2 東アジア文化圏の形成

3 唐の盛衰(その1)

 隋末、煬帝の高句麗遠征の失敗を機に各地で農民反乱が起こったが、これに各地の豪族が加わり、国を建て皇帝を称し、中国全土で激しい抗争が続いた。その混乱を収め、唐(618〜907)を建てたのが、山西で挙兵した李淵、すなわち唐の高祖(565〜635、位618〜626)である。李淵の先祖は、隋を建てた楊氏と同様に鮮卑が多く住んでいた武川の軍閥で、祖父は西魏・北周の「八柱国」(府兵を指揮する軍人貴族)という最高官職に就いた。このため李氏は鮮卑族であるという説も強い。

 李淵は7歳で父あとを継いで北周に仕え、楊堅(文帝)が隋を建てると、李淵の母が楊堅の皇后の姉にあたる(つまり李淵と煬帝は従兄弟ということになる)ことから、隋に仕えて八柱国となった。しかし、煬帝には警戒されて大した官職につけず地方長官などを歴任した。隋末の混乱期には、突厥防衛のために山西の留守(りゅうしゅ、非常時に皇帝から文武の大権を委任された官職)の地位にあったが、次男の李世民(後の2代皇帝太宗)の勧めで挙兵し(617)、突厥の援助を得て長安を占領した。当時、煬帝は江都にいたが、李淵は孫の恭帝を擁立して即位させた。そして煬帝が暗殺されると、恭帝に禅譲させ、唐王朝(618〜907)を樹立し、首都を長安に定め、唐の基礎を固めた。

 しかし、唐が成立したとはいえ、まだ長安の地方政権にすぎず、各地には皇帝を称する群雄が割拠していて、唐は群雄平定に10年近くかかり、次の太宗の時代にやっと中国統一を達成した(628)。この間、次男の李世民の活躍はめざましく、皇太子であった長男の李建成はこれを妬み、三男の李元吉と結んで李世民を討とうとしたが、かえって殺された(玄武門の変、626)。

 これを見た高祖は、李世民に譲位し、李世民は即位して太宗(位626〜649)となり、年号を貞観(じょうがん)と改めた。太宗の治世は「貞観の治」と呼ばれ、房玄齢や杜如晦(とじょかい)らの名臣に補佐されて、国内はよく治まり、理想的な政治が行われた時代とされる。唐は、隋の制度をほぼそのまま継承し、高祖・太宗の2代にわたって律令体制を整備・確立した。

 中央官制としては、三省・六部(りくぶ)を置いた。三省とは中書省(詔勅の立案・起草を司る)・門下省(詔勅の審議を行う、修正や拒否の権限があったので、貴族勢力の牙城となった)・尚書省(詔勅を実施する行政機関)である。尚書省の下に、吏部(官吏の選任を担当)・戸部(財政を担当)・礼部(祭祀、教育を担当)兵部(軍事を担当)・刑部(裁判を担当)・工部(土木を担当)の六部が置かれた。そして官吏の監察機関として御史台(ぎょしだい)が置かれた。

 また地方統治制度としては州県制をしいた。全土を10道に分け(627)、その下に州(隋・唐は従来の郡を廃して州とした)・県を置き、長安・洛陽・太原の重要都市には府を設置した。

 唐は律・令(れい、りょう)を整備し、成文法に基づいて政治を行うしくみ、いわゆる律令体制を完成した。律は刑法、令は行政法ないし民法典をさす。ほかに補充改正規定である格(かく、きゃく)と施行細則である式がある。この律令体制は日本をはじめ東アジア諸国に大きな影響を及ぼした。

 官吏任用制度としては、隋で始まった科挙制を受け継いで強化した。唐代の科挙の科目には秀才、明経、進士、明法、明算などがあった。唐の初めには、政治についての意見や時事問題についての対策などの論文を課す秀才が最高のものとされたが(学才を持つ人を秀才と呼ぶのはここから来ている)、中期以降は明経と進士が主要な科になった。

 明経は儒教の古典である「五経」が課せられ、進士は文章と詩賦によって作文能力をためすものであった。特に次第に進士が重視されるようになり、合格者は将来の栄達が約束されたも同然であった。当然、狭き門となる。進士科の毎年の合格者は、1000〜2000人の応募者に対して10人前後であった。

 対外的には、それまで北方で強大な勢力を持ち、隋・唐にとって脅威であった東突厥を討って可汗(かかん、突厥の王の称号)を捕虜とした(630)。当時、異常気象が突厥の地を襲い、連年の雪害で大量の家畜が死に、可汗が税を厳しく取り立てたために諸部が離反した。これに乗じて討伐軍を派遣し、可汗を捕虜とするという大勝利を得て、長年の北方の脅威を取り除くことに成功し、後に安北都護府を置いて統治した。

 さらに青海地方にあった吐谷渾(とよくこん)を服属させ(635)、639年には中央アジアのトゥルファン地方にあって栄えていた漢人系の高昌(こうしょう)に遠征軍を送り、640年にこれを滅ぼし、安西都護府を設置して(640)西域地方を支配下におさめた。

