3 中国社会の変化と北方民族の進出

7 宋代の文化

 宋代の文化の特色としては、中国的・国粋的な文化であったこと、士大夫(社会的には農工商に対して読書人・知識人階級を指し、官界では科挙出身の高級官僚を指す)を中心とした学問・文芸が発達したこと、そして商工業の発達によって力をつけてきた都市の庶民が文化の担い手となり庶民文化が栄えたことなどがあげられる。

 宋は軍事的に弱体で北方民族の圧迫に苦しめられたため、その文化は中国的・国粋的なものとなった。そのことは学問・思想の面によく表れている。

 儒学では宋学がおこり、南宋の朱熹によって大成された。

 宋学は、唐代までの儒学が経典の字句の解釈を中心とする訓詁学が中心であったことへの批判から、細かい字句の解釈にとらわれず、経典を自由に解釈し、儒学の精神・本質を明らかにしょうとした新しい儒学である。

 宋学は北宋の周敦頤(しゅうとんい、1017〜73)に始まった。周敦頤は「大極図説」を著し、大極と名づける宇宙の本体から万物・人間・聖人が生ずるとし、人は学んで聖人になりうると説いて宋学の始祖とされた。彼の説は弟子の程(ていこう、1032〜85)・程頤(ていい、1033〜1107)によってさらに発展させられた。

 周敦頤・程・程頤らの学説を発展させて宋学を集大成したのが南宋の朱熹(朱子、1130〜1200)である。朱熹は19歳で科挙に合格し、のち皇帝の侍講となったが、権臣に憎まれてわずか45日で辞職し、以後70歳で辞官するまでほとんどを名目的な奉祠の官(道教の寺院の管理官)にとどまった。

 朱熹は、「理気説(理気二元論)」(宇宙・万物は、理と気からなる。理は人・物の性(本性・本質)であり、気は物質・存在を意味する。この理と気が結びついて万物が存在するという二元的存在論)に基づいて、これを人間の道徳に応用し「性即理」(心の本体である性は理であるから、気(欲望)を捨てて理にしたがって生きることを理想とする倫理説)を説き、その学問方法として「格物致知」(物の理をきわめて、知をつくすこと)を唱えた。そして従来儒教の聖典とされてきた「五経」よりも「四書」(大学・中庸・論語・孟子)を重んじた。

 漢民族は古くから中華思想を持ち続け、自らを中華と誇り、周辺の異民族を戎狄蛮夷(じゅうてきばんい)と呼んで蔑視してきた。ところが南宋は華北を金に奪われ、金に臣下の礼をとらざるを得なかった。朱熹は北宋の司馬光らも唱えた「大義名分論」(上下関係の秩序を重んじ、君臣・父子の身分秩序を正そうとする思想的立場)・「正統論」を唱え、華夷の区別を論じ、「資治通鑑綱目(通鑑綱目)」を著して君臣・父子の道徳を絶対視して宋の君主独裁制を思想的に支えた。

 宋学は、朱熹によって大成されたので朱子学とも呼ばれ、また程朱学・理学・性理学とも呼ばれる。朱子学はその後長く儒学の正統とされ、朝鮮や日本の思想に大きな影響を与えた。李氏朝鮮(李朝)は朱子学を官学とし、江戸幕府も統治理念として朱子学を採用した。

 朱熹とほぼ同時代に活躍した南宋の陸九淵(陸象山、1139〜92)は、朱熹の「性即理」説に対して「心即理」説を唱えた。彼は宇宙本体の理は個人の心であり、心をさぐれば理が見いだせると説いて朱熹と対立し、朱熹が学問・知識を重んじたのに対し、道徳の実践を重んじた。その説は明代に王守仁(王陽明)に受け継がれ、陽明学の源流となった。

 儒学以外の学問の分野では、民族意識の高まりのなかで歴史学や地理などの学問が重要視され、「新唐書」(欧陽脩らの撰、唐一代を記した紀伝体正史)や「新五代史」(欧陽脩撰、五代の紀伝体正史)などの多くの歴史書が著されたが、司馬光の「資治通鑑」は特に有名である。

 北宋の政治家で旧法党の党首であった司馬光が著した「資治通鑑」は、編年体の通史で戦国時代から五代までの1362年間の事跡を本文294巻に編纂した歴史書であり、完成までに19年を要した大著である。この歴史書は儒教的大義名分論・正統論の立場で書かれている。君主の治世の参考資料として書かれ、以後学者必読の書とされた。

