1 イスラム帝国の成立

4 イスラム帝国の分裂

 アッバース朝の成立はイスラム世界の分裂の第一歩となった。

 アッバース朝の創始者であるアブー=アルアッバースはウマイヤ家一族の大虐殺を行い、東方世界ではウマイヤ家の血統は絶えたが、この時ウマイヤ朝第10代カリフの孫であったアブド=アッラフマーン(731〜788、位756〜788)は、かろうじてこの大虐殺を逃れ、シリアからモロッコまでの劇的な逃避行の後、ウマイヤ朝の旧臣の支持のもとでスペイン上陸を敢行し(755)、アッバース軍を倒して、コルドバに入城し、翌756年にウマイヤを再興した。この王朝は後ウマイヤ朝(756〜1031)と呼ばれる。

 後ウマイヤ朝の第8代のアブド=アッラフマーン3世(位912〜961)は、名君として名高く、926年に初めてカリフを称し、アッバース朝・ファーティマ朝に対抗する西カリフとして後ウマイヤ朝の最盛期を現出した。

 首都コルドバは、人口30万人に達し、西方イスラム世界の政治・経済・文化及び世界商業の一大中心地として繁栄した。

 後ウマイヤ朝の成立により、イスラム世界は東方のアッバース朝とイベリア半島の後ウマイヤ朝に分裂したが、アッバース朝が黄金期を築いたハールーン=アッラシードの死後(809)、次第に衰退すると、帝国内で各民族の自立の動きが活発となり、アッバース朝は分裂状態に陥っていく。

 9世紀後半には、エジプトのトゥールン朝や中央アジアでサーマン朝が自立し、10世紀初めにはチュニジアで過激シーア派のイスマーイール派がファーティマ朝(909〜1171)を建国した。ファーティマはアリーと結婚したムハンマドの娘の名である。

 ファーティマ朝は、969年にはエジプトを征服して、カイロ市を建設し、ここに都を置いた。

 ファーティマ朝の創始者は、建国の当初からカリフを称し、アッバース朝や後ウマイヤ朝に対抗した。後ウマイヤ朝の君主もファーティマ朝のカリフに対抗してカリフを称したので、10世紀のイスラム世界には3人のカリフが並立することになった。そのため、アッバース朝は東カリフ国、ファーティマ朝は中カリフ国、後ウマイヤ朝は西カリフ国とも呼ばれる。

 ファーティマ朝より少し遅れて、イランではシーア派の軍事政権が成立した。ブワイフ朝(932〜1055)である。シーア派のアブー=ジュジャー=ブワイがサーマン朝(875〜999)から自立して、イランの要地を領有した。

 その子の時にバグダードに入り(946)、アッバース朝のカリフから大将軍(アミール=ル=ウマラー)の称号を受け、イスラム法を施行する権限を与えられ、イスラム世界の実権を握った。そのためアッバース朝のカリフは名目的な存在となり、イスラム世界の分裂は益々激しくなっていった。

 ブワイフ朝は100年あまり続いたが、11世紀の半ばにセルジューク朝(セルジューク=トルコ)に滅ぼされた。  




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