4 モンゴル民族の発展

5 東西文化の交流と元代の文化

 モンゴル帝国の成立によってユーラシア大陸の大部分がモンゴル民族の支配下に置かれたこと、モンゴル帝国は駅伝制を整備して通商路の安全の確保に努めたこと、また元朝がモンゴル人第一主義をとり色目人を重用したことなどから、シルクロードを往来する隊商の数は著しく増加し、中央アジア・西アジア・ヨーロッパから多くの商人・宣教師・旅行家などが中国を訪れ、人と物の移動に伴って東西文化の交流も盛んとなった。

 当時のヨーロッパは十字軍の時代で、またアジアにキリスト教の司祭王がいるという「プレスター=ジョン」伝説が信じられていたので、イスラム教徒を征服したモンゴル帝国に関心を持ち、司祭王を探し出してイスラム教徒を挟撃する目的で教皇やフランス王の使節がモンゴル高原に送られた。

 イタリア人のフランチェスコ会修道士のプラノ=カルピニ(1182頃〜1252)は、バトゥのヨーロッパ侵入に驚いた教皇インノケンティウス4世の使節としてカラコルムに派遣された。彼はモンゴル人への布教とモンゴル国内の偵察を目的にフランスのリヨンを出発し(1245)、キエフ・サライ(キプチャク=ハン国の首都)を経てカラコルム付近に至り、教皇の親書を手渡し、返書を得て翌年帰国した。彼の報告書(旅行記)はヨーロッパに初めてモンゴルの実状を伝えたものとして重要な史料となっている。

 ウィリアム=ルブルック(1220頃〜93頃)はフランスのフランチェスコ会修道士で、フランス王ルイ9世の使節としてキリスト教の布教とイスラム教徒に対する十字軍への協力を要請することを目的にカラコルムへ派遣された。彼はコンスタンティノープルを出発し(1253)、南ロシアを経てカラコルムに到着し、モンケ=ハンに会見した(1254)。彼も後に旅行記を著したが、カルピニの旅行記とともに当時のモンゴル・中央アジアを知る貴重な史料となっている。

 有名なマルコ=ポーロ(1254〜1324)は、ヴェネツィアの豪商の子として生まれた。 17歳の時に、フビライの宮廷を訪れて帰国した父と叔父の二度目の旅行に同行して中国へ向けて出発した(1271)。彼らは中央アジアを経て上都(開平)に至り、フビライに謁見し(1275)、やがて大都の宮廷でフビライに仕えることになった。

 マルコ=ポーロはフビライの厚い信任を受け、地方官として各地に赴任し、またフビライの使節として各地を訪れた。彼の中国滞在は17年間に及んだ。望郷の念にかられた彼は帰国の許可を願い出たがなかなか許されなかった。

 元朝の皇女がイル=ハン国に嫁ぐ際にやっと許されて随行を認められ、ザイトン(泉州)を出航し(1290)、マラッカ海峡・インド洋を経てイランのホルムズに上陸し、イル=ハン国の宮廷にしばらく滞在したのちコンスタンティノープルを経てヴェネツィアに帰国した(1295)。帰国した彼はジェノヴァとの戦いで捕虜となり(1298)翌年釈放されたが、獄中での旅行の見聞談を同囚の友人ルスチアーノが筆録したのが有名な「世界の記述(東方見聞録)」である。

 「世界の記述(東方見聞録)」の中には日本の記述もあり、「黄金の国ジパング」として紹介されている。その一節に「ジパング(日本)は東海の一島で、大陸或いはマンジ海岸から約1500哩(マイル)のところにある。この島はかなりの大きさで、住民は皮膚の色が美しく、姿がよく、礼儀正しい。宗教は偶像崇拝である。彼らはいかなる外国勢カにも服さず、彼ら自身の王達の支配のみを受けている。黄金が非常に多く、無尽蔵であるが、王がその輸出を許さないので訪れる商人は僅かしかない。・・・王宮の屋根は凡て黄金の板で葺いてある。・・・広間の床も同じく黄金で、沢山の部屋にはかなりの厚さの純 金のテーブルがあり、窓にも黄金の飾りがついている。・・・この島の富はこれほど有名であつたので,現王フビライ汗の胸中に、この島を征服し領土としようとする欲望がかき立てられた。・・・この島の住民は敵を捕虜にした時、その者が身代金を調達できないと、家に親類や友人を招き、捕虜を殺して料理し、酒宴を開き、人肉ほど美味いものはない と言つて食べる・・・。」とある。

