1 東方イスラム世界
アッバース朝は、全盛期の第5代カリフ、ハールーン=アッラシードの死後(809)、エジプトやイランで独立の動きが強まり、次第に分裂状態に陥っていった。
イランでは、イラン系のマワーリー(非アラブ系の改宗者)でアッバース朝の将軍であったターヒルがホラサーン(イラン東部)で自立し、ターヒル朝(821〜873)を建国したが、サッファール朝(867〜903)に滅ぼされた。サッファール朝は、イラン人ライスが創建し、3代続き、一時はイラン各地を支配しバグダードに迫ったが、後にサーマン朝に滅ぼされた。
サーマン朝(875〜999)は、中央アジア最初のイラン系イスラム王朝で、ナスルがアッバース朝から独立し、その後サッファール朝を滅ぼしてブハラ(現ウズベキスタン共和国、アム川北岸の都市)に都した。最盛期には中央アジアからイラン東部までを領有し、ブハラ・サマルカンド等の商業都市が発展したが、10世紀末にトルコ系のカラハン朝に滅ぼされた。
カラハン朝(10世紀中頃〜12世紀中頃)は、中央アジア最初のトルコ系イスラム王朝で、10世紀にカシュガル方面から興り、ベラサグンに都して、次第に勢力を伸ばし、960年頃にイスラム教に改宗した。サーマン朝を滅ぼして(999)、東西トルキスタン(中央アジア)を領有する大帝国となり、東西トルキスタンのイスラム化を促進した。しかし、1008年にガズナ朝に大敗し、パミール高原を中心に東西に分裂し(1047)、カシュガルの東カラハン朝は1132年に西遼(カラキタイ)に、そしてサマルカンドの西カラハン朝はホラズムに滅ぼされた。
北アジアを原住地とする遊牧民でアルタイ語族に属するトルコ人は、古くは匈奴・柔然に服属していたが、6世紀中頃から台頭し、柔然を滅ぼして東は蒙古高原から西は中央アジアにまたがる大突厥帝国を建国した。しかし、内紛によって583年に東西に分裂し、東突厥はウイグルに滅ぼされた。
ウイグルは、同じトルコ系のキルギスの侵入を受けて滅亡し(840)、ウイグルは四散した。この時多くのウイグル人がモンゴル高原からタリム盆地に移住し、その結果中央アジアのトルコ化が急速に進み、以後中央アジアはペルシア語で「トルコ人の地域」を意味するトルキスタンと呼ばれるようになった。ウイグル人は現在もこの辺り(中華人民共和国の新疆ウイグル自治区)に多く住んでいる。
中央アジアに移住したトルコ人は、騎馬戦士として優れていたので、奴隷・傭兵としてイスラム世界に進出していく。トルコ人とイスラムとの出会いはアッバース朝が、9世紀にマムルークと呼ばれるトルコ人の奴隷兵で親衛隊を組織したのが初めてであった。
マムルークは黒人奴隷兵に対して白人奴隷兵を指し、トルコ人・スラヴ人・ギリシア人・クルド人などの戦争捕虜や購入奴隷が中心であった。なかでもトルコ人のマムルークはアッバース朝以後次第にイスラム各王朝の軍事力の中心となり、以後のイスラム世界で軍事・政治の面で大きな力を持つことになる。
グッズ=トルコ族と呼ばれた遊牧民の一派が10世紀頃、族長のセルジュークに率いられてキルギス草原からシル川(天山山脈に発し、アラル海に注ぐ中央アジアの大河)下流に移住し、セルジュークの孫のトゥグリル=ベク(993頃〜1063、位1038〜63)のもとでセルジューク朝(セルジューク=トルコ)(1038〜1194)を建国した。
トゥグリル=ベクは、シル川下流域で自立し、1038年にガズナ朝を破ってアフガニスタンに追い返してホラサーン地方(イラン東部)を獲得し、さらにイラン本土に進出し、レイに都した。1055年、アッバース朝のカリフの招きでバグダードに入城し、シーア派のブワイフ朝を倒し、アッバース朝のカリフから「スルタン」の称号を得て、スンナ派政権を樹立した。
