1 イスラム帝国の成立

2 アラブ人の征服

 ムハンマドの死後、イスラム教徒は教団の指導者としてカリフを選出した。カリフは代理人・後継者の意味で、アブー=バクルが教団の指導者に選ばれたとき、この称号を用い、以後イスラム教徒全体の政治的首長の称号となった。

 初代カリフに選ばれたアブー=バクル(位632〜634)はムハンマドの親友で、早くから彼に従い、片腕として迫害に耐え、メディナに移ってからも教団の長老として重きをなしていた。 彼の娘がムハンマドの妻の一人になっていたので義父にあたる。 初代カリフに選ばれるとアラブ人の団結に力を注ぎ、各地に遠征軍を送り、後の発展の基礎を築いた。

 アブー=バクルの死後、彼の遺言で第2代カリフにはウマル(位634〜644)が就いた。ウマルは、初めはムハンマドを迫害する側にあったが、回心して熱心なイスラム信者となり、教団の重鎮となった。カリフに就任すると大規模な征服戦争(ジハード、聖戦)を継続し、シリア(635)・エジプト(642)をビザンツ帝国から奪い、642年のニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアを破り、これを事実上滅亡に追いやり、イラク・イランを征服して大帝国を形成した。征服地から租税の徴収を始めたり、イスラム暦を採用したのもウマルである。しかし、最後はイラン人奴隷に暗殺された。

 第3代カリフには、ウマイヤ家出身のウスマーン(オスマーン)(位644〜656)が選出された。彼もムハンマドの教友で彼の娘と結婚した。敬虔なイスラム信者であったウスマーンは「コーラン」を現在の形にまとめさせたことで知られている。彼も征服事業をさらに進めたが、ウマイヤ家の者を重用したために反対派に暗殺された。

 第4代カリフに選出されたのがアリー(位656〜661)である。ムハンマドは最初の妻ハディージャとの間に3男4女をもうけたが、男子はすべて早世し、ムハンマドの晩年までただ一人残った娘ファーティマの夫となったのが、ムハンマドの従兄弟であったアリーであった。アリーはハディージャに次いで2番目に入信したといわれ、ムハンマドから厚い信頼を受けていた。

 アリーは、第4代カリフに選出されたが、当時シリア総督であった実力者のムアーウィア(?〜680)は、第3代カリフのウスマーン(ムアーウィアの伯父)の暗殺にアリーが関係しているとして対立し、内乱を起こした。両者は戦いの後、いったんは休戦したが、講和に反対するハワーリジュ派の刺客によってアリーはクーファで暗殺された(661)。

 ムアーウィアは、アリーの暗殺後、自らカリフを称してウマイヤ朝(661〜750)を創始した。

 初代のアブー=バクルから4代のアリーまでは、ムスリムの選挙で選ばれたので、この時代を正統カリフ時代(632〜661)という。

 暗殺されたアリーの支持者達は、ムアーウィアが樹立したウマイヤ朝のカリフを認めず、ムハンマドの娘ファーティマと結婚したアリーとアリーの子孫だけがイスラムの最高指導者(イマーム)となる資格があるとするシーア派を形成していく。

 シーア派は、現在のイスラム教徒の約1割を占めている。アリーの息子がササン朝ペルシア(イラン人が建てた王朝)の王の娘と結婚したためイラン人の間に広まり、現在のイラン=イスラム共和国の国教となっている。

 これに対して、現在のイスラム教徒の約9割の多数派を占めているのがスンナ(スンニ)派である。スンナ派はウマイヤ朝のカリフを含めて代々のカリフを正統と認める立場を取っている。

 正統カリフ時代に、シリア・エジプト・イランを征服し、東は中央アジアから西は北アフリカ中央部にまたがる大帝国が形成されると、多くのアラブ人は征服地に移住した。今日のエジプトは9割以上がアラブ人で占められている。

 ウマイヤ朝を創設したムアウィア(?〜680、位661〜680)は、クライシュ族の名門ウマイヤ家に生まれた。彼の父はムハンマドを迫害する有力者の1人であったが、ムアウィアはムハンマドがメッカを征服するとイスラム教に帰依し、シリア征服に軍功をあげてシリア総督となり、ダマスクスを中心に勢力を伸ばした。第3代カリフのウスマーン(ムアウィアの伯父)が暗殺され、アリーが第4代カリフとなると、アリーがウスマーン暗殺に関係していると主張し、アリーと対立・抗争した。そしてアリーが暗殺されると、アリーの子にカリフ継承権を放棄させて、カリフとなり、都をメディアからダマスクスに遷して、ウマイヤ朝を開いた。以後、ウマイヤ家がカリフの地位を世襲し、ウマイヤ朝は14代続くことになる。

 ウマイヤ朝は第6代カリフのワリード1世(位705〜715)の時に、東は中央アジア・西北インドまで西は北アフリカの西まで征服した。さらにイベリア半島に進出してゲルマン人の国家である西ゴート王国を滅ぼし(711)、アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸にまたがる大帝国を建設し、ウマイヤ朝の最盛期を築いた。

 イスラム軍は、その後フランク王国に侵入したが、732年にトゥール=ポワティエ間の戦いでカール=マルテルの率いるフランク軍に敗れ、ピレネー山脈の南に退いた。

 ウマイヤ朝はアラブ第一主義をとり、アラブ人を支配者として、彼らに多くの特権を与えた。そして征服地の先住民にだけジズヤ(人頭税)とハラージュ(地租)を課し、彼らがイスラム教に改宗しても免除されなかった。

 ジズヤは異教徒の支払う人頭税で、ムハンマドはユダヤ教徒とキリスト教徒(彼らは啓典の民と呼ばれ、他の異教徒とは区別された)に課して、そのかわりに信仰の維持を認めたが、正統カリフ時代には征服地の異教徒に拡大された。自由身分の成年男子に課し、貨幣で徴収した。

 ハラージュは地租で、第2代カリフのウマルがイラクで最初に徴収した。アラブの征服が農耕地帯に拡大するにつれて、国庫収入の大部分を占めるようになった。最初は土地面積に応じて一定額を徴収していたが、8世紀末から実際の収穫の半分を徴収するようになった。貨幣または現物、およびその併用で徴収された。

 正統カリフ時代からウマイヤ朝にかけては、アラブ人が支配者として特権を持ち、被征服民を差別して支配したので、この大帝国はアラブ帝国とも呼ばれる。

 14代、90年間続いたウマイヤ朝は、750年にアッバース朝に滅ぼされた。




目次へ戻る
次へ