3 中国社会の変化と北方民族の進出

4 遼と西夏

 契丹は、5世紀以後、遼河(渤海湾に流れ込んでいる河)の上流シラムレン川流域に現れたモンゴル系にツングース系が混血した遊牧・狩猟民である。

 キタイ(Kitai)・キタン(Kitan)の名で呼ばれ、中国では契丹と表記された。Kitaiの名が西方に伝わりCathyという中国の別称となった。

 初めウイグル(744〜840に王国を形成)に属したが、ウイグルが衰え始めた頃から急速に勢力を強めた。

 契丹は多くの部族に分かれていたが、中国が唐末の混乱に陥っている頃に、民族の英雄である耶律阿保機(やりつあぼき、耶律が姓で阿保機が名、太祖、872〜926、位916〜926)が現れた。

 彼は万里の長城を越えて華北に侵入し、多くの漢人をとらえて契丹の地に連れ帰り、力ある者を登用して国力を蓄え、やがて契丹諸部族を統合して遼(916〜1125)を建国した。

 太祖(耶律阿保機)は西方の突厥・ウイグル・タングートに親征して外モンゴルから東トルキスタンを制圧し、東方では中国東北地方東部から朝鮮北部を200年以上支配してきた渤海を滅ぼした(926)。しかし、その帰途、扶余で病没した。

 太祖は独自の契丹文字を作成(920)させるなど、契丹民族の文化の発展にも尽くした。

 次の太宗(位926〜947)は、中国で石敬とうが後唐に替わって後晋を建国する際に、彼を援助し、その代償として燕雲十六州を獲得した(936)。

 遼は北方民族である契丹が本拠地を確保しながら中国の領土の一部を支配した最初の国家である。このような性格を持った国家を征服王朝という。

 征服王朝は、ドイツ人の中国研究家ヴィットフォーゲルが遼・金・元・清をDynasty of Conquestと呼んだ訳で、北方民族が中国の領土の一部または全部を征服して建てた中国風の王朝国家の意味で使われている。

 初めて中国の地に領土(燕雲十六州)を持った遼は、中国の官制を取り入れて中国風の王朝を建設しようとした。しかし、遊牧・狩猟民である契丹人が農耕民である漢人を支配することは容易でなく、漢人の抵抗が各地で起こった。

 そのため遼は漢人を支配するにあたっては二重統治(体制)を採用した。
 中央の最高機関である枢密院を契丹人など遊牧民を統治する北面官と漢人・渤海人など農耕民を統治する南面官に分け、北面官を上位に置き、政治・軍事を担当させた。そして 契丹人など遊牧民に対しては遊牧民固有の部族制で、漢人など農耕民に対しては中国風の州県制で統治した。この統治の仕方を二重統治(体制)と呼んでいる。

 遼第一の名君と言われている6代皇帝聖宗(位982〜1031)は12歳で即位し、治世の前半の20年は母后や名臣・勇将の補佐を得て国力の充実に努めた。

 東方の女真族や朝鮮の高麗を従属させ、西方では中央アジアのウイグル諸国を服従させて後顧の憂いをなくした聖宗は、1004年に自ら大軍を率いて宋に侵入し、黄河北岸のせん州に迫った。これを見た宋の真宗も親征し、両軍は黄河を挟んで南北に対陣したが、結局和議が成立し、宋を兄・遼を弟として兄弟の交わりを結ぶこと、宋は遼に毎年銀10万両・絹20万疋を贈ることなどが約された。これがせん淵の盟(前述)である。この和議は以後約100年間にわたって両国によって守られ、両国の間には平和が続いた。

 聖宗の治世の後半には政治・軍事組織が整備され、中央集権体制が確立されたので、次の7代興宗(位1031〜55)・8代道宗(1055〜1101)に至る3代約120年間が遼の全盛期となった。

 しかし、9代天祚帝(てんそ、位1101〜25)の時代に、北方で女真が強大となり遼から独立し金を建国した。そして同盟した宋と金の挟撃を受けて敗れた天祚帝は内モンゴルに逃亡し(1122)、後に反撃に出たが逆に捕らえられ、中国東北地方の奥地に流され、そこで没した(1125)。こうして200年続いた遼はついに滅亡した(1125)。

