1 北方民族の活動と中国の分裂

5 朝鮮・日本の形成

 朝鮮の歴史は、伝説的王朝である箕子(きし)朝鮮(?〜前190頃、殷が滅亡したとき、王族の箕子が朝鮮に入って建国したと伝えられる)と衛氏朝鮮(前190頃〜前108、燕から亡命した衛満が箕子朝鮮に仕え、前190年頃にその国を奪って建国したといわれる)に始まる。

 前漢の武帝は、前108年に衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟(げんと)郡の4郡を設置した。以後約400年にわたって中国の支配が続いた。

 高句麗(?〜668)は、ツングース系(中国東北地方、東シベリアで狩猟・牧畜を主業としていた民族)の夫余(扶余)族が紀元前後の頃に、中国東北地方に建てた国である。高句麗は、後漢末に、当時遼東半島で自立した公孫氏の討伐を受けて、鴨緑江中流域の北に移り(209)、丸都城(がんとじょう)を築いた。さらに公孫氏を滅ぼした魏(220〜265)の遠征軍に丸都城を奪われ(244)、国王は東方に逃れた。その後立ち直り、中国の混乱期に乗じて、313年に楽浪郡を滅ぼし、朝鮮北部を領有した。そして高句麗は第19代の王、広開土王(好太王ともいう、位391〜412)、長寿王(位412〜491)、文咨(ぶんし)王(位491〜519)の3代の時に最盛期を迎え、半島の大半と遼東を領有する強国となった。

 広開土王は、396年以来4度にわたって朝鮮半島南部に遠征し、百済を攻め、百済救援に北上した日本軍を破った。このことが有名な好太王(広開土王)碑文に書かれていて、倭(大和政権)が朝鮮半島に進出していたことを裏付ける史料とされてきた。

 朝鮮半島南部では、3世紀頃、韓族の馬韓(南西部)・辰韓(南東部)・弁韓(南部)が分立し、総称して三韓と呼ばれていた。三韓のなかはさらに多数の小国に分かれていて、楽浪郡・帯方郡の間接的支配を受けていた。

 3世紀頃には56の国に分かれていた馬韓は4世紀中頃統一され、百済(ひゃくさい、くだら、4世紀中頃〜660)が成立した。3世紀頃12の国に分かれていた辰韓は4世紀中頃に統一され、新羅(しんら、しらぎ、4世紀中頃〜935)が成立した。

 弁韓は、3世紀頃には12の国に分かれていたが、4世紀中頃日本が進出し、任那(にんな、みまな、4世紀後半〜562、加羅(から)・伽耶(かや)とも)を支配下に置いた。

 こうして4世紀から7世紀にかけては、朝鮮には高句麗・新羅・百済の三国が分立し、抗争を続けたので三国時代と呼ばれる。

 6世紀にはいると百済・新羅が勢いを強め、南方の任那(加羅)諸国を次々に支配下に入れたので、大和政権は任那(加羅)に持っていた勢力の拠点を失い、朝鮮半島から事実上手を引いた(562)。

 有名な「魏志倭人伝」(「三国志」の一つである「魏志」の「東夷伝」の倭人の条の通称)に「倭人は帯方郡の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧(もと)百余国、漢の時朝見(朝貢し謁見するの意味)する者有り。・・・其の国、本(もと)亦(また)男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐して年を歴(へ)たり。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼という。」とある。

 邪馬台国の卑弥呼は239年に、魏の皇帝に使いをおくり、「親魏倭王」の称号と多くの銅鏡を贈られた。

 4世紀に入ると大和政権による統一が進み、5世紀に入ると朝鮮半島における政治的・軍事的立場を有利にするために、中国の皇帝の権威を利用しようとした。そのために倭の五王はたびたび中国の南朝に使いを送り、皇帝から高い称号を得ようとした。

 倭の五王とは、中国の史書に出てくる讃・珍・済(せい)・興・武である。讃は応神か仁徳か履中、珍は仁徳か反正、済は允恭、興は安康、武は雄略天皇にあたると考えられている。5世紀の初めからほぼ1世紀の間に9回朝貢した記録が「宋書」などの史書に書かれている。

 このような朝鮮・中国との交渉を通じて、5世紀から6世紀にかけて鉄器・土器を初めとする技術や漢字・儒教(513)・仏教(538、一説には552)などの学問・宗教も伝わり、文化が進んだ。   




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