1 北方民族の活動と中国の分裂

4 六朝時代の文化

 魏・晋・南北朝時代の文化に関して最も重要なことは、中国において仏教が社会一般に普及したことである。

 仏教の伝来については、従来は「後漢の明帝のとき(67)、二人のインド僧が中国に仏教を伝え、洛陽に白馬寺が建てられた。」とされてきたが、最近は「紀元前2年に長安の前漢の朝廷へ大月氏王(クシャーナ朝)の使節がやってきて、仏陀の教えについて語った。」 という記録から、年表等にも前2年と書かれている。いずれにしても紀元前後の頃に西域から伝えられたと考えてよい。

 しかし、最初の頃は一部の人々の間で外国趣味として扱われたか、シルク・ロードを通ってやってきた西域の人々に信仰されていたにすぎなかった。

 後漢末から五胡十六国時代、明日の命さえ知れない混乱・戦乱が続くなかで人々は否応なしに死について考え、救いを求めた。こうした状況の中で仏教が人々の心を捕らえ、4世紀後半から民衆の間にも広まっていった。

 仏教が急速に盛んとなっていく上で大きな役割を果たした人物は仏図澄(ぶっとちょう、?〜348)である。仏図澄は西域の亀茲(きじ、天山山脈南麓のオアシス都市、仏教が盛んで、付近にキジル千仏洞がある)に生まれた。本名はブドチンガ。310年に洛陽に来て、後趙(五胡十六国の一つ、羯族が建てた国)の石勒と石虎(暴虐な王として有名)の信頼を得て、混乱の華北で仏教を広めた。寺院893カ所を建立し、その門下生は1万人に達したと言われている。

 仏図澄と同じ亀茲の人で仏典の漢訳に大きな功績を残したのが鳩摩羅什(くまらじゅう、344〜413)である。本名クマラジーヴァ。父はインド人、母は亀茲王の妹で熱心な仏教徒であった。7歳で出家し、中央アジア・インドで仏教の教理を学んだ。前秦の苻堅の亀茲遠征の時に捕らえられ涼州(甘粛省)に移り、そこで中国語を学んだ。のちに後秦王の国師として長安に迎えられ(401)、布教に努めると共に「妙法蓮華経」をはじめとする仏典35部294巻を漢訳した。

 以後、仏教は華北では北魏の朝廷の保護を受けて(太武帝は弾圧したが)盛んとなり、また東晋から南朝にかけて江南でも仏教は非常に盛んであった。多くの仏寺・仏像が造られ、僧尼の数は激増した。特に南朝の梁の武帝は仏教に傾倒し、多くの名僧が輩出して南朝仏教の黄金期を現出した。

 東晋の僧、法顕(ほっけん、337?〜422?)は出家生活に必要な戒律の原典を求めるために、60余歳の老齢で数人の同志と共に長安を出発し(399)、敦煌を通り6年かかってインド(グプタ朝の時代)に入り、仏跡を巡拝し、仏典を得て、セイロン(現スリランカ)に渡り、インド・セイロンに約5年滞在した後、海路帰国の途につき412年に帰国した。帰国後は仏典の漢訳に従事した。その旅行記「仏国記」は、当時の西域・インド・南海諸国(東南アジア)の事情を知る上で貴重な文献である。

 仏教の隆盛とともに仏寺・仏像が盛んに造られ、また各地に石窟・石仏が掘られた。特に敦煌(とんこう)・雲崗(うんこう)・竜門の石窟は中国の仏教遺跡として有名である。

 敦煌莫高窟(ばっこうくつ、千仏洞ともいう)は五胡十六国時代の366年頃から鳴沙山の麓で開鑿され始め、元代(14世紀)までの間に約1000窟が掘られ、492窟が現存している。仏像が約2400体、壁画(仏画、仏陀の生涯、仏陀の伝説等)が約4万5千平方メートルにわたって描かれている。1900年にその一窟の壁の中から5万点に及ぶ経典類・古写本・古文書が発見された。なぜ大量の経典等が窟の壁の中に隠されていたのかという謎を11世紀の西夏の侵入による兵乱を避け、仏典を守るために隠したとの解釈で書かれているのが、有名な井上靖氏の「敦煌」である。映画化されたので見られた方も多いと思う。

 雲崗の石窟は、鮮卑族が建てた北魏の初期の都があった平城(現在の大同)の西20kmの所にある大石窟寺院である。3代太武帝の廃仏(仏教弾圧)の後に即位した4代文成帝(位452〜465)が仏教を復興し、5窟の大仏を造らせてから、6代孝文帝が洛陽に遷都する(494)までに大小53の石窟を東西1kmにわたって造営された。ガンダーラ・グプタ様式の影響を受けた仏像が並んでいる。特に有名な大仏は高さ14mもある。

 孝文帝の洛陽遷都が落ち着くと、孝文帝の子の宣武帝が雲崗の石窟にならい、洛陽の南13kmの伊水に沿う竜門に、父と曾祖母のために2窟を開き、さらに自らのために1窟を開いた。完成に23年間、80万人の労働力が投じられたと言われている。以後、唐の玄宗皇帝(位712〜756)までの約250年間に2100余の石窟が開かれた。その仏像は雲崗のそれに比べると中国化している。 

