2 東アジア文化圏の形成

7 唐文化の波及と東アジア諸国

 唐の国際的な文化は、周辺の諸民族に大きな影響を与えた。周辺の諸民族は唐文化を受け入れながら、それぞれの民族の文化を発展させ、東アジアには唐を中心に広大な東アジア文化圏が成立した。

 日本は、早くから中国文化を受け入れてきたが、隋・唐がおこると遣隋使・遣唐使を送って中国の文化を盛んに輸入した。遣隋使は3回派遣されたが、特に聖徳太子によって派遣された小野妹子は有名である。

 遣唐使は630年に開始され、894年に菅原道真の建議によって廃止されるまで16回派遣された。大使以下の随員とともに留学生・留学僧も加わり、普通は総勢500人前後、4隻の船に分乗して中国に渡り、文化の輸入に努めた。遣唐使が中止された894年というと黄巣の乱が鎮圧されて10年後のことであるが、9年に及び中国全土を巻き込んだ黄巣の乱による中国内地の旅行の危険も廃止の大きな理由であったと思う。

 645年の大化改新によって、唐の律令制にならって班田収授法(唐の均田制にならって実施された土地制度)・租庸調制などを実施し、律令国家体制を整えていった。

 朝鮮半島では、4世紀に辰韓を統一した新羅が、法興王(新羅23代の王、位514〜540)の頃から国家体制を整えて、急速に発展していった。

 しかし、7世紀にはいると百済・高句麗の侵入に悩まされるようになった。642年に百済は高句麗と結んで新羅を攻めた。新羅は唐に救援を求めた。唐の太宗は645年から3回の高句麗遠征を行ったが失敗に終わり、鉾先を百済に転じ、660年に水軍を派遣した。

 新羅の武烈王(29代、位654〜661)は唐と結んで百済を挟撃し、百済はついに滅亡した。この時、日本は百済を助けて水軍を送ったが、663年の白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦いで唐・新羅水軍に大敗し、日本勢力は朝鮮半島から一掃されることとなった。

 唐は、667年についに高句麗を攻め滅ぼした。唐がさらに朝鮮半島を支配下に置こうとすると、唐と結んで百済を滅ぼした新羅はこれに反抗し、675年に唐軍を撃退し、ついで朝鮮半島の大半を支配下に置いて、676年についに朝鮮民族による初めての統一国家を樹立した。

 新羅は、7世紀中頃から唐の律令制を取り入れて律令国家体制を整え、統一後も唐の制度・文化を盛んに輸入して栄えた。新羅では仏教が盛んで、都の慶州(金城)を中心に大規模な仏教建築や仏教彫刻が盛んにつくられ、仏教美術が発達した。慶州近郊にある仏国寺は現在の10倍の規模を誇っていたと言われる新羅時代の代表的な仏教寺院である。

 新羅では骨品(こっぴん)と呼ばれる身分制度が行われ、出身氏族によって身分が5段階に分けられ、これにより位階・官職をはじめ婚姻などが制約された。

 貴族勢力が強かった新羅では、9世紀頃から中央における王位争いや貴族間の争い、地方でも貴族や農民の反乱が相次いで国力は急速に衰退し、新羅末の動乱のなかから一部将であった王建が頭角を現し、高麗王となり(918)、935年に新羅を滅ぼした。

 中国の東北地方の東北部に住んでいたツングース系の靺鞨(まつかつ)族の一部は高句麗に支配されていたが、高句麗の滅亡後は唐の支配下に置かれていた。696年に唐に対する契丹人の大規模な反乱が起きると、靺鞨族や高句麗の遺民もこれに参加し、靺鞨族はこの反乱を機に唐の支配から脱した。靺鞨族の首長の一人であった大祚栄(だいそえい、?〜719)は、靺鞨族や高句麗の遺民を率いて中国東北地方の東部に移り、敖東城(ごうとうじょう、現在の吉林省の敦化市)を都として「震国」を建てた(698)。そして唐から渤海郡王に任じられ(713)、国号を渤海と改めた。

 渤海は15代約200年間にわたって中国東北地方を中心に沿海州から朝鮮北部を支配し、唐に留学生を派遣し、盛んに唐の政治・制度・文化を取り入れ律令国家体制を整え、仏教文化が栄えた。9世紀頃には最盛期を迎え、「海東の盛国」と呼ばれた。渤海は日本とも 交渉があり、8世紀以後滅びるまでの200年間に30回を越える使節を送り交易を行った。その渤海も9世紀末には王位をめぐる争いや外圧によって衰え、926年に契丹によって滅ぼされた。

