2 東アジア文化圏の形成

4 唐の盛衰(その2)

 睿宗は2年後に、位を皇太子の李隆基に譲り、李隆基が28歳で即位した。李隆基が中国史上有名な皇帝である玄宗(685〜762、6代、位712〜756)である。玄宗は、翌年、年号を開元(713〜741)と改めた。

 玄宗は、即位すると名臣・賢臣の助けを得て、不要の官職を除くなどの官僚機構の整理を行った。土地を不法に占有している者からその土地を取り上げて、流民を戸籍に編入して、空き地を与えて耕作に従事させた。また府兵制(徴兵制)にかえて、募兵制を採用した(723年に始まる、府兵制の廃止は749年)。さらに異民族の侵入に備えて、辺境に募兵から成る軍団を置いた。この軍団の総司令官は節度使と呼ばれる。710年に置かれた河西節度使(甘粛省の西部)が最初で、玄宗の時代に10の節度使が置かれた(後には40〜50を数えた)。このような諸改革に取り組み、唐の支配体制の立て直しに専念した。

 この玄宗の治世前半の善政は「開元の治」と呼ばれる。しかし、長い治世の後半には、次第に政治に倦(う)み、特に寵愛した武恵妃を失ってからは(737)、失意の生活を送る一方で、美女を捜す使いを全国に出した。そのような時に、玄宗の目にとまったのが有名な「世界三大美女」の一人である楊貴妃(719〜756)である。

 楊貴妃、本名は楊玉環、父は四川省の県役人であったが早く亡くなり、叔父に養われた。その美貌をかわれて、玄宗の第18子の寿王の妃となった。そして玄宗が華清宮(長安の東、驪(り)山の温泉宮)に行幸したときに見初められた(740)。

 玄宗は、楊玉環を寿王と離別させ、道観(道教の寺院)に入れて女道士とし、やがて宮中に召した(744)。この時、玄宗は59歳、楊貴妃は25歳であった。翌年、楊玉環は貴妃(女官の最高位)となり(745)、玄宗の寵愛を一身に受け、楊一族は高位・高官に抜擢された。その一人が楊国忠である。

 楊国忠(?〜756)は楊貴妃の従祖兄(またいとこ)の間柄であったが、若い時は素行が修まらず、酒やばくちにこるならず者であり、一族からつまはじきにされていた。楊貴妃を頼って長安に出てくると、たちまち高官に抜擢され、財政手腕を認められて、玄宗の信任を得て、ついに宰相となった(752)。

 今や役人は楊氏一族のために奔走し、人々は楊氏一族に取り入ろうとし、楊家の門前には賄賂を積んだ車がひしめき合ったと言われている。

 玄宗と楊貴妃は、華清宮に遊び、玄宗は政治を省みず、国政は乱れた。玄宗と楊貴妃のロマンスは白居易(白楽天)の有名な「長恨歌」に歌われている。漢文で学んで記憶している人も多いと思う。

 権勢を誇る楊国忠と対立するようになったのが安禄山(705〜757)である。安禄山は、ソグド人(現在のウズベク共和国の辺りに住んでいた人々)の父とトルコ人(突厥)の母の間に生まれた雑胡(混血児)であった。父が早く亡くなり、母が突厥人の安氏と再婚したので安姓を名乗った。成長して蕃市(外国商品を取り引きする市場)の仲買人となった。安禄山は6カ国語を自由に操ったと言われている。

 後に范陽節度使(北京付近に設置)に仕え、中央の官吏に賄賂を送って、次第に昇進し、ついに平盧(へいろ)節度使(現在の遼寧省に設置)となった(742)。翌年、玄宗に謁見し、以後玄宗・楊貴妃に取り入り(後に楊貴妃の養子となる)、范陽節度使を兼任し、さらに河東節度使(洛陽の西に設置)となり(751)、3つの節度使を兼ねて、約20万人の大軍を擁する大軍閥にのし上がった。安禄山は晩年になるに従って肥満し、体重は330斤(約200kg)あり、腹は膝の下まで垂れていたと言われている。

 楊国忠は、強大な軍を擁するようになった安禄山を警戒し、両者は次第に対立を深めていった。玄宗が安禄山を宰相にしようとしたとき、楊国忠は激しく反対し中止になった。これを恨んだ安禄山が反乱に踏み切ったとも言われている。

 755年11月、安禄山は「姦臣楊国忠を除く」と称して、范陽で挙兵した(安史の乱、755〜763)。20万の安禄山の軍は、破竹の勢いで進撃し、わずか1ヶ月で洛陽を陥れ、安禄山は大燕皇帝と称した(756)。唐軍は、高仙芝(こうせんし、高句麗出身で唐に仕えた武将、西域に遣わされ、751年に中央アジアのタラスでイスラム軍と戦って敗れた)や顔真卿(709〜786、唐の政治家、特に書家として有名、安史の乱の際、平原(山東)の太守であったが、義勇軍を率いて奮戦した)らの抵抗もむなしく、安禄山軍は潼関(どうかん、長安の東の関所)を占領した。

 長安陥落を目前にして、玄宗・楊貴妃・楊国忠らは蜀へ落ち延びようとした。しかし、一行が長安の西、馬嵬(ばかい)にたどり着いたとき、飢えた兵士達は楊国忠を殺し、さらに楊貴妃を殺せと要求した。玄宗はやむなく宦官の高力士に命じて、楊貴妃を仏堂の中で絹で絞殺させた(756)。

