4 モンゴル民族の発展

2 モンゴル帝国の分裂

 モンゴル帝国は、13世紀の中頃には、東は中国の華北から西は西アジア・ロシアにまたがる空前の大帝国となった。しかし、この大帝国には遊牧地帯と農耕地帯があり、宗教や文化の異なる民族が多数いたので、全領土を一つの国家として支配することはもともと困難であった。

 チンギス=ハンが西征の後、領土を子どもたちに分け与えた頃からこの大帝国に分裂の傾向が現れ、フビライが大ハンの位についた(1260)頃にはモンゴル帝国は、元と西北モンゴルのオゴタイ=ハン国・中央アジアのチャガタイ=ハン国・ロシアのキプチャク=ハン国そしてイラン方面のイル=ハン国の4ハン国に事実上分裂した。

 フビライ(1215〜94)は、モンケ=ハンが即位すると、中国(華北)の大総督に任命され華北経営にあたるとともに、吐蕃(チベット)・大理(雲南)に遠征を行い、これを征服した。

 モンケが南宋攻略中に四川で病没したとき、フビライは顎州(がくしゅう、今の武漢)を包囲していた。モンケ=ハンの直属軍は本国に引き揚げたが、フビライは安南(ヴェトナム)に出兵している部将を見殺しに出来ず、その北上を待って合流して長江を渡り、上都(開平)に引き上げた。

 モンケ=ハンの死後、フビライは次のハンの有力な候補者であったが、首都カラコルムに残っていた末弟のアリクブガはモンケ=ハンに最も寵愛されていたので、モンケ=ハンの死後、後事を託されていたと唱え、クリルタイでハン位に推戴されるよう画策していた。これに対してフビライの最も有力な支持者であるフラグは西アジアにいて頼みにならず、クリルタイにおける選挙の結果は予断を許さない情勢であった。

 そこで南宋攻略のための大軍を握っていたフビライは実力でハン位を争うことを決意し、有力者の不参加を無視して北京の北方にある上都(開平)でクリルタイを開き、推戴されて大ハンの位についた(1260)。

 フビライの即位に対しては方々で反対が起こった。アリクブガは、フビライのクリルタイを認めず、反対派から推戴されて大ハンを名乗り、軍備を整えて敵対した。フビライはしばしば敗北したが、劣勢を盛り返して敵軍を破り、ついにアリクブガを降伏させた(1264)。アリクブガは降伏したが、今度はハイドゥが反乱を起こした。

 ハイドゥは、オゴタイ=ハンの孫で、グユク=ハンの死後、ハン位がオゴタイ系からトゥルイ系に移ったことに不満を持ち、モンケ=ハンの即位の時に暗殺を謀ったが失敗し、封地を削減されていた。フビライが即位してアリクブガと対立すると、アリクブガを支持して反乱を起こした(1266)。しかしこれも失敗に終わると、キプチャク・チャガタイ・オゴタイの3ハン国連合の盟主となって元朝に反抗を続けたが、戦傷がもとで没した(1301)。 

 この40年近くに及ぶハイドゥの乱(1266〜1301)によってモンゴル帝国の分裂は決定的となった。

 オゴタイ=ハン国(1225頃〜1310)は、オゴタイ=ハンおよびその子孫がジュンガリア地方に建てた遊牧国家で、首都はイリ川の西北エミールにおかれた。元朝に対してはしばしば反乱を起こした。ハイドゥの乱がその最大のものである。後にチャガタイ=ハン国に併合された。

 チャガタイ=ハン国(1227〜14世紀後半)は、チャガタイがイリ川からシル川にかけて建国した遊牧国家で、イリ川流域のアルマリクを都とした。ハイドゥの乱後まもなくオゴタイ=ハン国を併合したが、14世紀にイスラム化し、内紛によって東西に分裂した(1321)。このうち西チャガタイ=ハン国はティムールによって滅ぼされた。 

 キプチャク=ハン国(1243〜1502)は、チンギス=ハンの孫のバトゥが西征の帰途に南ロシアに建てた遊牧国家で、都はヴォルガ下流のサライにおかれた。14世紀前半に在位したウズベク=ハンはイスラム教を正式に採用し、また商業・貿易を奨励して最盛期を現出した。しかし、14世紀末にティムールにサライを掠奪されて衰え始め、さらに支配下にあったモスクワ大公国が次第に台頭し、そのイヴァン3世の時に独立した(1480)ため崩壊した。

 イル=ハン国(1258〜1353(1411))は、チンギス=ハンの孫のフラグが、1258年にアッバース朝を滅ぼし、イラン地方を支配して建てた国で、都はカスピ海南西のタブリーズにおかれた。イル=ハン国は元朝と友好を保ち、キプチャク・チャガタイ両ハン国と抗争した。

 イル=ハン国は、初めネストリウス派キリスト教徒を保護し、イスラム教徒を圧迫したが、第7代の英主ガザン=ハン(位1295〜1304)は、イスラム教に改宗し、これを国教とした。また彼はイラン人のラシード=ウッディーンを宰相に任命し、セルジューク朝のイクター制を採用し、学芸・文化を保護するなどイル=ハン国の黄金時代を築いた。しかし、その後はハン位争いや内乱に苦しみ、14世紀後半には分裂し、その領土はティムールに征服・併合されていった。




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