3 中国社会の変化と北方民族の進出

5 金の侵入と南宋

 女真人は、10世紀以来中国東北地方東部の奥地・森林山岳地帯で半猟・半農の生活を営むツングース系民族で、女直とも呼ばれた。女真・女直はジュルチンの音訳である。

 女真は、10世紀以来遼の支配下にあった。女真のうち早くから遼と接し、遼東半島までも南下して遼の支配下で働いた者は熟女真と呼ばれ、これに対しいつまでも奥地にとどまり半猟・半農生活を送っていた者は生女真(せいじょしん)と呼ばれた。

 現在のハルビン市を流れている混同江(現在の松花江)流域は、当時一面の森林地帯であったが、現ハルビンの西南の辺りに住んでいた生女真は完顔(わんやん)部と呼ばれた。完顔部は古くからの名族で代々傑出した人物が出て首長となったが、 11世紀後半に一人の英雄、完顔阿骨打(わんやんあぐだ、1068〜1123、金の太祖、位1115〜23)が出て父・兄の後を継いで首長となった(1113)。

 太祖(阿骨打)は首長となると、それまでの氏族制を行政と軍事の両面を兼ねた猛安・謀克に改編した(1114)。そして女真諸部族を統一し、遼に叛旗をひるがえし(1114)、皇帝に即位し国号を大金と称した(1115)。大金を以下、 金と呼ぶ。

 太祖は、猛安・謀克を組織化し、国家体制を確立していった。
 猛安・謀克は行政と軍事を兼ねた制度で、行政面では300戸をもって1謀克とし、10謀克をもって1猛安とした。その長は謀克・猛安と呼ばれた。また軍事面では1謀克から100人の兵を出し、1猛安は1000人で軍団を編成した。行政の長である謀克・猛安が、戦時には軍隊の長を兼ね、その地位を世襲した。

 太祖が遼から自立して金を建国し、遼軍を圧迫しているとの情報を得た宋は新興の金と結んで遼を挟撃し、宿願の燕雲十六州を回復しようとして金に同盟を申し入れた(1118)。 その主な条件は、(1)宋が今まで遼に贈っていた歳幣、銀20万両・絹30万疋を金に与える、(2)遼の領土のうち万里の長城以北の地は金の占領に任せ、宋は万里の長城以南の燕雲十六州を自力で回復するというものであった。これに対して金は燕雲十六州のうち 燕京(北京)以下6州だけの割譲を主張し、交渉はまとまらなかった。

 金は交渉がまとまらないうちに軍事行動を起こして遼軍を破り、燕京周辺を除く遼の領土を占領し、遼最後の皇帝天祚帝を内モンゴル方面に追いやった(1122)。一方、宋軍による燕京攻略ははかどらず、逆にしばしば敗北を重ねて、ついに金軍に援助を要請した。

 太祖は、宋の援助の要請を受けると、たちまち燕京を陥れて(1112)遼軍を壊滅させ、翌年、金は燕雲十六州の内の6州を宋に割譲する代償として銅銭100万貫と軍糧20万石を要求した。宋はやむなくその支給を約束した。 太祖は続いて天祚帝を追討しようとしたが、その途中で病没した(1123)。

 太宗(位1123〜35)は、兄の後を継いで帝位につくと、天祚帝を内モンゴル方面に追撃して捕らえ、ついに遼を滅ぼした(1125)。遼が滅びる直前に、皇族の耶律大石が中央アジアに逃れ西遼(1132〜1211)を建国したことは前述した。

 太宗は、遼を滅ぼして後顧の憂いを除くと、今までの宋の背信行為を責めて、河北・山西から大挙南下・侵入して宋の首都開封に迫った(1125)。金の南下に驚いた徽宗は「己を罪する詔」を下し、勤王軍を募り、欽宗に譲位した。

 翌1126年、金は開封を包囲した。陥落を前にして宋は金の要求を全て受け入れ、いったん講和条約を結び、宋は金の皇帝を伯父として尊ぶ、宋は金に金500万両・銀5000万両・牛馬1万頭・帛100万疋を贈ることを約した。

 金はこの約束に満足して兵を引いたが、この時またしても宋の背信行為が暴露されたので、再び南下し、40日にわたる攻撃の末、ついに開封を攻略し(1126)、 掠奪を行った後、徽宗・欽宗・后妃・皇族・官僚・技術者など約3000人を捕虜として北方に連れ去った。この靖康の変(1126〜27)によって北宋はついに滅亡した(1127)。

 徽宗の第9子で欽宗の弟であった康王は、靖康の変の際に河北にいて難を逃れ、北宋の滅亡後、河南の応天府(現在の商邱)で帝位につき宋を復興した。これが南宋の初代皇帝である高宗(1107〜87、位1127〜62)である。これ以後の宋を「南宋」(1127〜1279)と呼び、これまでの宋を「 北宋」(960〜1127)と呼ぶ。

 高宗は金の追撃を受けて、南に逃げ長江を渡って、江南に拠って金を防ぎ、江南の諸勢力・反乱を平定して南宋の基礎を確立し、都を臨安(現在の杭州)に定めた(1138)。

 金は北宋を滅ぼし、華北を支配下に入れ、さらに南下して南宋を圧迫したが、まもなく兵を引いた。当時の金国内には、中国全土の征服を主張する強硬派と、今の金の力では黄河以北を確保するのが精一杯であるから南宋との関係を良くした方がよいという和平派が対立していたが、和平派は和平工作のために捕らえていた秦檜を南宋に送り返した。

