3 西方イスラム世界
アフリカ北岸のモロッコ・アルジェリア・チュニジア地方はマグリブ地方と呼ばれる。 マグリブは、アラビア語で「西」を意味し、エジプト以東のイスラム世界に対して西方イスラム世界を指している。
このマグリブ地方の先住民はベルベル人と呼ばれ、ハム系を主にネグロ・セム系の混血である。彼らは7世紀以来アラブ人の支配を受け、そのイベリア半島攻略の主力をなし、ヨーロッパ人からはムーア人と呼ばれた。
西サハラでラクダの遊牧を行っていたベルベル人のサンハージャ族の族長が1039年にメッカに巡礼した。その帰途、イスラム法学者の教説を聞いて深い感銘を受け、その弟子の1人を伴って帰り、彼の教えを受けた。彼の教えに動かされたサンハージャ族は宗教的な結社を政治運動に転化して軍団を結成し、西サハラにムラービト朝(1056〜1147、スペイン語でアルモラビド朝とも呼ばれる)を樹立した。
初代アミール(アラビア語で「指揮者」の意味、武将・総督の称号として用いられる)となったイブン=ターシフィーン(位1061〜1106)のもとで、首都マラケシュを建設するとともに、聖戦(ジハード)をおこし、北に軍を進め、モロッコからアルジェリアの肥沃な農耕地帯をその支配下に治めた。さらに南下して西アフリカのガーナ王国(8世紀頃〜1076)を一挙に滅ぼした。
その頃、イベリア半島では後ウマイヤ朝が内紛で分裂・衰退して滅亡し(1031)、以後アンダルシア地方(イベリア半島南部、アラブ人はアンダルスと呼んだ)はイスラム系諸小王朝が乱立する分裂時代を迎えていた。同じ頃、キリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ、キリスト教徒によるイベリア半島からのイスラム勢力の駆逐運動)が展開されていた。
国土回復運動によってトレドを失ったムスリム諸侯がイブン=ターシフィーンに援軍の派遣を求めてきたので、彼はこれに応えてイベリア半島に渡り(1086)、カスティリャの軍を破り、グラナダ・コルドバ・セビリアなどを攻略し、アンダルシア地方をムラービト朝の領土とした。しかし、ムラービト朝では、世代が変わると熱狂的な宗教的な情熱が衰え、部族間の団結もゆるんできた。この頃、北アフリカのアトラス山中で、同じベルベル人のムワッヒド朝が台頭していた。
アトラス山中で定住生活を営むマスムーダ族のイブン=トゥーマルト(1091頃〜1130)は、メッカに巡礼した際に(1106)、イスラム神秘主義を学び、宗教や道徳を改革しようという情熱に駆られて故郷に戻ってきた。イブン=トゥーマルトは自らマフディー(イスラム教で「救世主」の意味)と称し、教説を説いて回りベルベル人のイスラム化を促進した。
アブド=アルムーミン(位1130〜63)は、イブン=トゥーマルトの死後、彼の思想・運動を継承し、ムワッヒド朝(1130〜1269、スペイン語でアルモハド朝)を創始した。彼はマスムーダ族をまとめて勢力を拡大し、ムラービト朝を滅ぼし(1147)、占領したマラケシュを都とした。さらに東に転じてチュニジア・トリポリまで領土を拡大し、イベリア半島南部と北アフリカにまたがる大帝国をつくりあげた。
しかし、ムワッヒド朝もムラービト朝と同じように宗教的な情熱が冷めてくると国内は分裂し、同じ頃モロッコに興ったマリーン朝に領土を奪われ、吸収され滅亡した(1269)。
一方、イベリア半島では国土回復運動(レコンキスタ)が進展する中で、かって後ウマイヤ朝の首都として、当時世界最大の都市の一つとして繁栄してきたコルドバがキリスト教徒のカスティリャによって占領された(1236)。
この頃成立したナスル朝(グラナダ王国、1230〜1492)は、コルドバ陥落後グラナダを首都とした(1238)。グラナダはヨーロッパにおけるイスラムの政治・軍事・文化の拠点として栄え、イタリアや東方との貿易で経済的にも繁栄した。有名なアルハンブラ宮殿は西方イスラム世界のみならず世界的にも最も美しい建築の一つと言われている。
ナスル朝はキリスト教国の進出に対して最後まで抵抗したが、1492年にスペイン軍に敗れ、グラナダは陥落し、ナスル朝は滅亡した。これによって国土回復運動(レコンキスタ)は完了し、イスラム教徒はアフリカに押し返された。この年は奇しくもコロンブスがアメリカ大陸に到達した年と同じ年であった。