2 東アジア文化圏の形成

1 隋の統一

 隋の建国者である楊堅(文帝、541〜604、位581〜604)の父は北周建国の功臣の一人で重臣であった。楊堅は父の後を継いで、北周の将軍から最高官職である「八柱国」(府兵を指揮する貴族)となり、娘が北周4代皇帝宣帝の妃となったため外戚となった。そして宣帝の死後、幼い静帝が即位すると後見となり、これに反対する政敵を倒し、静帝に迫って禅譲させ、隋王朝(581〜618)を開いた。なお楊堅には鮮卑族の血が濃いという説がある。都は引き続いて長安におき、名を大興城と改めた。そして588年に南朝の陳討伐の軍を起こし、翌589年に陳を滅ぼし、西晋の滅亡以来、約270年ぶりに中国を統一した。

 文帝は、魏・晋・南北朝以来勢力を伸ばしてきた貴族の権力を弱め、皇帝の権力を強化し、中央集権的な国家の樹立を図った。

 そのために、北朝の律令・制度を継承しながら国家体制の整備を行い、まず軍事面では府兵制を全国に実施した(590)。府兵制は、西魏に始まり北周で行われた兵農一致の兵制で、均田農民から徴兵し、かわりに租庸調を免じた。

 さらに経済面では、北斉にならって、北魏以来の均田制をまず華北で次いで全国で実施した(592)。18〜59歳の丁男に露田80畝・永業田20畝を支給し、租庸調の税を徴収した。ただし、煬帝の時に北魏で行われていた妻や奴婢への給田を廃止し、官位に応じて官人永業田を与えることとした。これにより豪族・貴族は大土地を所有し、権威を保つためには隋の官位に就かなければならなくなった。

 文帝が行った改革の中で最も重要なことは、従来の九品中正にかわって科挙(選挙、官吏を選択推挙するの意味)と呼ばれる官吏任用制を始めたことである。

 中正官の推薦による九品中正では「上品に寒門なく、下品に世族なし」といわれたように、上級官職を豪族が独占し、家柄は良いが無能な官吏がのさばり、家柄の低い貧しい家の才能ある者の進出を妨げることになったので、中正官を廃止し(598)、学科試験の成績によって官吏を採用し、官吏への道を能力に応じて平等に開き、豪族・貴族による高級官職独占の弊害を除き、君主権の強化を図った。

 南北を統一した隋は、江南の米をはじめとする物資を運ぶために運河の開削を始め、文帝の584年に広通渠(こうつうきょ、長安と黄河を結ぶ運河)、さらに587年にかん溝(淮河と長江を結ぶ運河)が開通した。これをさらに大規模に行ったのが、次の煬帝である。

 対外的には、当時、北方で突厥が強大となっていたが、文帝は内紛に乗じて離間策をとり、そのため突厥は東西に分裂した(583)。東方では高句麗が隋領に侵入してきたことを口実に30万の遠征軍を送ったが大失敗に終わった(598)。

 文帝は、はじめ長男の楊勇を皇太子としたが、武将として優れた才能を持っていた次男の楊広は母に取り入り、兄を皇太子の位から追い落とし、皇太子となった(600)。しかし、文帝が再び長男の勇を皇太子に立てようとしたので、楊広は機先を制して父を毒殺して皇帝になったと言われている。楊広すなわち中国史上有名な第2代皇帝、煬帝(ようだい、569〜618、位604〜618)である。

 煬帝の煬は「天に逆らい、民を虐げる」の意味であり、父を毒殺したとの説もあり、人民を酷使し、豪奢な生活を営なむなど、暴君とされ、中国史上あまり評判がよくない。

 煬帝は即位すると、毎月200万人を使役して洛陽に東都を造営した。

 煬帝といえば、すぐに大運河の建設というように、大運河の建設は煬帝の業績の中で最も有名であり重要なことである。大運河は、幅30〜50mの水路で華北と江南の各地を結んだ運河で、当時次第に開発が進み米作の中心となってきた江南(長江の中・下流域)の米を中心とする物資を、人口が多い華北へ運ぶために建設された。全長1500kmに及ぶ大運河は以後華北と江南を結ぶ大動脈となり、中国経済発展に大きく貢献し、現在もなお人々に恩恵を与えている。 大運河の建設は、すでに文帝の時に始まっていたが、大規模な建設を進め完成させたのが煬帝である。にもかかわらず煬帝が大運河を建設したのは、彼が好んだ江都(揚州)への豪遊のためであるとも言われるが、これはやや気の毒な感じもする。

 まず100万人を動員して黄河と淮水を結ぶ通済渠(つうさいきょ)を開削し(605)、すでに開通しているかん溝を通って黄河と長江が結ばれることとなった。次いで永済渠(えいさいきょ、黄河〜天津)(608)、江南河(長江〜杭州)(610)が開通した。

 通済渠が開通すると、最初の江都行幸が行われた。煬帝の「竜舟」は長さ200尺(約60m)、高さ45尺、4層づくりで100数十の部屋があった。それに諸王・百官・女官ら10万人の随従の人々を乗せた舟が数千隻が続き、200里(1里は約560m)の列をなしたと言われる。このために舟の引き手として8万人が農村からかり出された。この江都行幸は3回行われたが、3度目の時煬帝はその地で殺された。

