2 カイロの繁栄
ファーティマ朝(909〜1171)は過激シーア派の一分派のイスマイル派がチュニジアに建国した国で、創始者のオバイドゥッラー(位909〜934)はムハンマドの娘ファーティマの子孫と称し、アル=マフディー(マフディーは「救世主」の意味)と称した。また彼は即位当初よりカリフを称したので、ファーティマ朝は唯一のシーア派王朝として、東のアッバース朝及び西の後ウマイヤ朝と対立した。
ファーティマ朝は969年にエジプトを征服し、カイロ市を建設し、ここに都を移した(973)。さらにシリアに進出し、地中海・北アフリカ貿易を独占して栄えたが、やがてアイユーブ朝に滅ぼされた。
アイユーブ朝(1169〜1250、アイユーブはサラディンの父の名に由来する)の創始者は有名なサラディン(サラーフ=アッディーン、1138〜93、位1169〜93)である。
サラディンは、トルコ・イラク・イランにまたがって居住する剽悍な少数民族であるクルド人出身である。クルド人はスンナ派のイスラム教徒で、トルコでは山岳トルコ族とも呼ばれている。サラディンはイラクに生まれ、初めアレッポ(北シリアの都市)のザンギー朝に仕えた。後にエジプトに入り、ファーティマ朝に仕えて宰相となり、ファーティマ朝を廃してアイユーブ朝を開いた。
サラディンはアイユーブ朝を開くと、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を得て、エジプト・シリア・イラクに領土を拡大し、イスラム勢力を結集して十字軍を破り、イェルサレム王国から聖地イェルサレムを奪回した(1187)。このため第3回十字軍の遠征(1189〜92)が起こされたが、サラディンはイギリス王リチャード1世の軍と戦い、聖地イェルサレムを守り抜いて休戦条約を結んだ。この時のリチャード1世との勇猛な戦いぶりからサラディンはイスラム教徒の間で英雄視されているだけでなく、サラディンの武勇や寛容さは当時のヨーロッパ人にも大きな感銘を与え、彼の名声はヨーロッパにも広まった。
しかしサラディンの死後(1193)、広大な領土は諸子に分割され、エジプトのアイユーブ朝はマムルーク朝に、西アジアの各家はモンゴルに滅ぼされた。
マムルーク朝(1250〜1517)は、エジプトのアイユーブ朝の親衛隊長であったアイバク(?〜1257、位1250〜57)によって建てられた。
アイバクは、トルコ人のマムルーク(奴隷兵士)でアイユーブ朝に仕えてスルタンの親衛隊長となり、7代スルタンの死後、その妃シャジャル=アッドゥッル(宮廷女奴隷出身)を擁立し、またその夫となって実権を握り、マムルーク朝を創始した。エジプト・シリアを平定し、権力の独占を図り、王妃にその意志を見抜かれて入浴中に暗殺された。
第5代スルタンとなったバイバルス(位1260〜77)は南ロシア生まれのトルコ人で戦乱のため奴隷となって各地を転々とし、後にアイユーブ朝に仕え、スルタンの親衛隊長となり、第6回十字軍のフランス王ルイ9世と戦ってルイ9世を捕虜とし、またシリアでイル=ハン国軍の侵入を撃退して頭角を現した。しかし期待した恩賞が与えられなかったことからスルタンを殺して即位した。イル=ハン国に滅ぼされたバグダードのアッバース朝のカリフの親族をカイロに引き取って保護し、カリフ制を復活させ(1261)、その権威を利用した。バイバルスは国政の基礎を確立した英主として名高い。
マムルーク朝の首都カイロは東西貿易で繁栄し、バグダード・コルドバとともにイスラム文化の中心地としても栄えた。歴代のスルタンは東西貿易を国家の統制下に置いて利益を独占し、カイロに多くの美しいモスクや学院などを残した。ファーティマ朝時代に創建されたアズハル学院(カイロの大学)は、マムルーク朝の時代にはスンナ派イスラム学の最高学府となり、各地から学者が集まった。
マムルーク朝は、インド航路が発見されると独占してきた東西貿易の利益を失うことになり、衰退しオスマン=トルコ帝国に滅ぼされた(1517)。