4 モンゴル民族の発展

6 隣接諸国の変遷

 王建(877〜943、高麗の太祖(位918〜943)は、新羅末期におこった反乱軍の指導者弓裔(きゅうえい)の部将として頭角を現し、弓裔が人望を失うと諸将に擁立されて王位につき、高麗(918〜1392)を建国し、都を自分の出身地である開城に置いた。

 王建は、新羅の諸制度を受け継いで支配体制を整える一方、国内の諸勢力を抑えて統一を達成した(936)。彼は新羅の貴族・地方豪族を迎え入れるとともに、自分は高句麗の子孫であるとの意識を持ち、渤海が契丹に滅ぼされると(926)、渤海の遺民を積極的に受け入れて中央集権体制の確立に努めた。

 6代目の成宗(位981〜997)は、唐・宋の制度にならって官制を整備し、中央集権体制を確立した。以後、12世紀前半まで高麗は全盛期を迎えた。しかし、その頃から特権官僚の族党間の抗争が激化するなかで、武人が台頭し、12世紀末には崔氏の武人政権が成立した。

 13世紀に入ると、モンゴルの侵入を受け、高麗は江華島に逃れて抵抗したが、崔氏の政権没落後、元に降伏してその属国となった(1259)。フビライの日本遠征の基地となって軍船の建造などに苦しめられた。さらに14世紀になると、今度は倭寇の侵入に苦しめられ、国力がさらに衰退する中で、武将の李成桂(李朝の太祖)に国を奪われ、高麗は34代・475年で滅びた、

 高麗では、仏教が国家の保護を受けて盛んで、「高麗版大蔵経」が2回刊行された。2回目は高宗(位1213〜1259)の時代に、モンゴルの侵略下で仏の加護を祈って行われた。

 高宗の時代に、世界最古の金属活字が発明されたといわれている。
 また高麗では、宋から学んだ製陶技術が発達し、美しい高麗青磁が作られ、多くの優れた作品が生み出された。

 ヴェトナムは唐末・五代の時期に、それまでの1000年にわたる中国支配から独立し、いわゆる初期三王朝が成立した。呉権は、南漢との戦いに勝利をおさめ、自立して王を称し、呉朝を建て(939)、丁部領(ディンボーリン)が丁朝(968〜980)を、黎桓(れいかん)が前黎(れい)朝(980〜1008)を建てたがそれぞれ短命に終わった。この呉朝・丁朝・前黎朝を総称してヴェトナムの初期三王朝と呼ぶ。

 この初期三王朝の後を受けて、李公蘊(りこううん、太祖、位1010〜1028)によって、ヴェトナム最初の本格的な統一王朝である李朝大越国(1010〜1225)が建国された。

 李朝は、中国にならって中央官制・軍制を整備し、また科挙を取り入れて中央集権国家の樹立をめざした。李朝では儒学が重視されたが、仏教も盛んだった。李朝は宋軍の侵入を撃退し(1075)、さらに南方のチャンパーに侵略して領土の拡大をはかるなど国力が充実し繁栄したが、7代高宗(位1175〜1210)の頃から国内が乱れて衰退に向かい、陳朝によって滅ぼされた(1225)。

 陳けい(位1225〜1258)は、李朝最後の女帝から譲位されて陳朝(1225〜1400)を建てた。陳朝も国内諸制度・科挙を整備し、中央集権体制を強化した。

 陳朝はヴェトナム人の民族意識が高揚した時期といわれている。ヴェトナムの歴史の編纂が行われ、字喃(じなん、チュノム)と呼ばれる漢字を利用して作られたヴェトナム固有の文字が作られ、広く使用された。 

 13世紀には、フビライの三度にわたる侵入(1257、84、87)を撃退し、南方のチャンパーに侵略するなど国力が充実した。しかし、1400年に権臣に王位を奪われて滅びた。

 陳朝の滅亡後、明の永楽帝に征服され、ヴェトナムは再び中国の支配下に置かれた(1400〜28)。

 雲南では、10世紀に南詔国(?〜902)に替わって、タイ人が大理国(937〜1254)を建国したが、フビライに征服されて滅びた。 




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