 遼が滅亡する直前に、遼の皇族で太祖から数えて8代目の子孫である耶律大石(1087〜1143、西遼の初代皇帝、位1132〜43)は、天祚帝が内モンゴルに逃亡したときに、外モンゴルに逃れ、自立して王位についた(1124)。彼の元には多くの部族が集結したが、やがて金の圧迫が強まったのでさらに西方に移動し、トルキスタン地方のウイグルをおさえ、カラ=ハン朝を倒してベラサグンで即位し、西遼を建てた。西遼はイスラムからはカラ=キタイ(黒い契丹の意味)と呼ばれた。

 契丹は初めウイグル人の文化の影響を受けたが、やがて中国文化を吸収し、仏教を受け入れた。特に聖宗から道宗の全盛期には皇帝が仏教を保護・奨励したので仏教が盛んとなり、大寺院や仏塔が建立され、大蔵経も出版されるなど仏教文化が栄えた。

 太祖は契丹の言語を書き表すために契丹文字を作成し、これによって契丹人が漢化されることを防ぎ、民族意識を持たせようとした。契丹文字には大字と小字があるが、解読はまだあまり進んでない。

 宋の西北辺境の陜西・甘粛方面にはチベット系のタングート(党項)族が居住していた。タングートは初め四川・青海方面にいたが、チベットの吐蕃の圧迫を受けて東遷し、陜西・甘粛に移った。9世紀頃から陜西の夏州を中心に居住していたタングートの平夏部が強大となり、黄巣の乱の鎮圧に功を立て、唐から李姓を与えられた。

 その子孫の李元昊(りげんこう、1003〜48、位1038〜48)は父の後を継いで平西王となり(1032)、タングート諸部族を統合して青海の東部や甘粛西部の敦煌にまで領土を拡大した。そして宋にならって官制・兵制など諸制度を整え、宋・遼に対抗して皇帝を称し、国号を大夏と称した(1038)。中国ではこの国を西夏(1038〜1227)と呼んでいる。

 西夏はシルク=ロードの要衝を押さえ、内陸中継貿易で利益をあげていたが、宋と貿易をめぐって対立し、しばしば宋に侵入した。

 李元昊は大軍を率いて宋に侵入したが、戦いが長期化する中で、両国は1044年に慶暦の和約(前述)を結んだ。この和議によって西夏は宋に臣礼をとり、代わりに毎年銀5万両・絹13万疋・茶2万斤を得、さらに国境に貿易場を設けて貿易を行うことを認めさせた。

 李元昊は東はオルドスから西は敦煌まで領土を拡大し、宋・遼の両大国に対抗してよく国を維持した。また若いときから文武両道に優れ、法律・仏教に通じていた彼は西夏文字の創製に関与し、漢籍の翻訳を行わせるなど西夏の文化の向上にも努めた。

 井上靖の名作「敦煌」は映画化されたので、映画を見た人も多いと思うが、この作品は科挙に失敗した主人公の趙行徳が西夏の女を助けたことから巻き込まれる数奇な運命を描いた作品で、李元昊時代の西夏を中心に展開され、1900年頃に敦煌石窟寺院の第17窟から多数の古写本・古文書が発見された謎に迫る名作である。ぜひ読んでみて下さい。

 文化面では、中国文化の影響を強く受けながらも、仏教文化を基調とする独自の文化を発展させた。漢字の体裁にならって画数の多い複雑な独自の西夏文字を作った。現在6100余字が知られていて、3分の2以上の文字の発音や意味も明らかにされている。また儒教や仏教も盛んで、「論語」や仏典をはじめ中国やチベットの多くの書物が西夏文字に翻訳されている。

 西夏は、李元昊以来10代約200年間続いたが、遼に代わって金が強大となるとこれに服属し、最後はチンギス=ハンによって滅ぼされた(1227)。   




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