 朱熹は「資治通鑑綱目(通鑑綱目)」を著した。「資治通鑑綱目(通鑑綱目)」は「資治通鑑」に書かれた事実を大義名分論・正統論の立場から再編纂した歴史書で、後世に大きな影響を及ぼした。 

 宗教では、仏教が宋代には生活の中に深く根を下ろし、実践的な仏教に成長した。その代表が禅宗と浄土宗である。禅宗は官僚層・知識人の間に浸透したのに対し、一般庶民の間には阿弥陀仏の浄土に往生を説く浄土宗が広まっていった。

 道教も北宋の真宗や徽宗の信仰を得て、北宋時代には仏教をしのぐ隆盛ぶりであった。 金の統治下にあった華北では王重陽を開祖とし、儒・仏・道三教の調和をはかる全真教が 道教の革新を唱えておこった。

 庶民文化が栄えたことは宋文化の大きな特色であるが、庶民文化を代表するのが「詞」である。詞は五言・七言にこだわらず長短の句をつないで楽曲に合わせて歌われた韻文で、「唐詩」に対して「宋詞」といわれ大いに流行した。詞は詩から変化してきたものであるが、唐代の詩が貴族や知識人の文学であったのに対し、詞は民衆に親しまれ、酒席でも客や芸妓によって唱われたので、民衆にも分かる俗語がふんだんに使われた。しかし、知識人も格調高い詞を作っている。

 詞とともに庶民に親しまれたのが雑劇や口語をまじえた小説である。雑劇は中国の古典演劇で、北宋で歌としぐさを伴う歌劇として成立し、元代に「元曲」として完成する。

 文学では散文が盛んになった。唐代に韓愈や柳宗元が唱えた古文復興を北宋の欧陽脩が唱えると自由に文章を書くことが流行し、多くの名文家を輩出した。唐代の韓愈・柳宗元 の二人に宋代の欧陽脩・蘇軾(蘇東坡)・王安石など6人を加えた「唐宋八大家」は名文家として有名である。

 文学的教養と並んで、書・絵画も士大夫(知識人階級)にとって重要な教養であった。

 美術では、知識人を中心とする文人画や宮廷画家を中心とする院体画がうまれた。文人画は南画ともいわれ、士大夫階級の絵画の意味で、山水・自然を題材として水墨で作者の主観的な心境を表現する絵が多く、北宋が全盛期である。これに対して院体画は院画・北画ともいわれ、宮廷の画院に属する職業画家の画風で、写実を重んじ装飾的であるのが特色で、花鳥・山水・人物などを宮廷趣味に合うように描いた。 北宋の皇帝徽宗は院体画の代表的な画家として有名で、「桃鳩図」は徽宗の代表作としてよく知られている。

 文人画と院体画はやがてそれぞれ南宗画(なんしゅうが)・北宗画となり、その伝統は清末まで中国画壇を支配した。

 工芸では青磁・白磁などの陶磁器が発達した。

 宋代は中国の科学が発展した時代でもあった。科学技術の面で、いわゆる印刷術・火薬・羅針盤の三大発明が飛躍的な発展をとげて実用化されたのが宋代であった。

 印刷術は隋か唐初に発明されたと推定されている。宋代になると文治主義がとられ、科挙が盛んになったので受験参考書の需要が増大し、大都市では民間の出版社も生まれた。大蔵経などの仏教の経典も数多く出版された。初めは一枚の版木に一頁分を彫る整板印刷といわれる方法だった。11世紀半ばに北宋の畢昇(ひつしょう)が、泥と膠(にかわ)を混ぜたものに文字を刻み、焼き固めて活字を作った(膠泥活字)といわれているが、木版印刷に比べて不便なためあまり利用されなかった。

 硝石・硫黄・木炭などを混ぜ合わせて作った黒色火薬は唐代の錬金の過程で偶然出来たと考えられている。それが実戦に用いられるようになったのも宋代のことである。最初は点火用・威嚇用に用いられ、手や投石機で投げていたが、南宋になると大きな竹筒の中に火薬をつめて発射する火筒(ほづつ)が発明され、金軍との戦闘に使用された。元寇の時にモンゴル軍が使用したのは筒を銅や鉄で作った火筒であったといわれている。火薬は13世紀頃イスラムを経てヨーロッパに伝えられた。

 磁針が南北を指すことは中国では戦国時代末期にすでに知られていたといわれている。それが航海に使われるようになったのが宋代である。 北宋の書物に指南魚(魚形の磁鉄を水に浮かべて方角を知る)として用いたことが記されていて、南宋の書物には磁針を航海に使用したことが書かれている。やがて中国に来航したアラビア商人がこれを利用するようになり、後にヨーロッパに伝わった。 




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