 当時、チベットにソンツェン=ガンポ(?〜649)が出て、640年頃までにチベット高原全体を征服して吐蕃(とばん)を建て、唐の西辺に侵入した。そのため唐の太宗は、文成公主(?〜689)を降嫁させ(641)、親和関係を成立させた。文成公主は唐と吐蕃の和平に尽力し、また中国の文物がチベットに入るきっかけをつくるなどの功績により、現在もラマ教(チベット仏教)の尊像に刻まれてチベット人に敬愛されている。

 東方では高句麗遠征を行ったが(645)、これは大失敗に終わった。
 太宗時代に度々の対外遠征により、唐の領土は拡大し、大帝国となり、次の高宗の時代に唐の領土は最大となっていく。

 有名な玄奘(三蔵法師)が西域を経てインドに行き、経典等を持ち帰ったのも太宗の時代のことであった。

 太宗の子は14人あったが、皇后との間に生まれた3人が皇位継承権を持っていた。長子は奇行・愚行が多かったため廃され、太宗は第4子の李泰を太子に立てようとしたが、皇后の兄で重臣であった長孫無忌(ちょうそんむき、長孫が姓)が強く推したので、第9子の李治が太子となり、太宗の死後、即位して第3代皇帝、高宗(628〜683、位649〜683)となった。高宗はおとなしく、心やさしい人物であった。

 対外的には、新羅と結んで百済(660)、高句麗(668)を滅ぼした。この時、日本は百済の復興を助けるために援軍を送ったが、白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦い(663)で、日本水軍は唐・新羅連合水軍に大敗し、日本勢力は完全に朝鮮半島から一掃された。

 西方では、西突厥を討って(657)、中央アジアを支配下におさめ、南方でも、ヴェトナム中部にまで進出し、安南都護府を置いて支配した。

 こうして高宗の時代には唐の領土は最大となり、東は朝鮮から西は中央アジア、北はモンゴル高原から南はヴェトナムに及ぶ空前の大帝国となった。

 唐は征服した周辺諸民族を統治するために、六つの都護府を置いて統治した。太宗から高宗の時代にかけて、安南都護府(622、ヴェトナムのハノイに設置)、安西都護府(640、中央アジアに設置)、安北都護府(647、外モンゴルに設置)、単于(ぜんう)都護府(650、内モンゴルに設置)、安東都護府(668、朝鮮の平壌に設置)、北庭都護府(702、中央アジアに設置)を設置し、都護は中央から派遣したが、その下の都督・刺史(長官)には服属した在地の族長を任命するという間接統治を行った。このような唐の懐柔策は「覊縻(きび)政策」と呼ばれる。馬を繋ぎ止めるの意味である。

 高宗は、長孫無忌やちょ遂良(ちょすいりょう、唐の政治家、書家として有名)らの反対を押し切って、武照を皇后とした(655)。武照は、中国史上唯一の女帝となる則天武后(624(628)〜705、位690〜705、武則天ともいう)である。

 則天武后の父は、山西で木材業によって一代で富をつくり、李淵が山西で挙兵したとき、これに従って長安に出て工部尚書にまで出世し、娘の武照は14歳で太宗の後宮に仕えた。武照は、太宗の死後、尼となって寺にいたが、その寺に参詣した高宗と会い、後に後宮に迎え入れられた。そしてたちまち高宗の心をとらえ、王皇后と蕭淑妃を失脚させて、ついに皇后になった(655)。

 皇后となった則天武后は、反対派を除き、一族の者を重用して政権の基盤を固めていった。そして元来、病弱で激しい頭痛もちであった高宗が30歳を過ぎた頃から激しいめまいや頭痛に悩み、政務を則天武后に任せたことから(660)、則天武后が高宗に代わって一切の政務を行うようになり、次第に独裁権力を握るようになった。

 そして高宗が亡くなると(683)、子の中宗(位683〜684、位705〜710)を第4代皇帝としたが、まもなく廃し、次いでその弟の睿宗(えいそう、位684〜690、位710〜712)を立てた。

 武后の専横に対して李敬業の反乱が起きたが(684)、これを鎮圧した後は、密告政治によって反対派弾圧を強化し、ついに690年、睿宗を廃し、自ら皇帝の位につき、国号を「周」(690〜705、通称は武周)と改めた。この時、則天武后はすでに67歳であった。

 即位後、仏教を保護し、大土木事業を盛んに行い、新しい人材の登用を行い、新しい漢字も作成させた。しかし、83歳となり病床についた。その時、臣下が決起して則天武后に譲位を迫って同意させた。地方に幽閉されていた中宗が呼び戻されて復位し、国号は再び唐に戻った。その年の終わりに則天武后は亡くなった(705)。

 中宗の復位後、まもなく則天武后が没すると、今度は中宗の皇后の韋后(いこう、?〜710)が政治に介入し、韋氏一族が政治の実権を握るようになった。政権をねらった韋后は娘と謀り、中宗を毒殺した(710)。
 しかし、中宗の死から18日後に、睿宗の三男の李隆基がクーデターを起こし、韋后とその娘を斬り、父の睿宗を復位させた。

 則天武后と韋后が政権を奪って、唐の政治を混乱させたことを「武韋の禍」とか唐の「女禍」と呼ぶ。これは女は政治に口出しすべきではないという封建的な歴史家の立場からの呼び方である。




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