3 イスラム帝国
ウマイヤ朝はアラブ第一主義をとり、征服地の非アラブ系改宗者(マワーリー)を差別したので、彼らは”アッラーの前に平等である”と説く「コーラン」の教えに反するとしてウマイヤ朝の政策に不満を抱いた。特にシーア派を信仰するイラン人がその中心であった。またアラブ人の中にもウマイヤ朝の政策を批判する者が出てきた。
こうしたシーア派や非アラブ系の改宗者の不満を利用し、イラン人の協力を得て、ウマイヤ朝を打倒し、アッバース朝(750〜1258)を開いたのが、アブー=アルアッバース(サッファーフ(カリフ名)、732頃〜754、位750〜754)である。
アブー=アルアッバースは、ムハンマドの叔父のアッバースの曾孫で、父の反ウマイヤ運動を引き継いで、サラサーン(イラン東部)で挙兵し、イラクに進出してクーファでカリフに推戴され(749)、翌年の戦いでウマイヤ勢力を掃討し、750年にアッバース朝を開いた。
激しい性格の持ち主であった彼は、政権を握るとウマイヤ家の人々を皆殺しにし、またアッバース朝の樹立に協力してきたシーア派の人々を殺戮し、スンニ派を採用し、自分の近親者で政権を固め、中央集権化をはかった。
アッバース朝が成立した翌年(751)に、イスラム軍は中央アジアのタラス河畔で高仙芝(?〜755、高句麗出身で唐に仕えた武将)の率いる唐軍と戦ってこれを撃破した。有名なタラス河畔の戦いである(751)。この戦いは当時の世界二大強国の激突でもあり、特にこの時イスラムの捕虜となった唐兵の中に紙すき工がいたことから、製紙法が西方へ伝播するきっかけとなった戦いとして有名である。8世紀以後、バグダードで製紙業が盛んとなり、製紙法は北アフリカを経て12世紀には西ヨーロッパに伝播することになる。
兄サッファーフの後を継いで第2代カリフとなったのがマンスール(位754〜775)である。マンスールはアッバース朝の中で最も傑出したカリフの一人と言われ、円形都市として有名な新首都バグダードを建設し(762〜766)、またササン朝の制度を採用し、イラン人を多く起用して国政の整備を行い、文化面にも力を注いだ。
第5代カリフのハールーン=アッラシード(763頃〜809、位786〜809)は、第3代カリフと奴隷出身の母との間に生まれ、異母兄が暗殺されたあとカリフの位に就いた。
ハールーン=アッラシードは歴代のカリフ中最も傑出した君主とされ、彼の時代にアッバース朝は黄金時代を迎えた。
彼は遠くインド王や有名なフランクのカール大帝と使節や贈り物を交換したと言われている。しばしば小アジア遠征を行い、ビザンツ帝国を圧迫した。
この頃、首都バグダードは世界一の大都市として繁栄した。最盛期の人口は100万人を超えた(150万人、200万人と書いている本もある)。このバグダードの繁栄ぶりは、有名な「アラビアン=ナイト(千夜一夜物語)」に描かれている。
ハールーン=アッラシードはこの「アラビアン=ナイト」に度々登場することでも有名である。しかし、彼は中央アジアの反乱鎮圧に向かう途中にトゥーズで病没した。
ハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎えたアッバース朝も、彼の死後まもなく帝国内の各地で自立の動きが盛んとなり、エジプトやイランには独立王朝が次々に成立し、アッバース朝は次第に衰退していく。
アッバース朝のカリフは、神の代理人としてイスラム法に基づいて政治を行い、官僚制を整備し、中央集権化を進めた。
アッバース朝のもとで、ウマイヤ朝時代のアラブ第一主義は改められ、イスラム教徒は神の前に平等であるとの原則が確立され、民族による差別が撤廃され、宰相にもイラン人を中心とするマワーリー(新改宗者)が採用されるようになった。
またアラブ人の特権は次第に廃止され、イスラム教徒であれば、アラブ人以外の人でもジズヤ(人頭税)は課せられなくなり、一方アラブ人でも征服地に土地を所有する場合にはハラージュ(地租)が課せられるようになった。
ウマイヤ朝までの「アラブ帝国」から、真の意味での「イスラム帝国」への変質がアッバース朝によって実現された。