 その頃、洛陽にいた安禄山は眼病を患って失明し、できものに悩まされ、遊楽にふけり、粗暴な振る舞いが多くなり、ついにその子、安慶緒に殺された(757)。しかし、安慶緒も 安禄山の部下であった史思明(?〜761)に殺された。

 史思明も、ソグド人と突厥の混血児で、安禄山と同郷の出身であった。早くから安禄山と親しく交わり、その反乱に従った。史思明は、安禄山が殺されると安慶緒と合わず、唐に降ったが、再び叛いて、安慶緒を殺して、大燕皇帝を称した(759)。しかし、史思明も末子を溺愛し、長子の史朝義に殺された(761)。その史朝義も、唐を援助したウイグル軍に敗れて自殺した。

 唐は、安史の乱(755〜763、安禄山と史思明の名を取ってこう呼ばれる)の鎮圧に苦しんだが、節度使を増強し、ウイグルの援助を得、反乱軍の内紛もあって、9年に及んだ反乱をやっと平定することが出来た。

 この間、玄宗は蜀に逃れて、子の粛宗(7代、位756〜762)に位を譲り、長安が回復されると、長安に戻ったが(762)、粛宗との間がうまくいかず、幽閉同然の余生のうちに没した(762)。

 安史の乱は平定されたが、長安・洛陽などの都市や農村は荒廃し、唐を支えてきた三本柱である均田制・租庸調制・府兵制は崩れ、この反乱を機に国力は衰退してしまった。

 唐は、安史の乱をウイグルの援助で平定したが、このため以後、北からのウイグルと西からの吐蕃の侵入に脅かされることになった。特に吐蕃には一時長安を占領された(763)。 西域地方は彼らの支配下に置かれるようになり、唐はかっての征服地の大半を失った。

 唐の弱体化に乗じて異民族の侵入が繰り返される中で、かっては辺境にのみ置かれていた節度使が内地にも置かれるようになり、その数は40〜50にも及んだ。彼らは、その地方の軍事権のみならず、政治・財政権も握って、軍閥を形成し、中央から独立した勢力となり、藩鎮と呼ばれるようになった。

 中央では、宦官が財政・軍事権を握るようになり、宦官は憲宗(11代、位805〜820)を殺して穆宗(ぼくそう)を立てた。以後、宦官は皇帝を殺して次の皇帝を立て、皇太子を廃しては意のままになる人物を皇太子に立てた。文宗(14代、位826〜840)は宦官を除こうとして失敗し、宦官の勢力は以後ますます強まった。

 この間、徳宗(9代、位779〜805)は、安史の乱後の回復を図り、楊炎(727〜781)の献策によって両税法(後述)という新税法を実施する(780年に全面実施)画期的な税制改革を行い、財政は一時好転したが、後に再び財政難に陥った。財政の立て直しのための増税、宦官や節度使の横暴、外民族の侵入による軍事費の増大などは結局人民に負担増としてのしかかってくる。こうした中で、逃亡して流民となる農民が続出し、貧富の差はますます大きくなり、社会不安が増大した。このような状況の中で起こったのが黄巣の乱(875〜884)である。

 黄巣(?〜884)は、山東省に生まれ、科挙をめざしたが数度受験に失敗した。後に塩の密売人となって富裕となり、多くの侠客を養っていた。

 塩は言うまでもなく生活必需品だが、唐はこれを専売とし、重要な財源であった。唐の財政が窮乏する中で、塩の価格はつり上げられ、750年に1斗10銭であったのが、788年には370銭にもなった。塩の密売人は、政府の価格より安く売っても大きな利益を得ることが出来たし、貧しい人々からは喜ばれた。彼らは大規模な組織を作り、自ら兵を養って武装して行商し、貧しい農民や流民を養った。

 同じ塩の密売人の王仙芝(?〜878)が、河北で挙兵し(875)、山東に進出してきた。黄巣はこれに呼応して河南・山東を荒らし回ったが、王仙芝が唐の官職につられて投降しようとしたので、これと別れ、王仙芝が敗死したあと、その軍を吸収して、江南・福建を経て広州を陥れ、そこから北上して長江流域に進出し、北上して洛陽・長安を占領し(880)、帝位について国号を大斉と称した。長安に入ったとき反乱軍は60万にふくれあがっていた。しかし、唐の反攻にあって長安を撤退し(883)、故郷の近くの泰山で自殺した(884)。

 黄巣の乱はほぼ10年にわたり、四川以外のほとんど全中国を荒掠した。唐が安史の乱後も150年間近く続いたのは、経済の中心である江南が荒廃をまぬがれたためである。その江南が荒掠されたことは、唐に決定的な打撃を与えることとなり、唐は全く衰退してしまった。日本からの遣唐使が廃止(894)された理由の一つは、黄巣の乱によって中国を旅行することが危険になったことであった。

 朱温(852〜912)は黄巣の乱の有力な部将の一人であった。彼は安徽省に生まれたが、早く父を失い、母と貧しい生活を送っていたが、黄巣の乱が起こるとこれに加わった(875)。しかし、黄巣軍が長安を占領したが略奪・放火・殺人などで人心を失うと、黄巣を見限って唐に寝返り、「全忠」の名を与えられ(以後、朱全忠と呼ばれる)、開封の節度使に任じられた(883)。朱全忠は、黄巣の乱鎮圧の功によって着々と力をつけ、昭宗(19代、位888〜904)を殺して、哀宗(20代、唐最後の皇帝、位904〜907)を即位させ、哀宗に迫って禅譲させ、907年についに皇帝となり、国号を梁(後梁(こうりょう)と呼ばれる)と称し、都を開封に置いた。

 こうして20代、約290年間続いた唐はついに滅亡した。 




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