 煬帝は対外的にも積極策をとった。北方の突厥に備えて「万里の長城」を修築したが、このために100万人の男女を徴発し、突貫工事で完成させた。また西の吐谷渾(とよくこん、青海省を中心に鮮卑系の人々が建てた国)を討って青海地方を併合し、西域諸国へも勢力を伸ばした。さらに南の林邑(ヴェトナム南部にあったチャム人の国)を討ち、琉球(現在の台湾)を征服した。

 この頃、聖徳太子が小野妹子を遣隋使として派遣した(607)。その時の国書に「日出(い)づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや、云々」の文があり、煬帝が怒ったということは有名である。

 高句麗は、周辺諸国が朝貢する中で、煬帝の入朝の要求に従わなかった。突厥と結ぶことをおそれた煬帝は大規模な高句麗遠征を強行した。

 第1回の遠征(611)には、113万人を越える水陸の大軍が集められ、輸送にあたる者230万人が徴発された。軍の長さは1000里にも達したと言われている。しかし、陸軍は遼河(遼東半島の西の河)の線で高句麗軍の頑強な抵抗にあって6ヶ月も進めなかった。一方水軍は陸軍の到着を待たずに高句麗の首都平壌から60里まで迫ったが伏兵にあって大敗し、4万の兵は数千になった。遅れて陸軍が平壌から30里まで迫ったので、高句麗は偽りの降伏をし、そして隋軍が退くところに襲いかかって大勝利を得た。隋軍30万5千のうち遼東まで逃げ帰った者はわずか2700人だったと言われる。

 翌年(612)、第2回目の遠征が行われたが、遼河を渡ったところで内地に楊玄感の反乱が起こったので、全軍が引き上げ、反乱の討伐にあたり2ヶ月で鎮圧した。第3回の遠征が614年に行われたが、高句麗が降伏したので、軍は遼東から引き上げた。 

 高句麗遠征の失敗を機に、大土木事業や度重なる外征に徴発されて苦しんでいた農民が立ち上がり、各地で反乱が相次いだ。

 こうした状況の中で自暴自棄となった煬帝は江都に移り(616)、遊興にふける日々を送った。617年に李淵は長安に入り、煬帝の孫を擁立した。ついにクーデターが起こり、煬帝は近衛軍の兵士に殺され(618)、隋は滅亡した。

2 突厥の活動

 モンゴル高原では、鮮卑が華北に移った後の5〜6世紀に、モンゴル系の柔然が強大となり、モンゴル高原を中心に南満州からタリム盆地を支配下に置き、北魏と対立した。しかし、5世紀後半に支配下にあった高車が独立した後、次第に衰退し、6世紀中頃にトルコ系の突厥に滅ぼされた。

 アルタイ語族に属するトルコ人は、古くはモンゴル高原の北方、バイカル湖の南からアルタイ山脈にわたる地域で遊牧生活を営んでいた。

 中国史に登場する丁零(ていれい、前3〜後5世紀頃、初め匈奴に属していたが、後に独立し、匈奴に対抗した)、高車(こうしゃ、丁零の後身、柔然に属していたが、5世紀後半に独立し、柔然と対立した)、鉄勒(てつろく、丁零・高車の後身、隋・唐時代に中国人が突厥以外のトルコ人を呼んだ総称、バイカル湖の南からカスピ海にわたる広い地域に分布していた)などはいずれもトルコ系民族である。

 トルコ系遊牧民のうち、アルタイ山脈の西南にいた人々は、初め柔然に服属していたが、6世紀の中頃から強大となり、柔然を滅ぼして、モンゴル高原にトルコ人による統一国家を建てた。この国は中国では突厥(とっけつ、トルコの正しい音のテュルクの音訳)と呼ばれた。

 遊牧国家の君主はハガン(可汗)の称号を用いた。国を保つ王の意味である。柔然の王が初めて用いたとされているが、突厥の君主もこの称号を用いた。

 突厥の建国者は伊利(いり)可汗(552〜553)と号した。その子3代の王、木杆(もくかん)可汗(?〜572)の時、ササン朝のホスロー1世と同盟してエフタル(5〜6世紀に中央アジアで活躍した遊牧騎馬民族)を挟撃して滅ぼし(566)、東は満州から西は中央アジアにまたがる大帝国となった。そしてシルク・ロードを押さえて巨利を得て栄えた。 しかし、6世紀末には内紛が起こり、当時成立したばかりの隋の文帝はこの内紛を利用して離間をはかったので、突厥はモンゴル高原の東突厥と中央アジアの西突厥とに分裂した(583)。

 その後まもなく東突厥は隋に朝貢することとなり、その後も内紛が続いたが、7世紀初めの隋末の混乱に乗じて、再び勢いを取り戻した。しかし、630年に唐に滅ぼされた。

 19世紀末に、ロシアの考古学者がオルホン川(モンゴル高原からバイカル湖に注ぐ川)の流域で碑文を発見し、デンマークの言語学者トムセンによって解読された。それによるとこの碑文は、東突厥の可汗の功績を讃えたもので、732・735年に建てられたものであることが分かった。そこから8世紀のトルコ語を記録した突厥文字が、北方遊牧民族の最古の文字であることが明らかになった。   




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