1 北方民族の活動と中国の分裂

1 三国と晋

 後漢末の184年に起こった黄巾の乱の中心勢力は、同年末までに後漢と地方豪族によって鎮圧されたが、その後も残党は各地で反乱を起こし、後漢の勢威は失われ、討伐に従事した地方豪族が各地に割拠することとなった。

 「三国志演義」は古くから多くの日本人に愛読されてきたが、黄巾の乱の鎮圧に立ち上がる劉備・関羽・張飛の「桃園の義」から始まる。私も中学時代に世界名作全集の三国志を読んで、三国志の世界に熱中した一人である。世界史の教員となるきっかけになった本の1冊である。ホームページの中にも三国志関係のページはたくさんあるので詳しく知りたい方はそちらを見て欲しい。以下後漢の滅亡から三国の鼎立への過程の概略をたどっていきたい。

 黄巾の乱から5年後に霊帝が亡くなり(189)、14歳の少帝(弘農王)が即位した。外戚と宦官の争いが続く中、残忍・凶暴な董卓が甘粛の兵を率いて洛陽に入り、少帝を廃し、9歳の皇太弟を即位させた。後漢最後の皇帝となる献帝(位189〜220)である。

 袁紹(えんしょう)を盟主とする反董卓連合軍が挙兵すると、董卓は長安遷都(190)を強行したが、後に部下の呂布に殺された。献帝は洛陽に逃げ帰ったが(196)、その献帝を本拠地の許(河南省)に迎えたのが曹操(155〜220)である。

 曹操は、宦官の養子であった曹嵩(そうすう)の子として、沛国(安徽省、劉邦の故郷の近く)に生まれ、20歳で後漢に仕え、黄巾の乱の鎮圧に功績をあげて頭角をあらわし、反董卓軍に加わって挙兵した。そして献帝を許に迎えることに成功した。そして官渡の戦いで袁紹を破って(200)ますます勢力を強め、後漢の実権を握り、丞相となった(208)。

 華北を支配下に置いた曹操は全土の統一をめざし南下し、荊州に攻め込んだ。

 「三国志」の英雄のなかで人気がある劉備(161〜223)はその頃荊州の劉表のもとにいた。前漢の6代皇帝景帝の子孫と称した劉備は、父を早く亡くし、母との苦しい生活のなかで初め儒学を志したが読書を好まず、侠客らと交わっていた。黄巾の乱が起こると、関羽・張飛と義兄弟の契りを結び、討伐軍に加わり次第に勢力を伸ばしていった。

 その後、曹操の客将となっていた時、献帝の側近が曹操打倒をはかり、劉備らに密書を出した。しかし、この計画がもれ、劉備は袁紹のもとへ逃げるが、その袁紹が曹操に敗れると、荊州(湖北省)の劉表のもとに身を寄せた。この荊州時代に有名な「三顧の礼」によって諸葛亮(孔明)(181〜234)を得た(207)。

 南下した曹操軍に敗れた劉備は夏口(現在の武漢)に逃れ、孔明の意見に従って、孫権(後漢末の群雄の一人であった孫堅の次子で、父・兄(孫策)の死後、江南を支配)と同盟を結び、有名な「赤壁の戦い」で曹操軍を破った(208)。

 赤壁の戦いは、80万と称する曹操軍(実数は約15万位)に対して、劉備・孫権連合軍は約3万人といわれている。偽って降伏した黄蓋(呉の武将)の「連環の計」(水上戦の経験がなく、船酔いに苦しむ曹操軍に大船同士を繋ぎ合わせる事を進言)と「火攻の計」によって曹操軍は大混乱に陥り、大敗した。

 赤壁の戦いの後、荊州の領有をめぐって、劉備と孫権は対立したが、結局劉備の領有が認められた(210)。劉備は、孔明の「天下三分の計」に従い、荊州を足がかりとして益州(現在の四川省)への進出をはかり、劉璋から益州を奪った(214)。

