1 五代の形勢
唐代、玄宗は異民族の侵入にそなえて辺境に十節度使(辺境の防備のために置かれた軍団の司令官)を置いたが、安史の乱(755〜63)後は内地にも置かれるようになった。
節度使は、はじめは皇帝に任命され、強力な軍隊を預かって州を支配し、州の租税を徴収して軍隊にかかる費用の残りを中央に送った。しかし、唐末になると強力な節度使は中央に送るべき租税を私有し、また本来は皇帝の軍を私兵とし、中央から自立していった。こうして節度使はその地方の軍事・財政・民政権を握り、地方で自立して地方軍閥となり藩鎮と呼ばれるようになった。
節度使(唐末五代では藩鎮と同じ意味に使われることが多い)は数州を領有し、その数は唐末で40〜50、五代で30〜40に及んだといわれている。
唐末の大農民反乱である黄巣の乱(875〜84)に加わり、後に唐に降って節度使に任命された朱全忠(852〜912)は、黄巣の乱の鎮圧の功績によって梁王となり(901)、衰退した唐の皇帝昭宗を殺し、哀帝に迫って禅譲させて唐を滅ぼし、自ら帝位について後梁(907〜923)を建て、都をべん(さんずいに卞)州(開封)に定めた。
以後、約50年間に華北では後梁・後唐・後晋・後漢・後周の5つの王朝が交替した。これを五代と総称する。
このうち後漢をごかんと読むと後漢(25〜220)と紛らわしくなるので、五代の王朝はそれぞれ、こうりょう・こうとう・こうしん・こうかん・こうしゅうと読むのが慣例となっている。またその間に、その他の地方でも多くの節度使(藩鎮)がそれぞれ自立し、10前後の国が興亡したので、これを十国と呼び、唐の滅亡から宋の中国統一までの(907〜979)この時代を五代十国(時代)という。
唐を滅ぼした朱全忠(太祖、位907〜912)が建てた後梁(907〜923)の勢力範囲は黄河中・下流域に限られ、李克用などの藩鎮が各地に割拠していた。朱全忠はこれらの敵対勢力との戦いに明け暮れる中で次男に殺され、後梁は2代16年で滅びた。
朱全忠と対立した李克用(856〜908)は、突厥の沙陀(さだ)部の出身で、黄巣の乱の鎮圧の功によって節度使となり、朱全忠と華北の覇権をめぐって激しく対立し、その攻撃を受けて応戦中に病死した。しかし李克用の子が後梁を滅ぼして後唐(923〜936)を建国したが、後唐も4代13年で滅亡した。
後晋の建国者である石敬とう(王へんに唐)(高祖、位936〜942)も突厥出身と言われている。後唐の最後の皇帝の妹婿であった彼は皇帝と対立し、契丹の援助を受けて後唐を滅ぼし、後晋(936〜946)を建国した。
石敬とうは契丹の援助を受ける際に契丹に臣礼をとって歳貢を贈り、燕雲十六州(北京(燕州)・大同(雲州)を中心とする万里の長城の南に沿った十六の州)を割譲した。この燕雲十六州の回復が漢民族の宿願となり、宋と遼との抗争の大きな原因となっていく。しかし、その後晋も2代10年で滅びた。
後晋を倒して後漢の建国者となったのも突厥の沙陀(さだ)部出身の劉知遠(高祖、位947〜948)である。彼は後唐に仕え、後晋の建国を助けて禁軍(皇帝の護衛兵)を掌握し、各地の節度使を兼ねて有力者となり、後晋が契丹の侵入を受けて滅亡すると、自ら帝位につき後漢(947〜950)を興したが、翌年に病没し、後漢は2代わずか3年で部将の郭威に滅ぼされた。
後周の建国者、郭威(太祖、位951〜54)は、劉知遠の建国を補佐し、その子隠帝が殺されると、軍隊に擁立されて即位し、後周(951〜960)を建国した。
後周の第2代皇帝、世宗(位954〜959)は五代第一の名君と言われ、契丹や南唐などの諸国を討ち、国内政治を整えた。中国史上大規模な仏教弾圧事件を「三武一宗の法難」というが、一宗の宗は世宗のことである。しかし、後周も3代9年で滅亡した。
五代のうち、後唐(都は洛陽)を除く四王朝は開封を都とした。開封は古くから水陸交通・軍事の要衝であったが、特に隋代の大運河の開通により、都の長安と江南を結ぶ大運河の分岐点となり、以後交通・商業の中心地として大いに発展し、次の北宋も開封を都とした。
華北で五代が興亡を繰り返した間、江南では呉(902〜937)・呉越(907〜978)・荊南(907〜963)・楚(927〜951)・南唐(937〜975)が、 四川では前蜀(907〜925)・後蜀(934〜965)が、福建のびん(門のなかに虫)(909〜945)、 華南の南漢(917〜971)、そして華北の北漢(951〜979)などの国々が興亡した。 以上の国々が十国に数えられている。十国の中で最も強勢だったのが江南の富を背景に栄えた南唐で、唐の文化を継承した文化が大いに栄えた。
唐末五代の時代は中国史上、春秋戦国時代と並ぶ社会の大変革期であった。
政治的には、魏晋南北朝時代から隋唐の時代に国家の支配層であった貴族が、特に黄巣の乱やうち続く戦乱と下剋上の風潮の中で、経済的な基盤であった荘園を失って没落していった。そして旧貴族に変わって藩鎮や形勢戸と呼ばれる新興地主らが支配層にのし上がっていった。彼らは唐末の戦乱によって荒廃した土地の開発を進め、新たに荘園の所有者となり、佃戸制に基づく大土地所有制を発展させ、また諸産業の回復・開発に努めた。
こうした社会の変化の中で、従来の都を中心とした貴族文化は衰退し、かわって庶民文化や地方にも特色ある新しい文化が興るなど社会は大きく変動を遂げていった。