4 モンゴル民族の発展

3 元の中国支配

 フビライ=ハン(世祖、位1260〜94)は、兄モンケ=ハンの死後、上都(開平)でクリルタイを開き大ハンの位についた(1260)。そしてカラコルムから大都(現在の北京)に遷都し(1264)、国号を中国風に元と称した(1271)。

 フビライは、彼の即位に反対するアリクブガの反乱を平定すると、全力をあげて南宋攻略にとりかかった。南宋の重要な拠点である襄陽を5年にわたる包囲戦で陥れると(1273)、さらに南下して長江中流の要衝である顎州(現在の武漢)を占領した。そして長江を下り、蕪湖で南宋軍を破り、首都臨安を包囲した。

 南宋では文天祥らが抗戦を唱えたが、皇太后は幼い恭帝(位1274〜76)をともなって元に降伏した。主戦論を唱えた陸秀夫らは恭帝の庶兄である端宗(位1276〜78)を擁立し、彼の死後は弟の帝モ(ていへい、位1278〜79)を擁立して海上に逃れ、福州・泉州を経て、最後はマカオの西南の崖山島に逃れたが、元軍の総攻撃を受けて南宋軍が全滅する中で、陸秀夫は幼い皇帝を背負って入水し、南宋はついに滅亡した(崖山の戦い、1279)。

 文天祥は、講和の交渉のために元の陣中に赴いたがそのまま抑留され、後に脱走して各地を転戦して元軍と戦ったが捕らえられて大都に送られ、のち死刑となった(1282)。

 南宋を滅ぼして中国全土を支配下に置いた元の領土は、フビライの時に最大となり、その領土は中国・モンゴル・満州に及び、チベット(1252年に服属)・朝鮮(高麗)・ミャンマー(ビルマ)を属国とした。

 高麗(918〜1392)は、オゴタイ=ハンの時代に元軍の侵入を受けて降伏した(1231)。しかし、その翌年都を開京から江華島に移してモンゴルに背いたのでモンゴルは再び大軍を送り込んだ。以後連年にわたって侵略し掠奪と破壊を続けた。高麗は再び降伏し、モンゴルの属国となった(1259)。モンゴルはダルガチ(占領地の統治官、長官)を派遣して高麗を直接支配し、以後モンゴル風を強制した。

 このモンゴルの占領下で三別抄(別抄は強兵で組織された軍団)が反乱を起こした(1270〜73)。別抄3軍団は最後は耽羅(済州島)にこもって抵抗したがついに鎮圧され、高麗は完全に属国となった。フビライは高麗を拠点とし、さらに日本を服属させようとした。

 これより前、フビライの使節が太宰府に来て国書を提出したいた(1268)。さらに翌年にも使節を対馬に派遣したが目的を果たせず、2年後にまた使節を遣わしたが(1271)、この使節も使命を果たせずに帰国した。

 フビライは高麗に軍船900隻の建造と兵員・水手の徴発を命じ(1274年初め)、その完成を待って、モンゴル・高麗の連合軍28000人の大軍が900艘に分乗して合浦を出発し、対馬・壱岐を襲い博多沖に攻め寄せた(1274.10)。しかし、暴風雨に遭って軍船の多くが覆没し、溺死した者約13500人といわれている(文永の役)。

 フビライは、その翌年また使節を派遣したが、時の執権北条時宗は全員を竜の口で斬った。フビライは再戦の準備を進めたが、南宋攻略軍が臨安に迫っていた時期であったので軍船の建造も一時中止した。しかし、南宋は臨安陥落の前に降伏し(1276)、崖山の戦いで滅亡した(1279)。

 フビライは、南宋を滅ぼすと南宋・高麗に軍船の建造を命じ、1281年今度は軍を二つに分け、一つは高麗から4万人の軍勢が900艘に分乗し、もう一つの軍は征服した南宋軍を主力として10万人の大軍が3500艘に分乗して江南を発した。7月、4400艘が博多湾に集結し、博多付近へ上陸を試みたが撃退され、鷹島に退いた。この時もたまたま台風に遭い、軍船の多くは覆没し、約10万人が溺死した(弘安の役)。

 フビライは三度目の遠征を企てたが、江南の反乱・ヴェトナムの反抗さらにハイズの乱とそれに呼応するモンゴル東部・満州での反乱が起こり、フビライはついに日本遠征を断念せざるを得なくなった。

 フビライは日本・ヴェトナム・ジャワに遠征軍を送ったが、その遠征は強い抵抗にあって失敗に終わっている。

 ヴェトナム南部のチャンパ(占城)が反抗したので、海路大軍を送り込み王城を占領したが、ここでも暴風に襲われ多くの軍船を失って引き上げた(1283〜84)。

 またヴェトナム北部の陳朝(1225〜1400)に2回(1284、87)にわたって陸路侵略したが、酷暑と泥濘に苦しみ、ヴェトナム人の粘り強い反抗にあって撤退した。

 ジャワ島のシンガサーリ朝(1222〜92)の王が元の使者を追い返したのでジャワ遠征を行ったがこれも失敗に終わった(1292)。

 しかし、ミャンマー(ビルマ)ではパガン朝(1044〜1287)を滅ぼし、これを属国とした。

 南宋を滅ぼし中国全土を支配下においた元朝は、人口の8割以上を占める漢人統治にあたってはモンゴル人第一主義を原則とし、 従来の州県制に基づく統治を行った。

 モンゴル人第一主義は民族差別に基づく身分制度で、人々をモンゴル人・色目人・漢人・南人に分け、中央政府の首脳部と地方行政機関の長はモンゴル人が独占した。

 色目人は諸色目人(色々の目の色をした人々の意)の略で、中央アジア・西アジア出身の異民族を指し、モンゴル人に次いで重用され、モンゴル人とともに支配階級を形成し、主として経済・財政面で活躍した。なおヨーロッパの人々もこの中に入る。 

