3 宋の統一(その2)
北宋の第6代皇帝、神宗(1048〜85、位1067〜85)が父英宗の後を継いで即位した頃には、対外的には遼・西夏の圧迫、国内では財政の窮乏・重税による自作農の没落など国家の再建が大きな課題として残されていた。そのため青年皇帝神宗は政治・財政改革に着手し、地方官であった王安石(1021〜86)を抜擢して宰相に任命し(1070)、新法を次々に実施させた。
王安石(1021〜86)は江西省出身、21歳で科挙に合格して進士となり、地方官を16年間勤めた。この間、仁宗に政治改革の必要性を説く意見書を提出している。神宗は即位すると政治改革を断行するために、その王安石を地方官から大抜擢して副宰相(1069)、さらに宰相(中書省と門下省の長官を兼ねる官職)に任命した(1070)。
王安石は神宗の全面的な信頼を得て、軍事・財政の危機を克服するために「新法」と呼ばれる富国強兵策を次々に実施した(王安石の改革)。
王安石の「新法」の主なものは、青苗法・均輸法・市易法・募役法などの富国策と保甲法・保馬法などの強兵策である。
青苗法は、貧農の中には籾種さえ食い尽くして田植えの出来ない者がおり、彼らは地主から高利で銭を借りてその返済に苦しんでいた。 そのような農民に穀物や銭を低利で貸し付け収穫時に返済させ、大地主の高利に苦しんでいた貧農を救済しようとする政策であった。
均輸法は、前漢の武帝も行ったが、均輸官を各地に置き、その地の特産物を輸送させ、それを不足地に転売する法で、地域の物価を平均化させるとともに、その差額が政府の収入となった。この法は大商人の利益を奪うものとして彼らの激しい反対を受けた。
市易法は、大商人の営利独占・小商人の抑圧などを排し、小商人の商品が売れないときは政府がこれを買い上げ、またはその商品を抵当にして低利で融資を行い、小商人を保護し、商業の振興をはかった政策である。
募役法は、徴税・治安維持などの地方の労役が上・中層農民にとって大きな負担となっていたので、労役を免ずる代わりに免役銭を徴収し、一方ではどんなに苦しい仕事でも働いて収入を得ないと生活できない貧しい人々の中から希望者を募り、雇銭を支給し労役に充てた政策である。
保甲法は、当時の宋の傭兵制が軍隊の質の低下・軍事力の弱体化・軍事費の増大を招いていたので、民戸10家を保・50家を大保・500家を都保とする民兵制度を組織し、農閑期に農民を集めて軍事訓練を施し、治安維持などにあたらせた兵農一致の政策である。
保馬法は、遼・西夏との戦いに必要な軍馬が遼・西夏の輸出禁止によって入手難となり、軍馬が不足したので、これを打開するために民間に官馬または代価を与え馬を養わせ、平時には使役に使うことを許し、戦時にはこれを徴発して、軍馬を確保しようとした政策である。
このように王安石の行った「新法」は貴族・特権官僚・大商人・大地主などの特権・利益を抑え、中小農民や中小商工業者を保護・育成し、財政の再建をはかろうとした政策であったので、特権階層からは激しい反対を受けた。彼らは司馬光を中心とする「旧法党」に結集し、王安石の新法を支持する「新法党」を激しく攻撃し、これと対立した。
王安石の新法はかなりの成果を上げ、財政や治安は好転したが、旧法党と新法党の「党争」(官僚間の権力争い)が激しくなる中で、彼はついに辞職し(1076)郷里に隠退した。
神宗が没した翌年に旧法党の司馬光が宰相となり、新法はことごとく廃止される中で王安石は亡くなった(1086)。彼は文章家としても有名で「唐宋八大家」の一人に数えられている。
司馬光(1019〜86)は、山西省の大地主の家に生まれ、20歳で科挙に合格して進士となり、地方官を歴任した後に神宗の時中央政界に入った(1067)、王安石の改革が実施されると司馬光は急激な改革に反対して中央政界を去り(1070)、以後編年体の歴史書である「資治通鑑」(294巻)の編纂に専念した。神宗が没して哲宗が即位すると(1085)、 旧法党の党首として中央政界に復帰し、宰相となり(1086)、王安石の新法をことごとく廃したがその数ヶ月後に彼も没した。
哲宗(位1085〜1100)の時代は「党争」(旧法党と新法党の権力争い)に明け暮れ、宋の国力は弱体化した。
哲宗の死後、弟の徽宗(位1100〜25)が第8代の皇帝となった。徽宗は政治にはあまり熱意なく、学芸に秀で詩文書画をよくし、「風流天子」と呼ばれた。書に優れ、新画風の院体画を開き、文化の保護・奨励に努め、書画や古器物の収集を盛んに行い、豪奢な宮廷生活によって国費を乱費した。
こうした宮廷の奢侈のために国民に負担を強いたので、江南では北宋最大の農民反乱である方臘(ほうろう)の乱が起きた(1120〜21)。
この頃、中国東北地方の奥地にいたツングース系の女真族がにわかに強大となり、その首長である阿骨打(あぐだ、1068〜1123、位1115〜23)は遼に反旗を翻し、金を建国し(1115)、次第に遼を圧迫していった。
この情勢を見た宋は新興の金と同盟を結び宿敵遼を挟撃し、宿願の燕雲十六州の回復を図ろうとしたが、かえって金の華北侵入を招き、金軍は首都開封に迫った(1025)。
徽宗はその事態に驚き、「己を罪する詔」を出し、全国に勤王軍を募るとともに、子の欽宗(位1125〜27)に譲位した。
宋はいったんは金と和を結んだが、金は翌年宋の違約を責めて再び開封を包囲し、ついに開封を陥れた(1126)。そして翌1127年、徽宗・欽宗・后妃・皇族・官僚・技術者など数千人を捕虜として東北地方の奥地(現在の黒竜江省の依蘭付近)に連れ去った。この出来事は靖康の変(1126〜27)と呼ばれるが、靖康の変によって北宋はついに滅亡した(1127)。
徽宗はその地に幽閉されたまま帰国の願いはかなわずその地で没した(1135)。欽宗も幽閉は30年に及び、金と南宋との和平の成立(1142)後も帰国は許されず、ついにその地で没した(1061)。