2 東アジア文化圏の形成

6 唐代の文化

 唐の文化は、西のイスラム文化と並んで、当時の世界における最高水準の文化であった。唐文化の特徴は、その広大な大帝国の成立によって、特に西方からの外国文化が流入して国際的な文化が成立したこと、貴族を中心とする貴族文化であったこと、そして唐の文化が東アジア全般に影響を及ぼし、東アジア文化圏が形成されたことなどである。

 唐代には、東は朝鮮・日本から、西は中央アジア・ペルシア・インドなどから多くの留学生・商人をはじめ、様々な人々が往来し、長安や広州などの港市は異国情緒に満ち、異国趣味が流行した。 長安には1万人以上の外国人がいたといわれている。特に中央アジア・イランからきていた、いわゆる「胡人」には商売人や芸人をはじめ、様々な職業の人達がいた。 酒場では、スタイルがよくエキゾチックな顔立ちの美しいイラン人の娘さん達が(彼女たちは「胡姫」と呼ばれていた)お酒をついだり、踊ったりしていた。 長安の若い女達は、「胡姫」の服装や化粧をまねて「胡服」を新調して町を歩き、細い乗馬ズボンをはいて長安の町を馬で走り回った。 西方から入ってきた家具や絨毯などが使われ、西方から入ってきた音楽や楽器が盛んに演奏された。

 人々の往来とともに、特に西方から様々な文化が流入し、それとともにキリスト教・ゾロアスター教・イスラム教などの諸宗教も伝来した。

 ネストリウス派キリスト教は、431年のエフェソスの宗教会議で、聖母マリアは神でないという説を唱えて異端とされ、ササン朝を経て唐に伝わり、中国では景教と呼ばれた。中国への最初のキリスト教の伝来である。

 ペルシア人の阿羅本が、635年に長安にやってきて、太宗に布教を許された。各地に波斯寺(波斯はペルシアのこと)が建てられたが、玄宗の時に大秦寺(大秦はローマのこと)と改称された。長安の大秦寺内に建立された「大秦景教流行中国碑」(781年に建立され、明末に発見された高さ2.8mの碑)には、伝来の経過や盛衰の経過が記録されている。景教は、唐の武宗の廃仏(会昌の廃仏、845年)時に禁圧された。

 ゾロアスター教も伝来し、けん(示へんに夭)教と呼ばれた。ゾロアスター教は古くからペルシア人に信仰された宗教で、ササン朝では国教とされた。ゾロアスター教は、すでに北朝の頃に伝来していたが、唐代にはいってペルシア人(当時、胡人と呼ばれた人々の多くはペルシア人であった)が盛んに往来したので、各地に寺院が建てられて栄えたが、信者の多くは胡人であった。けん教も会昌の廃仏時に禁圧を受けた。

 ペルシアからは、マニ教も伝来し、摩尼教と呼ばれた。マニ教は、ササン朝の時に、ゾロアスター教・キリスト教・仏教を融合した宗教で、ササン朝で異端とされ禁止された。国外に流布し、中国には7世紀に伝来し、8世紀には長安に寺院も建てられたが、信者の多くは胡人で、やはり会昌の廃仏時に禁圧を受けた。

 イスラム教は、7世紀の後半、高宗の頃、アラブ人によって海路伝えられ、華南の港市に寺院が建てられ、信仰されたが、後に華北にも広まった。中国では回教、回回(ふいふい)、清真(せいしん)教とも呼ばれ、その寺院は清真寺と呼ばれる。清真料理と言えば豚肉を使ってない料理のことである。

 中国の三大宗教である儒教・仏教・道教もそれぞれ栄えた。

 道教は、祖とされる老子の姓名が李耳(りじ)で、唐室の李氏と同じであったことから、唐室祖宗の教えとされ、特別の地位を与えられて仏教の上位に置かれた。しかし、寺院・僧侶の数や財力では仏教にはるかに及ばなかった。

