1 学問と大学
西ヨーロッパの中世文化の特色はキリスト教文化という言葉で言い表すことが出来る。中世西ヨーロッパはカトリックの時代で、カトリック教会が絶大な権威をもっていたので学問・芸術なども教会の支配下にあった。最高の学問は、キリスト教の教理を研究する神学であり、建築や美術は教会とその装飾のために発達した。
中世の学問の担い手は、中世ヨーロッパの共通語であるラテン語が読み書きできる聖職者で、彼らが学者であり知識人であった。人口の大部分を占める農民はほとんど読み書きが出来なかった。
最高の学問は神学であった。「哲学は神学の婢(はしため、召使い・下女の意味)」ということわざはこのことをよく示している。
神学は、初めのうちはアウグスティヌスなどの教父の著述を読む程度であったが、十字軍以後はビザンツやイスラムからギリシアの哲学(特にアリストテレスの哲学)を取り入れてキリスト教の信仰・教義を哲学的に体系化したスコラ学(スコラは教会付属の学校の意味)に発展した。
イタリア生まれで、のちにカンタベリ大司教となったアンセルムス(1033〜1109)は、神や普遍は個々の事物に先立って存在するという実在論を唱えて「スコラ哲学の父」と呼ばれた。これに対してアベラール(1079〜1142)は、実在するものは個々に事物だけで、神とか普遍は後につくられたもので名のみのものにすぎないという唯名論(ゆいめいろん)を主張した。
この実在論と唯名論の対立は、普遍闘争と呼ばれ、ヨーロッパ全域で長く争われたが、アリストテレス主義の導入によるトマス=アクィナスの説によって解決された。
トマス=アクィナス(1225頃〜74)は、イタリアの神学者・スコラ哲学者で、ナポリ大学で学んだ後にドミニコ修道士となり、パリ大学で教鞭をとり、帰国後はローマの修道院で研究に励み、主著「神学大全」(1266〜73年に執筆)を著して信仰と理性の調和・統合をはかった。彼はアリストテレス哲学をキリスト教思想に調和させて普遍論争を終わらせ、また神学と哲学の結合に努めたのでスコラ哲学の大成者とされている。
しかし、教皇権の衰退とともに、中世末にはウィリアム=オッカム(1290頃〜1349頃)らの唯名論が有力となった。(神学・スコラ学については不勉強で、上の記述は他の書物を参考にしてまとめただけのものであることをお断りします)
中世ヨーロッパでは、キリスト教の教義やカトリック教会の教えに反するような自由な思想や学問は許されず、合理的な学問の発達は妨げられた。
自然科学は上記の理由で発達しなかったが、中世最大の自然科学者といわれるイギリスのロジャー=ベーコン(1214頃〜94)は、12世紀以後イスラム科学の影響を受けて、実験や観察を重んじ、近代自然科学への道を開いた。
12世紀ルネサンスといわれるように、12世紀の西ヨーロッパではイスラム文化やビザンツ文化が盛んに取り入れられ、イスラムやギリシアの学術文献がアラビア語やギリシア語からラテン語に翻訳・研究されて学問が盛んとなった。
イスラム文化は、主にトレドを中心とするスペインやシチリアを中心とする南イタリア経由で、そしてビザンツ文化はコンスタンティノープルと盛んに通商を行ったヴェネツィアを中心とする北イタリア経由で西ヨーロッパに伝えられた。
西ヨーロッパではイスラム文化やビザンツ文化の影響を受けて様々な学問が盛んとなったが、これらの学問は最初の頃は修道院や私塾で教えられるに過ぎなかった。しかし、12 世紀頃からはその頃ヨーロッパ各地に生まれてくる大学で教えられるようになった。
ヨーロッパの大学の多くは12世紀以前から各地にあった教会や修道院付属の学校を母体として生まれた。
有名なパリ大学は、12世紀中頃ノートルダム大聖堂付属の神学校から昇格し、フィリップ2世の保護を受けて、教授学生組合として発展した。ソルボン(パリ大学神学部の別名であるソルボンヌは彼の名に由来する)によって創始された神学部が有名で、教会大分裂の時代まで神学の最高権威で、ヨーロッパ各地から多くの優れた学生が集まった。またパリ大学は、14世紀以降ヨーロッパ各地に設立される大学の模範となった。
ヨーロッパ最古の大学は、ナポリの南にあったサレルノ大学である。サレルノ大学は、イスラムから受け入れた医学で有名であり、11世紀中頃に設立され、ギリシアの医学者ヒポクラテスの研究に基づく講義が行われていた。