スルタンは、アラビア語で「支配者の地位」を意味する言葉で、カリフに代わってイスラム世界の世俗的(軍事・政治)支配権を握った専制君主の称号として、20世紀の初めまで使われることになる。このためアッバース朝のカリフは以後宗教的な権威を保つに過ぎなくなり、政治・軍事の実権を失っていく。
トゥグリル=ベクは中央アジアから小アジアにまたがる広大な領域を支配下に置き、東方イスラム世界を統一して、ビザンツ帝国と抗争した。このセルジューク朝の小アジア進出が十字軍の原因となった。
大セルジューク朝(本家のセルジューク朝をこう呼ぶ、1038〜1157)の最盛期は、3代のマリク=シャー(位1072〜92)の時代で、彼はイラン人宰相のニザーム=アル=ムルク(1092没)の補佐のもと、政治・文化の黄金時代を現出した。イクター制が整備されたのもこの王の時である。
イクター制はブワイフ朝で創始され、セルジューク朝の時に西アジアで広く施行されるようになった土地制度である。イクターは国家から授与された分与地、あるいはその分与地での徴税権を意味する。ブワイフ朝では功臣や兵士などに国庫から現金で俸給を支払う代わりに、各人の俸給に見合う金額を徴収できる土地の徴税権を与え、農民や商人から直接徴税させた。セルジューク朝では分与地での徴税権を与えることは同様であったが、イクター保有者にその収入で兵士を養い、戦時にはこれらの兵士を率いて参戦する軍事奉仕を義務化した。そしてニザーム=アル=ムルクが兵士に忠誠を尽くさせるために世襲的領地の分与を制度化したので、イクターは以後世襲化されるようになった。
セルジューク朝はマリク=シャーの死後、内紛によって大セルジューク朝の他に、各地の分家である小アジアのルーム=セルジューク朝(1077〜1308)をはじめシリア・イラクのセルジューク朝など4つの小王朝が分立して、分裂状態に陥った。イラク=セルジューク朝(1117〜94)がホラズム朝に滅ぼされた1194年をもってセルジューク朝の滅亡としている。
ホラズム朝(アラビア語でフワーリズムとも呼ばれる、1077〜1231)は、ガズナ朝のトルコ系奴隷でホラズムの知事であったアヌーシュ=テギンが、セルジューク朝によってホラズム太守に任じられて、アム川下流域で独立して建てた国である。その子の時にホラズム=シャー(シャーはイラン語で「王」を意味する語)を称し(1097)、セルジューク朝からイランを奪い、やがてイラン全土を領有した。後に西遼(カラキタイ)を撃破し、イランから中央アジアにまたがる大帝国となった。第6代のアラー=ウッディーン=ムハンマド(位1200〜20)はゴール朝を滅ぼして(1215)アフガニスタンを奪ったが、その直後にチンギス=ハンに討たれ(1220)、ホラズム朝は事実上崩壊した。その子はさらにモンゴルに対する抗戦を続けたが、1231年に完全に滅亡した。
イスラム世界は、トルコ人の活躍によって発展を遂げてきたが、13世紀に入るとモンゴル人の侵入を受け、やがてその支配下に置かれた。
チンギス=ハンの孫のフラグ=ハン(1218〜65)に率いられたモンゴル軍は1258年にバグダードを陥れ、アッバース朝最後のカリフであるムスターシムを殺し、約500年間続いてきたアッバース朝をついに滅ぼした。
フラグ=ハン(位1258〜65)はイラン・イラクを征服してイル=ハン国(1258〜1353)を開いた。イル=ハン国は初めネストリウス派のキリスト教を保護し、イスラム教徒を圧迫したが、英主として名高い第7代のガザン=ハン(位1295〜1304)は、1万人のモンゴル兵とともにイスラム教に改宗し、イスラム教を国教とした。また彼は学芸・文化を保護し、イル=ハン国の最盛期を現出した。