 仏教も、帝室や貴族の保護を受けて大いに栄えた。唐代の仏教史上、最も有名な出来事は玄奘のインド旅行である。

 玄奘(602〜664)は、13歳で出家し、各地の師のもとで仏教の教義の研究を行った。 しかし、仏典が十分そろっていないこともあり、多くの疑問を解くことが出来なかった。 そこで、その解決のためにどうしてもインドへ行きたいと考え、インド行きを朝廷に請願したが許されなかった。仲間の僧はあきらめたが、玄奘はあきらめることができず、国外に出ることを禁止するという国禁を犯して、単身で密出国という形で玉門関を出た(629)。

 玄奘は、高昌(現在のトルファン)で大歓迎を受け、帰路立ち寄ることを約束して高昌を出発し、天山南路を経てパミール高原を越えるという大変な難行の末、北インドに入り、インド各地を巡った後に、ナーランダ学院(5世紀、グプタ朝の時建立された仏教教学の一大研究所)で5年間学び、この間ハルシャ=ヴァルダーナ王にも会った。

 膨大な経典とともに再び陸路を経て、太宗の貞観19年(645)に帰国した。太宗はその知らせを聞いて大いに喜び、彼に玄奘三蔵の号を贈り、仏典の翻訳に援助を与えた。

 玄奘は、帰国の翌年(646)に、この大旅行の様子を「大唐西域記」にまとめた。この書物は当時の中央アジア・インドの状況を伝える貴重な史料になっている。この旅行記をもとに、16世紀に明の呉承恩が書いた長編小説が、孫悟空らの活躍で有名な「西遊記」である。つまり三蔵法師のモデルが玄奘である。

 玄奘は勅命によって、大慈恩寺(648年に建立された)に迎えられて、インドから持ち帰った仏典の翻訳にあたり、亡くなるまでの18年間に「大般若経」など75部1335巻の漢訳を行った。大慈恩寺内に建てられた大雁塔(西安観光の目玉の一つ)は、これらの仏典・仏像を火災から守るために建てられた(652)塔である。

 玄奘の死から7年後の671年、義浄(635〜713)も、広州から海路インドに向かった。25年の間、東南アジア・インド30カ国を訪れ、滞在し、インドではナーランダ学院で学び、多数の仏典をともなって、再び海路帰国(695)した。そして則天武后の出迎えをうけて洛陽に入り、勅をうけて仏典の翻訳にあたり、54部221巻を漢訳した。

 著書の「南海寄帰内法伝」は、旅行中の681〜691年、シュリーヴィジャヤ滞在中に、それまでの見聞を記したもので、当時の東南アジア諸国・インドの様子を知るための貴重な史料となっている。

 唐代の仏教では、禅宗・浄土宗・密教が普及するようになり、のちに日本に伝えられて、平安・鎌倉仏教に大きな影響を及ぼすことになる。 

 儒教も、唐が唐初から儒教の興隆に力をそそいだことや、特に儒教の古典が科挙の必修科目になったことから盛んであった。

 太宗に仕えて国子監(中央の諸学校を統轄した機関)の長官や皇太子の教育係などを歴任した孔頴達(くようだつ、こうえいたつ(574〜648))は、太宗の命をうけて、儒教の重要な経典である五経(詩経・書経・易経・春秋・礼記)の国定注釈書ともいうべき「五経正義」を編纂した(653年完成)。これが科挙試験の標準とされた。 しかし、国家によって五経の解釈が統一されたために、訓詁学(特に儒教の字句解釈を主とする儒学)が発達し、自由な学問の発達が阻害されることとなった。

 唐詩は、単に唐代の文化を代表するだけでなく、中国文化を代表するものといってよい。五言絶句や七言律詩の形式が完成し、多くの優れた詩人が輩出した。漢文で習った詩人の名やいくつかの唐詩が浮かんでくることと思う。