 支配階級であるモンゴル人と色目人を合わせて人口は約200万人で、その人口構成比は約3%であった。

 漢人は、金の支配下にあった人々の総称で女真・契丹・高麗・渤海の人々と淮河以北に居住していた漢人などが含まれ、人口は約1000万人、人口構成比は約14%であった。

 そして南人は南宋の支配下にあった漢民族を指し、人口は約6000万人、人口構成比は約83%を占めた。

 漢人・南人は被支配者階級であり、特に人口の大部分を占める南人は最下層に置かれ徹底的に差別された。わずか3%の支配階級が97%の漢民族・女真人・契丹人などを支配したのがモンゴル人第一主義である。

 モンゴル人第一主義のもとでは、重要官職はすべてモンゴル人と色目人が独占したので、従来の官吏任用制である科挙は一時停止された。 中国文化に理解を示した第4代の仁宗の時に復活したが(1313)、 それもモンゴル人・色目人と漢人には別々の試験が課され、しかも試験の難易に差が付けられていて、モンゴル人や色目人に有利になっていた。

 こうしたなかで、今までの中国社会では人々から尊敬されてきた士大夫階級、特に儒学者は冷遇された。当時の人々の社会的地位を順にあげている記録に「官・吏・僧・道・医・工・匠・娼・儒・丐」をあり、儒学者は9番目におかれ、かろうじて丐(乞食)の上に 置かれる存在であった。

 支配階級で貴族階級であるモンゴル人の数は極端に少なく、彼らは大土地を所有したが遊牧民族である彼らは中国の農耕社会に根をおろすことはなかった。彼らの所有する大土地は宋代と同様に佃戸によって耕された。よく言われるようにモンゴル人は中国社会に寄生しているに過ぎなかった。

 世祖フビライ=ハンの死後、孫の成宗(位1294〜1307)が継ぎ、世祖の方針を守り、国内・対外的にも平和を維持したが、次の武宗(位1307〜11)の時代になるとチベット仏教(ラマ教)信仰による莫大な出費・交鈔(紙幣)の乱発などにより財政が混乱した。

 チベット仏教(ラマ教)は、フビライがチベット仏教の教主パスパを国師に迎えて保護したので元朝で大いに栄えた。

 パスパ(1235(39)〜80)はチベット仏教(ラマ教)のサキャ派(紅帽派)の教主で、幼時より聡明でパスパ(聖者)と呼ばれた。即位前のフビライの信任を得て授戒し、フビライの即位とともに国師となり、モンゴル帝国内の仏教の統治権を与えられた。

 またパスパはフビライの命を受けて、チベット文字を基礎とするパスパ文字を考案した(1269年に公布)。パスパ文字は正式の国字となり、公文書に使用されたが、読みにくくまた書きにくかったためにあまり普及しなかった。

 元朝では、以後チベット仏教(ラマ教)が大いに栄え、ラマ僧は尊崇された。また壮大なラマ教寺院が次々に建立され、豪華な法要が営まれ、そのために莫大な国費が費やされた。

 宮廷貴族のぜいたくな生活やチベット仏教(ラマ教)の信仰による莫大な出費などにより、元の財政は窮乏した。

 財政難を切り抜けるために、元朝は塩・茶・酒の専売制を強化し、交鈔を乱発した。交鈔は元の主要通貨となった紙幣で、フビライは交鈔を唯一の通貨とした。フビライの頃は交鈔は銅銭の代用として使用され、銅銭2貫文が銀1両とされ、交鈔の発行高に見合う銀が国庫に用意されていたが、その乱発により銀準備不足に陥り、通貨の価値が暴落し、激しいインフレを引き起こし、物価の上昇は民衆の生活を苦しめた。

 第4代の仁宗(位1311〜20)は中国文化を尊重し、科挙の復活などを行った。次の英宗(位1320〜23)は禁軍の強化など皇帝権の強化に努めたが、その急激な改革に反対する勢力によって暗殺された。

 その後、元朝内部ではハン位の相続争いが続き、一方で財政は窮乏した。そして交鈔の乱発によるインフレは民衆の生活を圧迫し、社会不安が増大した。

 第11代ハンに順帝(位1333〜70)が即位したが、順帝は権臣に政権をゆだね、政治から逃避して逸楽に溺れた。このため国内は乱れ、紅巾の乱(白蓮教徒の乱、1351〜66)など反元の反乱が相次いだ。

 紅巾の乱から身を起こして明(1368〜1644)を建国した朱元璋(明の太祖洪武帝)が北上して大都を陥れ、元を滅ぼした(1368)。順帝は、大都から上都へ、さらに応昌に逃れたがそこで病死した。

 順帝の子、昭宗(位1371〜78)は、モンゴル高原に退いて北元(1371〜88)を建国したが、その子の時に明の遠征軍に敗れて部下に殺され、北元は2代で滅びた。




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