1 モンゴル帝国の成立
モンゴル高原は、東は大興安嶺から西はアルタイ山脈、南は陰山山脈から北はシベリアに至る高原の砂漠・草原地帯である。ゴビ砂漠によって南北に分けられ、北を外モンゴル、南を内モンゴルと呼ぶ。
モンゴル高原では、古くからモンゴル系やトルコ系の遊牧民族が活躍してきたが、9世紀頃にトルコ系のウイグル人が西方に移動した後は、モンゴル系諸部族の居住地となった。
10世紀以後、契丹人が遼を建国して強大となると、モンゴル諸部族の多くはこれに服属した。しかし、12世紀初めに遼は金に滅ぼされ、しかも金の勢力は外モンゴルに及ばなかったので、モンゴル高原の諸部族はその勢力を拡大しようとして争いを繰りひろげた。
言うまでもなく、遊牧民族の財産は馬・羊などの家畜である。その家畜を養うためには水と草が必要である。モンゴル高原には肥沃な草原地帯はそんなに多くない。古来、豊かな草原地帯として知られてきたのが、外モンゴルの中央部にあるオルコン川やセレンガ川一帯の草原地帯であった。 モンゴル部もオノン川・ケルレン川のほとりを根拠地として、西方のオルコン川やセレンガ川流域への進出の機会をねらっていた。
そのモンゴル部に、12世紀後半、一人の英雄が現れた。世界史上最も有名な人物の一人であるチンギス=ハンである。
チンギス=ハン(1162〜1227、生年については異説が多い)、幼名テムジン(鉄木真)はモンゴル部の有力な部将イェスガイの子として生まれた。ところが、テムジンが13歳の時に、父がタタール部によって毒殺されたため、父の部下の多くが離散してしまい、テムジン一家(母と5人の子)は窮乏のどん底に陥った。一家はブルカン山に逃れ、木の実や草の根をも食べながら困窮の生活に耐えた。
こうした逆境の中でテムジンは、草原の戦いに参加して鍛えられながら優れた指導者に成長していった。そして同族のジャムカやケレイト部のワン=ハンと同盟して勢力の拡大に努め、やがてモンゴル部の長に推戴された(1188)。 その後、金と協力して父の仇敵であったタタール部を破った(1196)。テムジンの勢力が強まるとワン=ハンと敵対することとなったが、これを破ってケレイト部を滅ぼし(1203)、さらにナイマン部・メルキト部を滅ぼした。ジャムカはこの時ナイマンの陣営に加わっていたが捕らえられて殺された。こうして、もはやモンゴル高原にはテムジンに敵対する勢力はなくなった。
1206年に全モンゴルの部族の長が集まって開かれたクリルタイ(モンゴル語で「集会」の意味、有力者が集まり、ハンの選定・遠征の決定・法令の発布など国家の重要事を合議・決定した)で、テムジンは全モンゴルのハン(カン、汗とも、突厥・ウイグル・モンゴルの君主の称)に推戴され、チンギス=ハンの尊称を与えられた。チンギスとは、”強大”を意味する語とも、シャーマニズムにおける最高神”光の神”の意味とも言われている。
チンギス=ハン(太祖、成吉思汗、位1206〜1227)は、全モンゴルを統一すると、モンゴル帝国(1206〜1271)の建国の功臣88人を千戸長に任命し、95の千戸を編成した。この千戸制は、全遊牧民を95の千戸集団に分け、それぞれをさらに百戸・十戸に分けて、各々に長を置く軍事・行政組織で、モンゴルの強力な軍事力の基礎となった。
チンギス=ハンは、全モンゴルを統一すると、シルク=ロードの貿易による利益に目をつけ、これを手中に収めるために侵略の矛先をシルク=ロードの確保・支配に向け、まず西夏に侵入し、これを屈服させた(1209)。さらに金を攻撃して和議を結び、多額の金銀・絹・馬を贈らせることを約束させた(1214)。
この頃、西アジアのホラズム朝が和平の使節を送ってきた。チンギス=ハンも莫大な贈り物とともに返礼の使節を送ったが、その隊商隊がホラズムのオトラルに着いたとき、その町の知事は使節を殺し、物資を掠奪した。このことがチンギス=ハンの大規模な西征のきっかけとなった。
チンギス=ハンは、中央アジアに軍を進め、西遼(カラ=キタイ)を滅ぼしてその故地を奪ったナイマン部を滅ぼし、翌1219年に20万の大軍でホラズム朝に侵入し、オトラルついで首都のサマルカンドを陥れ、抵抗する住民を皆殺しにし、あらゆる財物を掠奪し、ホラズム朝を事実上滅亡に追いこんだ(1221)。さらに逃げるホラズムの王子を追って西北インドに侵入し、別働隊はイラン・南ロシアに侵入し、これを征服した。
チンギス=ハンは、次男のチャガタイ・三男オゴタイ・末子トゥルイとともにモンゴル高原に凱旋したが(1225)、長男のジュチは南ロシアに留まった。
チンギス=ハンは、帰国後征服した広大な領域を一族の者に分け与えた。長男ジュチに南ロシアを、次男のチャガタイに中央アジア西部を、三男オゴタイに中央アジア東部を、そして末子のトゥルイにはモンゴル本土を相続させようとした。モンゴル民族をはじめ遊牧民族の間には末子相続の慣習があり、この時点ではチンギス=ハンの所領はトゥルイが相続すると考えられていた。 南ロシアに留まっていたジュチはまもなく亡くなり、その後をジュチの子のバトゥが継いだ(1224または25)。
