6 宋代の社会
宋は、北方民族の遼・西夏・金の圧迫を受け、政治的にはあまり振るわなかったが、経済的には大いに繁栄し、農業生産力が増大し、商工業が急速に発展し、外国貿易も栄えた。
宋の南渡以来、南宋には金の支配を逃れて多くの漢人が南下し、江南の人口は急速に増加し、彼らの手で江南の開発が大いに進展した。特に長江下流域一帯は米作地帯として発展し、以後中国農業の、ひいては中国経済の一大中心地となった。
江南では従来農耕地としては利用できなかった湿地帯や河岸・池などの干拓が盛んに行われ、また水利の便の悪かったところに用水路を引いて水田にするなど新しい水田の開発が盛んに行われた。
また北宋時代に、占城(チャンパー、ヴェトナム南部)から日照りに強い早稲(わせ)種の占城稲が江南に伝わったこと、稲と麦の1年二毛作が普及したことなどによって江南の農業生産力が飛躍的に増大した。
特に長江下流域一帯の米作は中国農業の中心となった。「江浙(蘇湖)熟すれば天下足る」という言葉がそのことをよく示している。江浙は江蘇省と浙江省の略であり、蘇湖の 蘇は蘇州、湖は湖州の略である。
また華北の畑作地帯でも唐の中期以後農業技術が進歩し、小麦・粟・豆などの2年三毛作が行われるようになり、農業生産力が増大した。
宋代にも、唐以来の大土地所有制(荘園制)が発展したが、荘園の所有者の多くは、従来の貴族に代わって、官戸(科挙に合格して官僚を出した家)・形勢戸(地方の有力地主層)などの新興地主層であった。彼らは自分たちの土地を農奴的な小作人の佃戸に耕作させた。
佃戸は、法的には自由民であったが、地主のもとで移転の自由を奪われ、地主の家の仕事にかり出されるなど種々の労役を課せられ、収穫物は地主と折半(2等分)が普通だった。このように佃戸は地主に隷属する小作人であったが、 地主にとっては労働力でもあるので、地主の保護も受けられたので、生活が成り立たないほどのわずかな耕地しか持たず、 重税や借財に苦しんだ零細な自作農より恵まれた面もあった。
米作以外の諸産業も大いに発達した。特に茶の栽培・製茶業が盛んとなり、飲茶の風が普及した。インドのアッサム地方が原産である茶は、中国には漢代に四川に伝わり、魏晋南北朝時代に江南に広まった。茶は古くは薬として飲まれていたが、飲茶の風は唐代には 中国全土に普及し、庶民の間にも普及した。
宋代にはこの傾向がますます強まり、庶民にとっても茶は生活必需品となり、都市のあちこちに茶を飲ませる茶館が出来た。それに伴って茶の生産地も江南から福建・雲南・四川など各地に広まった。
宋代には茶は塩と並ぶ重要な専売品となり、その利益は国家財政の重要な支えとなった。また周辺の北方民族の間にも飲茶の風習が広まり、茶は北方民族との貿易にとって重要な貿易品となった。さらに外国貿易が盛んとなる中で従来の絹とともに重要な輸出品になっていく。
絹織物業でも機織り技術が進歩し、宋代には江南が生産の中心地となった。
飲茶の風の普及に伴い、陶磁器産業も大いに発展し、宋代には高い技術を使った美しい 白磁・青磁などが官用・輸出品として商品生産されるようになり、明代以後窯業の街として世界的に有名となる江西省の景徳鎮も宋代から生産地として繁栄した。
製茶・絹織物・陶磁器を中心に諸産業が発達し、各地では特産物が生産され、流通するようになると客商(宋代以後活躍した遠隔地商人)らが活躍するようになった。
商業の発達に伴い貨幣経済が発達し、貨幣の流通量が増大し、銅銭のほかに金銀も地金のまま用いられ、世界最初の紙幣である交子・会子が使用されるようになった。
交子は、北宋時代に四川の成都で民間金融業者が発行した手形を、のちに政府が発行権を奪って紙幣として発行した世界最初の紙幣である。
会子は、初め開封や臨安(杭州)などの大都市の金融業者が発行した手形を、南宋が銅銭の不足を補うために発行した紙幣である。
商工業の発達・貨幣経済の発達に伴い都市が発達した。宋代の都市の特色として、唐代までの大都市は政治都市の性格が強かったのに対し、宋代の都市は商業都市の性格が強いということがあげられる。 北宋の都の開封、南宋の都の臨安(杭州)といった大都市も政治都市というよりも商業都市としての性格が強かった。
開封・杭州などの大都市とともに、地方でも鎮・市と呼ばれた地方の小都市が数多く出現した。鎮・市は各地に設けられた定期市から生まれた草市(城外の物資の交易場)から発達したものである。
中国の都市は、周囲を城壁で囲まれている。夜になると城門は閉じられ出入りが出来なくなる。城壁内でも、夜になると「坊」(大通りによって囲まれた方形の区画)の門が閉じられ、他の坊との行き来も出来なかった。また都市内では「市」(唐の長安の東市・西市が有名)と呼ばれる一定の区域内でのみ商業が許された。市の四方の門も朝夕に開閉され、営業が許されたのは門が開いている日の出から日没までであった。
宋代になり、商工業がますます発達するようになると、こうした「坊」・「市」などの制限がくずれ、商人は都市のどこにでも自由に商店を出せるようになり、夜間営業も許されるようになった。
唐代の長安は夜になると暗闇の中でひっそりしていたであろうが、宋代の開封(人口60〜70万人)・臨安(杭州)(人口100〜150万人)などの大都市では、夜も煌々と明るく、大通りに沿って酒楼が建ち並び、小料理店が店を並べ、至る所に市が立つようになった。 また瓦市と呼ばれた劇場・寄席などが集まる歓楽街があり、さまざまな娯楽を楽しむことが出来た。開封の繁栄ぶりは清明節(清明は春分から15日目で中国では墓参が行われた) の日の開封の様子を描いた「清明上河図」でうかがうことが出来る。
営業の自由を獲得した商人達は、営業の独占や相互扶助を目的として同業者が集まって組合を作った。商人の同業組合は「行」、手工業者の同業組合は「作」と呼ばれた。米を扱う商人の米行をはじめ、絹行・銀行のほか乞食行まであったといわれている。行の運営は選ばれた役員があたったが、役員のほとんどは有力な大商人で占められていた。
宋代には外国貿易も盛んとなり、茶・絹・陶磁器などが輸出され、外国の諸物資が輸入された。イスラム教徒・東南アジア・朝鮮・日本などの船が広州・泉州・明州(めいしゅう、寧波)・臨安(杭州)などの港市に盛んに出入りして貿易を行った。これらの港市は外国貿易によって大いに繁栄し、主な港市には唐代に引き続いて市舶司(海上貿易に関する事務を司る役所)が置かれた。