サレルノ大学と並んで古い大学が北イタリアのボローニャ大学で11世紀末に設立された。法学者がローマ法の注釈を始め、ローマ法と教会法で有名になると全ヨーロッパから学生が集まり、13世紀中頃には学生数が1万人に達したと言われている。
ボローニャ大学は学生の大学であった。学生達は相互扶助を目的としてウニヴェルシタス(universityの語源)と呼ばれる団体を結成して、彼らの生活を守るために部屋代の値下げなど様々な要求を出し、聞き入れられないときは他の町に移住すると脅して要求を認めさせた。当時の大学はきちんとした校舎などもなかったので、学生が他の町に移ることは大学が他の町に移ることを意味した。
後には学生達は教授に対しても講義ボイコットなどの手段で対抗したので、教授達は学生の中から選ばれたレクトル(学長)に服従の宣誓をするようになった。当時の教授達の収入は学生からの徴収金に拠っていたので、教授達は学生達のボイコットには抵抗できなかった。
イギリスのオックスフォード大学は、12世紀後半にパリを引き上げた学生達によってパリ大学を模範として設立された。神学部を中心として、多くの優れた学者を輩出し、ケンブリッジ大学と並んでイギリスの指導者層を多く出した。
ケンブリッジ大学は、13世紀の初めにオックスフォード大学の教授や学生が移ってきて設立され、法学で有名であった。
上記の大学に続いて、13〜15世紀にかけてヨーロッパ各地に多くの大学が設立された。 14世紀に設立されたプラハ大学はドイツ最初の大学として名高く、のちにフスも同大学の総長となっている。
中世ヨーロッパの完全な大学は、神学・法学・医学の3学部をそろえ、その下に人文学部があった。人文学部は教養課程にあたり、いわゆる自由7科(文法(ラテン語)、修辞、論理、算術、幾何、天文、音楽)が必修とされ、これを修めないと専門学部に入れなかった。
2 美術と文学
中世の美術は、教会建築とそれに付随する絵画・彫刻を中心に発達した。
教会建築は、はじめセント=ソフィア大聖堂に代表されるビザンツ式が模倣されていたが、11〜12世紀にかけては、ロマネスク式が盛んとなった。ロマネスクとはローマ風の意味である。その特色はドーム型のアーチとその重みを支える重厚な石壁にあった。窓が小さいために内部は薄暗く、広い壁面は壁画で飾られていた。ピサの斜塔で有名なピサ大聖堂やヴォルムス大聖堂などがその代表例である。
12世紀末から、教会の権威の増大と新興市民階級の経済力の上昇を背景として、尖塔とアーチと広い窓を特色とするゴシック式が教会建築の主流となり、全ヨーロッパに普及した。
ゴシック式の普及は教会の大規模化を促し、聖堂の多くは天に向かってそびえ立つ大小の尖塔をそなえ、その広い窓はステンドグラスで飾られ、彫刻もロマネスク式より写実的になった。パリのノートルダム大聖堂、北フランスのアミアン大聖堂・ランス大聖堂・シャルトル大聖堂やドイツ最大のゴシック建築であるケルン大聖堂などがその代表例である。
中世の文学を代表するのは騎士道物語である。騎士道物語は英雄的騎士にまつわる伝説や騎士道を題材とし、ラテン語でなく日常語で書かれて吟誦された。フランスの「ローランの歌」、イギリスの「アーサー王物語」そしてドイツの「ニーベルンゲンの歌」などがその代表作であるが、これらははじめ口語で吟誦され、のちに文字で書かれた物語である。
「ローランの歌」は、カール大帝の対イスラム戦に従軍したローランの武勲と友情・恋を歌った武勲詩である。主人公のローラン(カール大帝の甥)はカール大帝(作品中では200歳の老王として書かれている)のイスパニア遠征に従軍し、殿(しんがり)軍として引き上げるときにピレネー山脈中のロンスヴォーでイスラム軍と戦って裏切り者のために戦死する。
「アーサー王物語」は、イギリスの先住民であるブリトン人(ケルト系)の伝説的英雄で、しばしばサクソン人を撃退したアーサー王と彼の宮廷に集まる円卓騎士の武勇を題材とした騎士道物語で12世紀頃に成立した。
「ニーベルンゲンの歌」は、ジークフリートの妻クリームヒルトが、兄グンター(ブルグンド王)の臣下ハゲネに殺された夫ジークフリートの敵を討つために、エッツェル(フンのアッティラ)に嫁し、グンターとハゲネを殺させて彼女も死ぬという、クリームヒルトの復讐とブルグンド族の没落を描いた叙事詩で13世紀に完成した。
また12世紀以後、南フランスの吟遊詩人(トゥルバドゥール)やドイツの吟遊詩人(ミンネジンガー)が各地を遍歴し、宮廷に招かれて騎士的愛をテーマにした叙情詩を歌った。