 イブン=バトゥータ(1304〜68/69 あるいは77)はモロッコのタンジールに生まれ、22才の時にメッカへの巡礼の旅に出た。メッカに巡礼を終えた彼は、さらにキプチャク=ハン国を訪れ、その後中央アジアを南下してインドに入り、約10年間滞在した。のち中国の元朝への使節団に加わり、海路中国に至り(1345)、泉州・広州・杭州・大都(北京)を訪れた後、海路で帰国した(1349)。

 大都生まれのウイグル人でネストリウス派の司祭であったバール=サウマ(ラッバン=ソーマ)(?〜1294)は、イェルサレムへの巡礼に出発し、のちイル=ハン国王(イル=ハン国は初めネストリウス派キリスト教を保護した)の使節としてローマ・パリを訪れ、教皇やフランス王に謁見した。その時教皇に西ヨーロッパキリスト教徒とモンゴル人との提携を説き、教皇がモンテ=コルヴィノを大都に派遣するきっかけをつくった。

 モンテ=コルヴィノ(1247〜1328)はイタリア人のフランチェスコ会修道士で、教皇の命を受けてイル=ハン国を経て海路中国へ向かい、泉州を経て大都に着いた(1294)。のち教皇から大都教区大司教に任命され(1307)、30余年間にわたって大都で布教に従事したが、大都で病没した。

 中国には、唐代にネストリウス派キリスト教が伝わり景教と呼ばれたが、ネストリウス派キリスト教はヨーロッパでは異端とされたキリスト教であるので、西ヨーロッパで信仰されていたローマ=カトリック教が中国に伝わったのはこの時が初めてである。

 元朝が優遇した色目人にはイスラム教徒が多かったので、中国でもイスラム教が次第に広まり、天文学・数学などを中心とするイスラム文化が中国に伝えられた。

 郭守敬(1231〜1316)は、フビライに仕えて多くの水利事業を行ったが、従来の暦が不正確になり、暦法の改革の事業が行われるとこれに参加し、多くの観測機械を製作して精密な観測を行い、授時暦を制定した(1280)。

 授時暦はイスラムの天文学に基づいて作られた暦で、1年を365.2425日とする太陰暦である。日本にも影響を及ぼし、江戸時代に作られた貞享暦(じょうきょうれき)はこの授時暦を基礎として作られた暦で1685年から1872(明治5年)まで使用された。

 またイラン・インドには、モンゴルの進出によって中国絵画が伝えられ、その影響を受けてミニアチュール(細密画)が盛んとなった。

 モンゴル人は中国を征服する前から西方の高度なイスラム文化に接していたので、中国文化にはコンプレックスを持たず、中国固有の学問・思想には関心を示さなかったので儒学は不振をきわめた。その一方でモンゴル人に理解されやすかった戯曲・小説を中心とする庶民文化は宋代に引き続いて発達した。

 元の庶民文化を代表するのが、元曲(雑劇)である。宋代から盛んとなった雑劇は、元代に形式も整い元曲として大いに栄え、「漢文・唐詩・宋詞・元曲」と呼ばれ、中国文化史の上で重要な地位を占めている。

 元曲は、琵琶・琴・三弦などの楽器に合わせて俳優が演じ・歌い・語る古典劇で、せりふは全て口語であったので庶民に愛好された。現在約300の脚本が残っている。代表的な作品としては「西廂記」・「琵琶記」・「漢宮秋」などがある。

 「西廂記」は、愛する男女が上流階級の封建的なしきたりのために離ればなれになるが最後は結ばれるという恋愛物語である。

 「琵琶記」は、主人公が妻を残して科挙の受験のために都に出て行き、優秀な成績で合格し、宰相に見込まれて娘と結婚し、出世して幸せな生活を送っていた。田舎に残された妻は貞節を守り、夫の母を養いながら待つが飢饉で母が亡くなったので夫を捜すために都に出ていく。上京してみると夫は栄華を極めていて近寄ることもできなかったが、苦難の末に夫と再会して幸せに暮らすという作品である。

 「漢宮秋」は、前漢の元帝の宮女・王昭君が匈奴との和親政策のために、呼韓邪単于に嫁せられ、その地で亡くなったという哀話を劇化した作品である。

 また中国の四大奇書のうち、「三国志演義」・「水滸伝」の原形が出来たのも元代である。小説は、宋代から流行するようになった講釈が口語による文章として書かれ、庶民の間に広まっていった。「三国志演義」を読んでみても、もともと講釈師によって語られていたものであることがその形式に残っている。

 モンゴル人は、公用語としてはモンゴル語を用い、公文書はウイグル文字やパスパによって作成されたチベット文字を基礎とするパスパ文字が使用された。




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