チンギス=ハンは帰国後、休む間もなく西夏に遠征し、ついに西夏を滅ぼしたが、その帰途の陣中で没した(1227)。
チンギス=ハンの死後、モンゴルの慣習に従って末子のトゥルイが国政を執り、次のハンを選定するクリルタイもトゥルイによって召集された(1229)。クリルタイではトゥルイを推す者も多かったが、チンギス=ハンの遺言によって三男のオゴタイがハンに推戴された。オゴタイは温厚な性格で、仲が悪かった長男ジュチと次男チャガタイの不和をいつも調停するなど人望もあったので、チンギス=ハンはオゴタイを後継者にしたといわれている。
オゴタイ=ハン(太宗、1186〜1241、位1229〜41)は、即位するとチンギス=ハンの宿願であった金攻略に乗り出し、南宋と結んでついに金を滅ぼした(1234)。これによって淮水以北の広大な農耕地帯がその支配下に入ったが、漢人の支配にはチンギス=ハンの遺言に従って遼の王族出身の耶律楚材(1190〜1244)を用いた。
オゴタイ=ハンはオルコン川上流のカラコルムに長方形の城壁に囲まれた中国風の首都を建設した。そしてカラコルムと占領地との間に公道を建設し、駅伝制(ジャムチ)を整備した。また甥のバトゥに命じてヨーロッパ遠征(1236〜42)を行わせるなど領土の拡大に努めた。
バトゥ(1207〜55)は、チンギス=ハンの長男ジュチの次男で、父の死後南ロシアの所領を受け継ぎ、ヨーロッパ遠征の総司令官となり、15万の大軍を率いて東欧に向かった。翌年モスクワを陥れ、ドン川のほとりで軍馬を休ませ、1年にわたって兵力を蓄えた後、ロシアの中心都市キエフを攻略して(1240)全ロシアを征服し、バトゥの本隊はハンガリーに向かった。
副司令官のスブタイの率いる別隊はポーランドに侵入した。シュレジェン侯ハインリヒ2世の率いるポーランド・ドイツ連合軍がポーランドのリーグニッツ東南でモンゴル軍と戦ったが敗れ、ハインリヒは戦死した。後にこの地はワールシュタット(死体の地)と呼ばれたので、この戦いはワールシュタット(リーグニッツ)の戦い(1241)と呼ばれる。 ポーランド各地を荒掠した後、南下してバトゥの本隊と合流し、ハンガリーを征服した。
次は西ヨーロッパ諸国がモンゴル軍の侵略の恐怖にさらされることとなったが、モンゴル軍は翌年にわかに撤退を始めた。オゴタイの死(1241)の報が伝えられたためであった。 しかし、バトゥはモンゴル本国に帰国せず、ヴォルガ下流のサライに留まり、父ジュチの封土に南ロシアのキプチャク草原一帯を加えて、サライを都とするキプチャク=ハン国(1243〜1502)を創建し、その初代のハンとなった。
オゴタイ=ハンの死後、その皇后が監国となって政務をみた。彼女はオゴタイの子のグユクをハン位につけたかったが、グユクとかねてより仲が悪かった最長老のバトゥはグユクの即位に反対し、南ロシアに留まってクリルタイに出席しようとしなかった。
オゴタイの死から5年後に、バトゥが欠席する中でクリルタイが開かれ、グユク(位1246〜48)が大ハンに選ばれて即位した。しかし、グユクはわずか在位2年で病死した。そのため汗位相続争いが再燃した。バトゥは自らの手でクリルタイを開き、強引にチンギス=ハンの末子のトゥルイの長男モンケを第4代の大ハンに選出した。
モンケ=ハン(憲宗、1208〜59、位1251〜59)は即位すると、オゴタイ系の諸王を処分し、ハンの権威の確立に努めた。対外的には弟のフビライ(1215〜94)を中国(華北)の大総督に任命して華北経営にあたらせるとともに、吐蕃(チベット)・大理(雲南)遠征を行わせた。また同じく弟のフラグをイラン方面の総督に任命し、西アジア遠征を行わせた。
フラグ(1218〜65)は中央アジア・カスピ海南岸を経て、アッバース朝の首都バグダードに至ってこれを攻撃し、翌年バグダードを陥れるとともに掠奪・虐殺を行い街を焼き払った。ここに500年間続いたアッバース朝はついに滅亡した(1258)。
フラグは次いでシリアを征服し、さらにマムルーク朝治下のエジプトへ侵入をはかったが撃退された。イランに戻ったフラグはこの地にイル=ハン国(1258〜1353)を建国した。
フラグ=ハン(位1258〜65)は、モンケ=ハンの死(1259)に際し、帰国しようとしたが諸事情から断念し、イランに留まり、兄フビライが大ハン位を継ぐと(1260)元朝と友好関係を保ち、キプチャク・チャガタイ両ハン国と抗争を繰り返した。
モンケ=ハンは、自らは南宋攻略に出陣したが(1258)、四川の陣中で病没した(1259)。
こうしてモンゴル帝国は13世紀の中頃までには、東は中国の華北から西は西アジア・ロシアにまたがる空前の大帝国となった。