2 宋の統一(その1)
宋(北宋)の建国者の趙匡胤(太祖、927〜976、位960〜976)は、後唐の武将の子として生まれ、後周の世宗に仕えて軍功をあげ、精鋭を誇った禁軍(皇帝の親衛軍)の最高司令官となった。世宗が亡くなり、7歳の恭帝が立つと、契丹と北漢が侵入してきた。趙匡胤は、これを迎え撃つために出動命令を受けて出陣したが、 その途中、陣中で酒に酔って眠っているところを起こされ、無理矢理に天子の着る黄袍を着せられ、いくら固辞しても部下の将兵が納得せず、やむを得ずこれを受けたと伝えられている。
こうして部下の将兵によって皇帝に推戴され、恭帝から禅譲を受けた趙匡胤は宋王朝(960〜1279、北宋(960〜1127)を樹立し、開封を都とした。
趙匡胤は即位すると、これまで藩鎮(節度使)の強大な勢力が皇帝の権力を弱体化させたことに鑑み、藩鎮(節度使)の勢力の削減を図り、藩鎮(節度使)から統帥権を奪って指揮権のみを与え、 一方で藩鎮の精鋭兵士を禁軍(皇帝の親衛軍)に吸い上げて禁軍を強化していった。
こうして唐末・五代の藩鎮(節度使)の武断政治を廃し、科挙合格者で学識のある文人官僚によって政治を行う文治主義を押し進め、君主独裁中央集権体制の確立を目指した。
中央官制では、唐代以来貴族の牙城であった門下省を廃止して中書省に吸収し、その長官(宰相)に六部を統轄させた。そして優秀な官僚を確保するために、隋・唐以来の科挙を改革し、従来の地方・中央の試験に殿試を加えて、州試・省試・殿試の三段階とした。
殿試は、省試合格者に対して皇帝自らが出題する最終で最高の試験で、太祖が創設し、上位合格者には高官への道が約束された。また殿試によって、合格者である官僚は皇帝の学問上の弟子と言うことになり、皇帝に絶対的な忠誠を誓うようになり、皇帝権力の強化すなわち君主独裁制の確立に大きな役割を果たした。
太祖は契丹の南侵をくい止め、呉越・北漢を除く五代以来の地方政権を滅ぼしたが、中国統一を見ることなく亡くなった(976)。弟の趙光義(後の太宗)に殺されたとも言われている。
太祖の後を継いだ太宗(939〜997、位976〜997)は、太祖の弟で、兄の建国を助けて大きな功績があった。太祖の2人の子をさしおいて2代目の皇帝となり、兄の遺業を継いで呉越・北漢を滅ぼして中国の統一に成功した(979)。さらに勢いを駆って遼(契丹)に出兵したが失敗に終わり、燕雲十六州の回復は出来なかった。
内政でも、太祖の文治主義を継承し、君主独裁中央集権官僚制の確立に努めた。
太宗は節度使の財政権を奪うなど節度使の権限をさらに縮小し、また節度使に欠員が出る度に文官を任命した。こうして節度使は単なる地方の行政官に過ぎなくなり、藩鎮体制は解体されたが、節度使の軍隊の弱体化は辺境の防衛力を著しく弱体化させることになり、以後契丹・西夏などの侵入に苦しめられるという新たな問題をうんだ。
太祖・太宗ともに節度使の権限を奪い、文治主義を採用し、文官を重く用いて、君主独裁を強化し、中央集権の体制を作りあげた。この体制を支えた文官(官僚)は科挙によって登用された。
科挙は隋代に始まり、唐に受け継がれ、宋代に完成された。宋代には前述したように太祖によって殿試が創設され、州試(第1段階としてに地方試験)・省試(第2段階として州試の合格者に対して中央の尚書省が行う試験)・殿試(省試の合格者に対して皇帝自らが行う最後で最高の試験)の三段階が確立した。
宋代、科挙に合格して官僚になった者を出した家は官戸と呼ばれ、戸籍に明記され、役の減免や裁判上でも特権が与えられた。また科挙に合格して官僚になった者には将来の出世・高官への道が約束され、その上莫大な収入があったので3年勤めると孫子の時代までも安楽な生活が出きると言われた。このため科挙には受験者が殺到し、競争は勢い激烈となり、なかには何度も受験に失敗し、70歳を過ぎてようやく合格した者もいたと言われている。