 秦檜(しんかい、1090〜1155)は、江蘇省出身で科挙に合格し、官僚として昇進したが、靖康の変の際北方に連行された。金の和平派によって南宋に送り返された(1130)。 

 秦檜は、金の内情を知る者として高宗の信任を得て宰相となり(1131)、金の実力を考えると主戦派の唱える開封の奪回はとうてい無理である、それよりも金と和平を結んで現状を維持する方が得策であると主張し、金との和平交渉を進めた。以後、南宋国内でも岳飛らの主戦派と秦檜らの和平派の対立が激化した。

 岳飛(1103〜41)は、河南省の農民の子に生まれ、北宋末に金が南下すると義勇軍に応募し、金との戦いに軍功をたて一兵卒から将軍にまで昇進した。しかし、余りに早い昇進や当時の武将としては珍しく学問があったことから諸将の反感をかっていた。

 秦檜は、主戦派によって一時失脚したが再び宰相となり(1138)、翌年金との和議を成立させたが、これは金によって破棄され、金と南宋との間に再び激しい戦いが始まった。

 この戦いでの岳飛の活躍はめざましく、かっての宋の都・開封近くにまで進撃し、金軍を大いに悩ませた。南宋の意外な善戦を見て、金国内で和平の動きが高まり、南宋でも秦檜 らの和平派が力を得て和議を進めようとした。これに対して岳飛らの主戦派は徹底抗戦を主張した。

 秦檜は詔勅によって全軍に作戦行動を停止させ、将軍たちを呼び戻したが、岳飛は中央の命令に従わなかったので、秦檜は岳飛に謀反の罪をかぶせ投獄の後に処刑した。

 悲劇の将軍岳飛は、後に無実が明らかとなると、忠義の士と讃えられ救国の民族的な英雄として「岳王廟」に祀られ、岳飛の墓には現在も参詣する人の列は後を絶たないのに対し、秦檜は無実の岳飛を殺し、後に屈辱的な和議を結んだ奸臣・売国奴として、「岳王廟」 の前に縛られた姿の彼の石像が置かれ、その石像は人々に足蹴にされ、唾を吐きかけられるなどの侮辱を受けたと言われている。

 岳飛の死の翌年、1142年についに南宋は金との間に屈辱的な和議(紹興の和議)を結んだ。その主な内容は、(1)両国は、東は淮水から西の大散関に至る線を持って国境とする。(2)歳貢として宋は金に対して毎年銀25万両・絹25万疋を贈ること。(3)宋は金に対して臣下の礼を取ること。(4)金は徽宗の遺体と高宗の母を宋に送り返すこと等であった。

 この和議によって南宋の領土は北宋に比べて半減したが、経済的に豊かな江南を確保し、経済的には大いに繁栄した。南宋には金の支配を逃れて多くの漢人が南下し、江南の人口は急速に増加した。彼らの手で江南の開発が進展し、以後江南は中国経済の中心地となった。

 南宋は、9代約150年間続いたが、金がモンゴルに滅ぼされると(1234)、南宋は直接モンゴルと境を接することなった。やがてモンゴルでフビライ=ハンが即位すると、全力で南宋攻略にかかった。南宋は再三講和を申し入れたが拒絶され、ついに首都臨安が陥落した(1276)。

 7代皇帝恭帝(当時7歳)は捕らえられて北へ送られたが、陸秀夫や文天祥らが恭帝の弟を奉じて南に逃げて元に抵抗し、最後は崖山(広州の南の小島)に立てこもった。モンゴル軍は崖山に迫り、陸秀夫は衛王を抱いて海に身を投じ、ここに南宋は完全に滅亡した(1279)。

 金は、1142年の和議によって淮水以北の華北を支配下に治めたので、約600万戸の漢人を統治することとなった。征服王朝である金は漢人統治に苦心したが、金も遼にならって二重統治(体制)を採用した。女真人に対しては華北に移住した女真人も含めて猛安・謀克で統治し、漢人に対しては中国風の州県制で統治した。

 第4代皇帝海陵王(位1149〜61)は中国的な大帝国の建設を目指し、燕京(北京)に遷都し、皇帝権力の強化と中央集権化を図った。また中国統一を目指し、大軍を持って南宋に侵入したが(1161)、宋軍に敗れ、長江沿岸の陣中で部下に殺された。

 金第一の名君とされる第5代世宗(位1161〜89)は、女真人が中国化によって質実剛健の気風を失って弱体化し、また貧困化することを憂い、復古主義・国粋主義政策を取る一方で貧困化した女真人の救済に努め、女真人の自覚を促すために女真文化の復興にも力を入れた。

 世宗の後を継いだ章宗(位1189〜1208)の頃から、モンゴルの侵入が激しくなり、その防衛のための軍事費や相次ぐ黄河の氾濫によって財政難に陥った。その財政難を切り抜けるために交鈔(こうしょう、金・元で発行された紙幣)を乱発してインフレーションを招き、経済が混乱し国力は急速に衰退した。

 13世紀初めモンゴルではチンギス=ハン(位1206〜27)が即位し、モンゴル軍の侵入はますます激しくなり、ついに燕京(北京)が陥落し(1215)、モンゴルと南宋の連合軍に河南省で包囲された哀宗(9代、位1223〜34)は自殺し、9代約120年間続いた金はついに 滅亡した(1234)。 




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