 仏教の隆盛に刺激されて、この頃道教が成立した。道教は後漢末の太平道(黄巾の乱の指導者である張角が始めた)や張陵の始めた五斗米道(天師道ともいう、祈祷によって病気を治し、謝礼に米5斗を取った)を起源とし、それに当時貴族の間に流行していた不老長生を願う神仙術と老荘思想、さらには易・呪術・占卜などの様々な要素を含む宗教である。

 北魏の寇謙之(363〜448)は、河南省の嵩山(すうざん)に20年間こもって修行し、天神の啓示を受けて、今までの五斗米道を改革して新天師道を創始し、太武帝の尊信を受けて、道教を国教とし (442)、さらに太武帝に廃仏を行わせた。

 道教は初めて国家公認の宗教となり、形式も整えられ、道士(道教の僧)・道観(道教の寺院)などの言葉や教団組織が確立された。道教の不老長生と現世的利益を願う教えが中国人に受け入れられ、以後長く民衆に信仰され、儒教・仏教とともに中国の三大宗教のひとつとなる。

 魏・晋・南北朝時代の文化でもう一つ特筆すべきことは、江南で優雅な中国的な貴族文化が発達したことである。

 江南では、三国時代の呉に続く東晋・宋・斉・梁・陳の6王朝が興亡したが、この6王朝はいずれも現在の南京に都を置いた。現在の南京は呉の時代には建業と呼ばれたが、東晋以後は建康と呼ばれた。この6王朝を六朝(りくちょう)と総称し、この時代を六朝時代といい、その文化を六朝文化と呼ぶ。

 六朝文化の担い手は貴族であった。当時の貴族の教養とされたのが「玄、儒、文、史」である。玄は老荘思想、儒は儒学、文は文学、史は歴史である。

 玄、儒、文、史のなかでは儒学は人気がなく振るわなかった。もっとも人気を集めたのが玄学すなわち老荘思想であった。こうしたなかで清談の風がうまれた。清談は二人が一つのテーマで論議をたたかわすものであるが、六朝時代になると老荘思想による論議が盛んとなり、次第に世間を超越して、虚無を論ずるようになった。いわゆる「竹林の七賢」の阮籍(げんせき)らは老荘思想を身につけ、世事を逃れて自由放逸な生活を楽しみ、酒を愛し、竹林を好み、清談を楽しんだ。清談は上流貴族社会の流行となった。

 六朝時代に文学、書道、絵画などの芸術が一つのジャンルとして確立した。その担い手も貴族であった。

 文学では東晋の詩人である陶潜(とうせん、字の淵明から陶淵明とも、365頃〜427)や南朝の宋の詩人である謝霊運(しゃれいうん、385〜433)が有名である。

 陶淵明は、東晋の名将の曾孫であったが、生活のために下級官吏を歴任した。405年に県の知事になったが、官吏の束縛と監督官の横暴を嫌い、「五斗米(県の知事の俸給の一日分、日本の約5升にあたる)のために腰を折らず(上役にぺこぺこするのはいやだの意味)」とわずか80余日で辞任した。このとき作ったのが有名な「帰りなんいざ、田園まさに蕪(あ)れんとす。なんぞ帰らざらんや」で始まる「帰去来辞」(ききょらいのじ)である。故郷の田園に帰って、酒と菊を愛し、自然に親しみながら自適の生活を送り、詩を作った。六朝第一の自然詩人・田園詩人といわれた。

 謝霊運は、晋の名門の一族で宋に仕えたが、政治的に軽んじられたために官を辞し、山水に親しみながら政治的不満を詩で発散した。のち広州に流罪となり、脱走を企てて失敗し、刑死した。

 文章は対句を多く用いた華麗な形式(四六駢儷体(しろくべんれいたい))が尊ばれ、南朝梁の昭明太子(501〜531)が編纂した「文選」(もんぜん、周から梁までの百数十人の詩と散文800余を収録した書で、日本の平安時代の文学にも大きな影響を与えた)に収められている。

 絵画には顧ト之(こがいし、344頃〜405頃)があらわれ、「画聖」と称せられた。東晋の画家、顧ト之は江蘇省の豪族の出身で、人物画を多く描き、また神仙思想にもとづく山水画を描いた。「女史箴図(じょししんず)」(宮廷女性に対する教訓(女史箴)を1節ごとに絵であらわして、原文の一部を付したもの)が彼の代表作品とされてきたが、現在では唐代の模写と考えられている。

 書道には、東晋の書家で、山東の名門の出身である王羲之(307頃〜365頃)があらわれ、「書聖」と称せられた。彼は諸官を歴任し、郡の知事になったが早く辞職し、その後は自然の中で悠々自適の生活を送った。書道の大成者でその書風は後世長く模範とされた。特に「蘭亭序(らんていじょ)」が有名である。

 また「水経注」(地理書)、「斉民要術(せいみんようじゅつ、現存する中国最古の農書)、「傷寒論(しょうかんろん、実用的医学書)などの実用書もつくられた。




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