科挙にはいくつかの科目があり、試験科目も異なっていた。唐代には秀才(科)が重視されたが、宋代には進士(科)が最も重視され、宋代中頃には進士に一本化された。
進士の試験科目は経義(経書の暗記)・詩賦(作詩)・策論(時事問題についての意見書)であった。経義では論語など儒学の重要な書物の内容の暗記がテストされたが、暗記しなければならない文の文字数は62万字に及んだと言われている。
進士を優秀な成績で合格した者(トップ合格者は状元と呼ばれた)が宰相以下の高官を独占した。
科挙は3年に1度行われたが、その合格者はきわめて少数で、進士は太祖の時は年平均9人、太宗の時は50人、真宗の時に78人となり、仁宗の時代は最も多かったが113人に過ぎなかった。受験者は太宗の時の例で見ると、州試に合格して省試を受験した者5300人(976)、多いときは17300人もいた。
科挙の受験資格は広く庶民にも開かれていたが、このように超難関の試験であったので、合格するには長年にわたって科挙だけを目的に脇目もふらず勉強しなければならなかった。従って合格することは勉強に十分な時間とお金が充てられる富裕な家の者でないと不可能であり、貧乏な家の者は受験など思いも寄らぬことであった。このため科挙合格者は特定の富裕な階層の者に限られてくる。
多くの合格者を出した富裕な階層の代表は、当時「形勢戸」と呼ばれた地方の有力地主層であった。科挙に合格者し官僚を出した家は「官戸」と呼ばれ様々な特典を与えられた。宋代には、唐代までの旧貴族に代わって、「形勢戸」・「官戸」が新しい社会の支配層・新しい貴族階級を形成するようになった。
官僚になるには科挙に合格する以外にも、例えば高官の子弟や親戚の者とか、政府に多額の献金をした者、役所の書記を長く勤めた者などが官僚になれた。官僚になると高額の俸給を与えられた。このため官僚の増加は政府の財政を圧迫する原因となり、有資格者の増加のため、合格しても官僚になれない者も続出し、彼らは官僚になるために賄賂を送ったりしたので官界の腐敗を招くことになった。
太宗の死後、真宗(位997〜1022)が即位した。当時国内には平和が訪れ、宋は安定・発展期に入っていたが、対外的には国力を充実させた遼(契丹)がしばしば宋の北辺に侵入し、これに苦しめられていた。
遼が、1004年に黄河北岸のせん(壇の字の土へんがさんずいになる)州(せん淵)に迫ったので、真宗が宰相の勧めで自ら親征し、遼軍と対峙したが、結局両国間で和議が結ばれた。
このせん淵の盟(1004)で、(1)両国は宋を兄、遼を弟とする兄弟の交わりを結ぶ。 (2)宋は遼に歳幣として毎年、銀10万両と絹20万疋を贈る。両は37.3g、疋は反物2反、1反は約10.6m(漢和辞書より)。(3)宋と遼は国境を保全し、捕虜・越境者は送還することを約した。
せん淵の盟は、以後100年間にわたって両国によって忠実に守られ、平和が続き、両国の繁栄をもたらしたが、宋が遼に贈った歳幣は以後宋の財政を圧迫することになる。
4代目の仁宗(位1022〜63)の時代は、欧陽脩らの有能な官僚の補佐のもとに、周敦頤・程・程頤(北宋の有名な儒学者)らの優れた学者が輩出し、北宋で最も国力が充実した時期を現出したが、この頃西北辺で李元昊(りげんこう、位1038〜48)がタングート族を統合して西夏を建国し(1038)、しばしば侵入した。
そのため慶暦の和約(1044)を結び、(1)西夏は宋に対して臣下の礼を取る。(2)宋は西夏に歳幣として毎年、銀5万両・絹13万疋そして茶2万斤を贈る。(3)国境に貿易場を設けて貿易を行うことを約した。
宋は和約を結ぶ一方で西北辺に兵力を集中した。また西夏との和約を機に、遼との歳幣も銀20万両・絹30万疋に増額された。こうした軍事費・歳幣さらに官僚の俸給が増大し、仁宗の治世の後半には宋の財政は急激に悪化した。