方(インド西北部)で勢力を得たアフガン系のロディー族のハバロールがデリーに迎えられ、サイイド朝に代わってスルタンとなり創始したのがインド史上最初のアフガン系王朝であるロディー朝(1451〜1526)である。しかし、ロディー朝もパーニーパットの戦い(1526)でティムールの子孫のバーブルに敗れ、ムガール帝国(1526〜1858)に滅ぼされた。

 インド最初のイスラム王朝である奴隷王朝からムガール帝国の建国までの約300年間に北インドにはデリーを都とする5つの王朝(奴隷王朝・ハルジー朝・トゥグルク朝・サイイド朝(以上トルコ系)とロディー朝(アフガン系))が続いたので、この時代をデリー=スルタン朝(1206〜1526)と総称する。

 インドに侵入したイスラム王朝は、最初は民衆にイスラム教を強制し、ヒンドゥー教の寺院や神像を破壊したが、デリー=スルタン朝の時代になるとヒンドゥー教徒に対しても比較的寛大な態度をとり、インド人の伝統的な社会の上に立って君臨するという政策を採るようになった。 




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