 こうして中国には、華北の曹操、江南(長江の中・下流)の孫権、四川の劉備に三分され、三国が鼎立することとなった。

 220年、曹操が亡くなり、曹丕(文帝、位220〜226)が魏王となり、同年献帝から禅譲を受けて帝位につき魏王朝(220〜265)を樹立した。

 曹丕の即位の知らせを聞くと、劉備(昭烈帝、位221〜223)は成都で即位し、蜀(221〜263)を建国した。

 その翌年、孫権(182〜252、位222〜252)も呉王として自立して呉(222〜280)を建国し、後に皇帝を称して都を建業(現在の南京)に置いた(229)。

 三国のなかでは魏の国力が飛び抜けて強かった。人口で見ると、魏が約440万人、呉が約230万人、蜀は約94万人で、国力は人口に比例すると考えていい。

 蜀では劉備が、呉に捕らえられ殺された関羽の復讐のために、呉に出兵したが大敗を喫して逃げ帰り、白帝城で亡くなった(223)。

 劉備亡き後、子の劉禅(無能な暗君といわれる)を助けて蜀を支えたのが諸葛亮(孔明)である。彼は「出師(すいし)の表」を書き、宿敵魏との戦いに出陣し(227)、以後何回も出兵したが華北を回復する事は出来ず、五丈原で陣没した(234)。

 孔明亡き後の蜀は急速に衰え、263年に魏に滅ぼされた。

 魏では文帝の死後(226)、司馬懿(179〜251)の権力がさらに強まった。五丈原で孔明と戦い守り抜いたのが司馬懿である。彼は曹操以来4代にわたって仕えた権臣で、249年のクーデターで丞相となり、魏の実権を握った。子の司馬昭は反抗する魏の4代皇帝を殺し、曹操の孫の元帝を即位させた。司馬昭は265年に亡くなったが、同年、子の司馬炎(武帝、位265〜290)が元帝から禅譲を受けて帝位に即き、晋(西晋)(265〜316)を建てた。

 武帝は、魏が滅びたのは王族に有力者がいなかったためと考え、司馬一族の者27人を王に封じ、軍事力を持たせ、司馬氏以外の諸将を押さえ、晋王室の守りとした。

 武帝は280年、南下して呉を滅ぼし、中国を再び統一した。呉は孫権から4代約60年で滅亡した。武帝は統一の直後に占田・課田法と呼ばれる土地制度を施行した。

 武帝の死後(290)、恵帝(290〜306)が即位したが暗愚であったため、外戚の政権争いが生じ、これに乗じて八人の王(王に封じられていた司馬一族の者)が政権をめぐって争う八王の乱(290〜306)が起きた。このとき諸王が周辺民族の兵力を利用したため、五胡の侵入を招くこととなった。

 五胡とは、当時中国の北辺または西北辺で活躍していた匈奴・鮮卑・羯・てい・羌の5族をいう。

 匈奴は、前漢の末の前1世紀中頃に東西に分裂した。分裂後、西匈奴は漢と東匈奴に滅ぼされた。さらに東匈奴は後漢の初めの48年に南北に分裂した。分裂後、北匈奴は後漢の攻撃を受けて中央アジア方面に移動し、さらに西進してヨ−ロッパに進出した。ゲルマン民族の大移動のきっかけをつくったフン族は北匈奴であるとの説が有力である。一方の南匈奴は後漢に服属して長城付近に定着した。その南匈奴の劉淵は八王の乱に乗じて漢(後に前趙と称す、304〜329)を建てた。

 劉淵は、308年に皇帝を称し、洛陽攻略をめざしたが、その直前に亡くなった(310)。そして子の劉聡の時に、洛陽を陥れ(311)、懐帝(武帝の子、晋の第3代皇帝)を捕らえ、さらに316年には長安の愍帝(びんてい、武帝の孫、晋の第4代皇帝)を降して西晋を滅ぼした。この匈奴を主とする兵乱を当時の年号から永嘉(えいか)の乱(307〜312)という。

 司馬懿の曾孫の司馬睿(しばえい、元帝、位317〜322)は、初め琅邪(ろうや、山東半島)王であったが、八王の乱を避けて江南(長江の中・下流域)に逃れていた。司馬睿は、西晋が滅ぼされると土着の豪族と華北から移住してきた名門貴族の支持を受けて、皇帝に即位して東晋(317〜420)を建国し、晋を復活させ、都を建康(現在の南京)に置いた。




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