4 モンゴル民族の発展

4 交通・貿易の発達

 モンゴル高原や中央アジアで活躍した遊牧騎馬民族は、古くから中継貿易による利益を重視し、通商路を攻略して支配下に治め、商人の通商の安全を守る代償として商品に課税し利益を得てきた。

 チンギス=ハンも、モンゴル高原を統一すると、中継貿易の利益に目をつけて中央アジアから西アジアに進出した。

 モンゴル帝国は、初期から通商路の安全を重視し、その整備や治安の確保に努め、駅伝制を施行した。

 チンギス=ハンは、遼・金の制度を継承して駅伝制(モンゴル語でジャムチ、站赤)を創設した。駅伝制はオゴタイ=ハンの時代に制度化され、元朝で完備された。

 元の駅伝制は、大都を中心とする主要道路に沿って、10里ごとに站(たん、駅)を置いて、民戸100戸を站戸とし、官命で旅行する官吏・使節などに人馬・食料を提供させた。 この駅伝制によって帝国内の交通が安全・便利となり、主にムスリム(イスラム教徒)商人の隊商による陸路貿易が盛んとなり、それにともなって東西文化の交流も盛んとなった。

 またインド洋経由の海上貿易も宋代に引き続いて盛んに行われ、杭州・泉州・広州などの港市が繁栄した。

 マルコ=ポーロは杭州(臨安)をキンザイと呼び、有名な「世界の記述(東方見聞録)」の中で、キンザイは世界一の都市であると記述している。杭州の当時の人口は約160万人といわれている。

 また泉州をザイトンと呼び、「ザイトンの港には、あらゆるインド船が入港し、香料その他の高価な商品を運んでくる。そしてマンジ(南宋の旧領)の諸地方の商人もこの港に集まってくる。・・ここからあらゆる商品がマンジ各地に送られていく。キリスト教徒の需要を満たすために、アレクサンドリアその他の港に胡椒船一隻が入港するのに対し、ザイトンの港には百隻、あるいはそれ以上の胡椒船が入ってくると言えよう。この港は世界における二大貿易港の一つである。・・」と記述している。二大貿易港のもう一つがどこかは記述が無く不明だが、彼の故郷のヴェネツィアとの説もある。

 元の首都大都には、多数の官僚や商人が集まっていたが、この付近では食料が自給できなかったので江南から運ばれた。そのため食料を初めとする江南の物資を華北に運ぶために、隋代以来の大運河を補修するとともに、華北から江南に会通河・済州河・揚州河・江南運河などの新運河が開かれた。

 またこれとは別に長江下流から山東半島を回って大都に方面に至る海運も発達した。そのため山東半島を南北に縦断する膠莱河も開かれた。

 貨幣としては、はじめ銅銭・金・銀が用いられたが、やがて交鈔(紙幣)が発行された。この交鈔は多額の取引や輸送に便利であったので、交鈔は元の主要通貨となり、フビライは交鈔を唯一の通貨とした。




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