 盛唐時代の王維(701頃〜761)、李白(701〜762)、杜甫(712〜770)や中唐の白居易(772〜846)らは特に有名である。

 王維は自然詩人として、画家としても有名である。

 李白は、富裕な商人の子として生まれ、少年時代は四川で過ごし、25歳頃四川を出て、生涯のほとんどを放浪に過ごした。知人の推薦で玄宗に仕えたが(742〜744)、その後また各地を遍歴した。杜甫が「李白一斗、詩百編」と言ったように、酒を愛し、あびるように飲んで、その間に詩を読んだと言われ、「詩仙」と称された。

 杜甫は、官僚の家に生まれたが、何度も科挙に失敗し、職もなく妻子を連れて放浪した。40歳頃知人の推薦で下級官吏になったが、安史の乱にあい、反乱軍の捕虜となった。後に脱走し、粛宗のもとで官職に就いたが、2年後に免職となり、妻子とともに各地を転々とし、四川の成都に至り、6年間この地に留まった。この時期が杜甫の生涯の中でもっともよい時代であった。その後長江を下って放浪し、59歳で亡くなった。杜甫は「兵車行」に見られるように社会の不正を暴露・批判する詩を多く歌い、「詩聖」と称された。

 白居易、字は楽天。白楽天の名で知られている。29歳で進士に合格し、刑部尚書(司法長官)にまで昇進した。玄宗と楊貴妃の恋愛を歌った「長恨歌」で有名となったが、政治や官吏の腐敗を批判した詩を作ったため、二度左遷され、のち政界に嫌気がさして辞任した。唐代最多と言われるほど多くの詩を書いたが、平易な詩が多く、早くから日本に伝わり広く愛誦された。「白氏文集」は平安貴族の必読書で、日本の文学に大きな影響を及ぼした。

 文章では韓愈(768〜824)と柳宗元(773〜819)の二大文豪が有名である。ともに進士に合格し、官僚となり出世したが、後に左遷された。文章家としては、当時流行していた六朝以来の四六駢儷体(対句を多く使い、韻を踏んだ華麗な美辞を用いた文、内容より文章の美しさを重んじた)を排し、漢代の「古文」復興を主張し、古文復興運動の中心人物となり、ともに「唐宋八大家」(唐・宋の8人の代表的な文章家)に数えられている。

 絵画では、六朝に始まる山水画が進歩し、呉道玄(8世紀頃)、李思訓(651頃〜718)、王維らが現れた。呉道玄は、玄宗に仕え、人物・鬼神・山水を描き、仏寺や道観の壁画も多く描いた。李思訓は、唐の王室の出で、玄宗に仕え、山水画に優れた。

 書道も盛んで、多くの優れた書家が輩出した。唐代の官吏は科挙合格者だけでなく、科挙合格者以外でも官吏になれた。官吏の任用にあたっては、言(ことばづかい)・書(習字)などの試験があり、きれいな字を書くことは官吏になる必須の条件であった。このような理由からも書道は盛んであった。

 初唐の三大書家と呼ばれる欧陽詢(557〜641)、虞世南(558〜638)、ちょ(衣へんに者)遂良(596〜658)や盛唐の書家、顔真卿(709〜786頃)らが有名である。

 ちょ遂良は、王羲之の書風を継いで書に巧みであったので、太宗の書道の顧問となって信任を得て、中書令(宰相)となったが、次の高宗が武昭(則天武后)を皇后に立てるのに反対して左遷され、3年後に没した。

 顔真卿は、前述したように、安史の乱の際、平原(山東)の太守として義勇軍を率いて反乱軍と戦った。彼の書は従来の王羲之風の典雅な書を一変させ、男性的な力強い書風を始め、一世を風靡した。

 工芸の分野では、唐三彩が有名である。唐三彩は緑・褐・白の三色で彩色して焼き上げた陶器で、人物・動物を題材として作られ、葬具に用いられた。胡人の風俗なども題材として多く用いられ、当時のはなやかな貴族文化、異国趣味などを知る資料としても重要である。




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