 チベットでは、ソンツェン・ガンポ(?〜649、位629〜649)が、6世紀末から7世紀初めにかけて、一代でチベット諸族を統一して統一国家を建てた。この国は中国では吐蕃(とばん、7〜9世紀)と呼ばれた。

 ソンツェン・ガンポは、唐とは太宗以来親交を続け、641年には唐から文成公主をめとり、唐文化を盛んに取り入れた。彼はその一方でネパール王女を妻として仏教を取り入れ、またインド文字をもとにチベット文字を作ったと言われている。チベットに入ったインド系の仏教は、チベットの固有の民間信仰と融合し、独自のチベット仏教、いわゆるラマ教となり、吐蕃の国家的仏教となった。

 その後、吐蕃は680年頃から東トルキスタン(中央アジア東部)に進出したが、このためやがて唐と対立するようになり、唐は玄宗の頃に吐蕃を攻撃した。しかし、安史の乱後の763年には吐蕃が一時長安を占領した。その後も対立関係が続いたが、9世紀に入って和平の機運が生まれ、821年に長安で、翌822年にはラサで会盟が行われ、唐は吐蕃の甘粛領有を認めた。この会盟の内容を漢字とチベット文字で記したのが唐蕃会盟碑で、823年にラサに建てられた。吐蕃は王が殺されて以来(843)内紛で衰退していった。

 唐と吐蕃の争いに乗じて、雲南ではチベット=ビルマ系の民族が大理を中心に南詔(なんしょう)国を建国した。南詔は唐と友好関係を結んで周辺を統一した(739)。南詔はのち唐と対立して吐蕃と結んだが、8世紀末には再び唐と結んで吐蕃を圧迫した。南詔も唐文化を取り入れ、9世紀前半に最盛期を迎えたが、9世紀後半以後内紛によって衰え、902年に宰相の漢人に国を奪われて滅亡した。

 ヴェトナム北部は、始皇帝による征服から一時自立したが、前漢の武帝による征服以来、約1000年間の長期にわたって中国の支配下に置かれ、中国文化の影響を受けてきた。

 この間、ヴェトナムのジャンヌダルクと呼ばれる「徴(チュン)姉妹の乱」をはじめとする抵抗運動が度々起きている。チュン=チャク(徴側)・チュン=ニ(徴弐)姉妹は後漢の漢人太守の搾取・暴政に対して40年に反乱を起こし、象にまたがって太守の軍と戦い、太守を追い出して自立し、一時は王を称した。そして太守の収奪に苦しめられていた交趾・九真2郡の住民に2年間の免税を行った。しかし、2年後後漢の討伐軍に敗れ、捕らえられて殺された。

 唐は、622年にハノイに交州大総管府を置き、679年に安南都護府と改称したので、中国では以後ヴェトナムは安南と呼ばれるようになった。唐が907年に滅亡し、中国は五代十国と呼ばれる分裂時代を迎えた。十国の一つに数えられる南漢(917〜971)が広東・江西を支配し、ヴェトナムの支配者の地位を継承した。

 呉権(ゴークエン)は、南漢との戦いに勝利をおさめ、自立して王を称し、呉朝を樹立した(939)。ヴェトナムは1000年間にわたる中国の支配から独立の第一歩を踏み出した。 呉権の死後、20年に及ぶ分裂を再統一した丁部領(ディンボーリン)が丁朝(968〜980)を始めた。丁朝も短命に終わり、前黎(れい)朝(980〜1008)が続いた。この呉朝・丁朝・前黎朝を総称してヴェトナムの初期三王朝と呼ぶ。

 この初期三王朝の後を受けて、李公蘊(りこううん、太祖、位1010〜1028)によって、ヴェトナム最初の本格的な統一王朝である李朝大越国(1010〜1225)が建国された。

 李朝は都をハノイに置き、中国の諸制度・文化を取り入れて中央集権国家の樹立をめざした。李朝では儒学が重視されたが、仏教も国教とも言うべき地位を与えられ、道教も行われた。さらに科挙も取り入れられた。  李朝は、1075年から2年続いた宋軍の侵入を撃退し、さらに南方のチャンパーを征服して国力が充実し栄えたが、13世紀に陳朝によって滅ぼされた。 




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