2 五胡十六国と南北朝
西晋末の匈奴の兵乱(永嘉の乱)をきっかけに、中国の北辺や西辺からモンゴル系またはトルコ系の匈奴・鮮卑・匈奴の別種である羯やチベット系のてい(氏の下に一)・羌がいっせいに華北に侵入して国を建てた。匈奴・鮮卑・羯・てい・羌を五胡と呼ぶ。
華北では、4世紀の初めから5世紀の初めまでの約100年間に、匈奴の劉淵が建てた前趙(304〜329)を初めとして13の国が五胡によって建国された。これに漢人の建てた3つの国を合わせて五胡十六国といい、この時代を五胡十六国時代(304〜439)と呼ぶ。
この間、チベット系のてい族が建てた前秦(351〜394)の第3代の王、苻堅(位357〜385)は、漢人宰相を用いて内政を整え、華北を統一し、中国の統一をめざして100万と称する大軍で南下したが、ひ(さんずいに肥)水の戦い(383)で東晋軍に大敗し、以後国内は分裂し鮮卑族の勢力が増大した。
鮮卑族は、モンゴル高原の遊牧民で匈奴に服属していたが、匈奴の滅亡後の2世紀に一時統一されモンゴル高原で強大となった。その後、再び分裂し各地に諸部族が割拠した。五胡十六国時代には、諸部族の一つの慕容氏などが華北に侵入し、4世紀以後16国のうちの5つの国を建てた。
鮮卑族の一部族である拓跋氏は2世紀後半から鮮卑の中心氏族となり、拓跋圭(371〜409、道武帝、位386〜409)の時、前秦の崩壊に乗じて拓跋部を統一し、魏王の位に即いた(386)。のち華北に侵入・制圧し、平城(現在の大同)に遷都し、国号を北魏(386〜534)と称し(398)、部族制を解散して中国的王朝を創始した。
北魏の第3代皇帝の太武帝(位423〜452)は、北涼を滅ぼして華北の統一を完成し(439)、五胡十六国時代に終止符をうった。また鮮卑が華北に移動した後にモンゴル高原で強大となり、北魏の北辺を脅かしていた柔然(モンゴル系の遊牧民族)を討ち、南下して宋(南朝)を大破して打撃を与えた。彼は道士の寇謙之(363〜448)を信任して道教を信じ、仏教を弾圧して廃仏を行った(446)。これは中国史上「三武一宗の法難」といわれる仏教の四大弾圧の最初の弾圧となった。
北魏の第6代皇帝が有名な孝文帝(位471〜499)である。5歳で即位したため、486年までは祖母の太皇太后が執政した。その間に官吏の俸給制、均田制(485)(後述)、三長制(486)(5家を隣、5隣を里、5里を党とし、隣長・里長・党長(三長)を置いて戸口調査・徴税・均田制の実施を担当させた村落制度)等が実施された。
孝文帝は、幼少の時から読書を好み、儒教の教養を身につけ、中国文化にあこがれた。親政を始めると徹底した鮮卑族の中国化政策を進め、平城から洛陽に遷都し(494)、鮮卑人の胡服を禁止し(鮮卑族は遊牧に適した筒袖・ズボンを着用していたが、それを禁止してゆったりとした中国服に改めさせた)、胡語を禁止し(鮮卑語の使用を禁止し中国語を使用させた)、胡姓を禁止してすべて中国風に改めさせた。さらに鮮卑と漢人の通婚を奨励した。また洛陽郊外の龍門に大石窟が開かれていくのも洛陽遷都以後である。
孝文帝の徹底した鮮卑人の中国化政策は、北魏を急速に文化国家に変えていった。その一方で今までの素朴質実な鮮卑人の生活がぜいたくになり、それとともに軍事力が衰えていった。鮮卑族はその後、漢人に同化され、史上から姿を消していくこととなる。
孝文帝の死後、30数年で北魏は分裂し、東魏(534〜550)と西魏(535〜556)が成立した。東魏は、将軍の高歓が孝文帝の曾孫を擁立して建てた国であり、西魏は同じく将軍の宇文泰(うぶんたい)が高歓のもとから逃げてきた北魏最後の皇帝を殺して、孝文帝の孫を擁立して建てた国である。
高歓の子で東魏の宰相であった高洋は、東魏から禅譲により北斉(ほくせい、550〜577)を建てたが、北斉は6代続いた後に北周に滅ぼされた。
宇文泰の子が西魏から禅譲により建国したのが北周(556〜581)である。北周は北斉を滅ぼして華北を統一し5代続いたが、外戚の楊堅に国を奪われた。楊堅は隋の創始者である。
北魏・東魏・西魏・北斉・北周の5王朝をまとめて北朝(439〜581)という。
一方、江南では司馬睿によって建国された東晋(317〜420)が約100年間続いた。この間華北の五胡十六国の戦乱を避けて、華北の漢人の貴族・豪族をはじめ多くの農民も江南に移住してきた。このため江南の人口は急激に増加し、華北との人口比率もほぼ1:1になった。
華北を五胡に奪われ、江南に移住・定着した漢人は江南の開発を進めた。このため三国の呉以後、開発が進められていた江南(長江の中・下流域)では土地の開墾・灌漑用水路が引かれ、耕地が拡大し、水田耕作が普及して農業生産力が急速に増大した。以後、中国の経済の中心は江南に移っていくこととなる。
東晋の皇帝は、華北から移住してきた名門貴族と土着の豪族との対立・調整に苦心した。東晋では皇帝の力が弱く、華北の名族出身の王氏や桓氏の政権争いが続き、その間北方の五胡の侵略にも苦しめられた。特に前秦の苻堅の南下は最大の危機であったが、ひ水の戦い(338)で撃退した。
東晋の末に道教徒の孫恩の指導する民衆の反乱が起こった。これに乗じて軍閥の桓玄が帝位を奪おうとしたが、軍人の劉裕(356〜422)が桓玄を討って安帝を復位させて政治の実権を握った。後に安帝を暗殺して恭帝(東晋11代、最後の皇帝)を立て、翌年に禅譲によって帝位につき、建康(現在の南京)を都として、宋(420〜479)を建国した。宋の武帝(位420〜422)である。
宋は、439年に華北を統一した北魏の圧迫を受け、やがて皇族・武将の反乱が続く中で武将の蕭道成(しょうどうせい)が実権を握り、順帝から禅譲を受けて斉を建て、宋は8代約60年で滅んだ。
斉(せい、479〜502)も皇族の蕭衍(しょうえん)に国を奪われて7代で滅びた。
梁(りょう、502〜557)の創始者である武帝(蕭衍、位502〜549)の48年間にわたる治世は南朝及び南朝文化の最盛期であったが、末年に侯景(東魏の武将、梁に帰属したが、後に反乱を起こし、建康を陥れ、国号を漢と称したが、やがて敗死した)の乱が起こって 大打撃を受け、武帝の死からわずか8年後に武将の陳覇先に滅ぼされた。
梁を滅ぼし、陳(557〜589)を建てた陳覇先(ちんはせん、武帝、位557〜559)は微賤の出だったが、侯景の乱に功があり、後に禅譲を受けて即位した。陳は5代続いて隋に滅ぼされた(589)。その滅亡によって南朝が終わり、隋による中国の統一が達成された。
宋・斉・梁・陳の4王朝をまとめて南朝(420〜589)と呼ぶ。華北で興亡した北魏以後の5王朝と江南の4王朝が併存し、対立した時代を南北朝時代(439〜589)と呼ぶ。
後漢が滅び、三国が分立した時代から隋によって統一されるまでの約370年間を魏・晋・南北朝時代(220〜589)と総称する。