5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立

6 ドイツ・イタリア・北ヨーロッパ

 オットー大帝が神聖ローマ帝国の皇帝になって以来、ドイツ皇帝はローマ皇帝の称号を保つために、旧ローマ帝国の中心地イタリアの統治に力をそそぎ、イタリアへの遠征と干渉を行い教皇と対立した。このためドイツ本国の統治をおろそかにしたので国内では大諸侯の台頭をまねき、皇帝の権力は振るわなくなった。歴代の神聖ローマ皇帝がとったこのような政策はイタリア政策と呼ばれている。

 シュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン朝、1138〜1254)の第2代皇帝フリードリヒ1世(位1152〜90)は、イタリアにおける帝権拡大をはかり5回にわたってイタリア遠征を行ったが、第3回十字軍に参加して、小アジアで溺死した。

 第6代皇帝フリードリヒ2世(位1215〜1250)は、祖父のフリードリヒ1世と並んで中世ドイツの君主のうち最も親しまれている君主である。シチリア女王を母として生まれ、幼年時代を教皇インノケンティウス3世の後見の下で過ごし、彼の支持を得て神聖ローマ皇帝となった。

 彼はシチリアを中心にドイツ・イタリアにまたがる帝国の建設を夢見て、イタリア政策に全力を傾け、ロンバルディア同盟(北イタリアのミラノを中心とする都市同盟で教皇と結んだ)と激しい抗争を繰り返した。そのため、その治世の大半をシチリア・イタリアで過ごした。

 フリードリヒ2世は、イタリア政策を強力に進めるために、ドイツ国内では聖俗諸侯に大幅な特権を認めたので、大諸侯の力がますます強まり、皇帝によるドイツの統一は困難となった。

 フリードリヒ2世の死後まもなく、シュタウフェン朝は断絶し(1254)、以後20年間にわたって、神聖ローマ皇帝が実質的に空位となる、いわゆる大空位時代(1256〜73)が訪れ、国内は混乱をきわめた。この間、オランダ伯やイギリスやフランスの傀儡皇帝が立てられたが、事実上は無皇帝時代であった。

 1273年には、ハプスブルグ家のルドルフ1世が皇帝に選ばれ、大空位時代に終止符を打ったが、その後も皇帝は少数の有力諸侯によって選ばれようになった。

 有力諸侯は、ルクセンブルグ朝(1347〜1437)のカール4世(位1347〜78)を皇帝に選び、「金印勅書(黄金文書)」(1356)によって彼らの特権を法的に承認させた。

 金印勅書は、皇帝選出権を持つ聖俗7人の諸侯(マインツ大司教・トリール(トリエル)大司教・ケルン大司教・ベーメン(ボヘミア)王・ファルツ伯・ザクセン公・ブランデンブルク辺境伯)を定め、皇帝選出をめぐって混乱が生じた場合は上記の7人の諸侯(彼らは選帝侯または選挙侯と呼ばれた)の多数決によることを定め、また選帝侯の特権を認めた。

 これによって皇帝選挙制が確立され従来の混乱は避けられたが、その所領における完全な主権を認められた選帝侯はとびぬけて強大な力を持つこととなり、彼らはもはや皇帝に臣従する臣下ではなくなり、皇帝の権力はますます振るわなくなった。

 その後、1438年に皇帝となったハプスブルグ家のアルプレヒト2世(位1438〜39)以後、19世紀初めに神聖ローマ帝国が消滅するまで、ハプスブルグ家が代々皇帝を出した。

 中世末にイギリス・フランス・スペインなどで国王による中央集権化が進むなかで、ドイツでは皇帝の権力はますます弱体化し、13〜14世紀にかけて大諸侯は事実上独立し、ドイツでは大小の諸侯・自由都市など合わせて約300余の領邦(領邦国家ともいう、13世紀以後のドイツで形成された地方国家)が分立し、ドイツの分裂は決定的となった。

 この間、ドイツ人は12世紀以降、エルベ川以東のスラブ人の居住地域に植民し、ブランデンブルク辺境伯領やドイツ騎士団領などを作りあげた。エルベ川以東の地では、西ヨーロッパで農奴制が崩れて行くなかで、領主制と農奴制が逆に強化されていった。

 スイスは、ドイツからアルプスを越えてイタリアに至る通路として重要な地であったので、神聖ローマ帝国は直轄地として支配していた。

 ハプスブルグ家が皇帝位につくと、ハプスブルグ家の居城に近いこの地方への領土拡大をはかって圧迫を加えたので、ウリ・シュヴィッツ・ウンターヴァルデンの3州(原初3州)は同盟してハプスブルグ家の支配に反抗し、独立運動を開始した。モンガルテンの戦い(1315)、ドルナッハの戦い(1499)に勝利をおさめ、13州(同盟州は次第に増加した)は事実上の独立を達成し、1648年のウェストファリア条約でその独立が国際的に承認された。

 スイスの独立運動の伝説的英雄ヴィルヘルム=テルの物語は、19世紀初めのドイツ人劇作家シラーの戯曲によって広く知られるようになった。

 イタリアも、ドイツと同様に国家の統一は実現せず、教皇領をはじめ多数の王国・諸侯国・都市共和国などが分立した。

 イタリアでは、フランク王国が分裂していくなかで、いち早くカロリング朝が断絶し(875)、しかもその前後からイスラム教徒の侵入に脅かされた。

 さらに、ドイツで神聖ローマ帝国が成立すると(962)、以後ドイツ皇帝のイタリア政策による侵入と干渉に苦しめられた。

 11〜12世紀には、教皇とドイツ皇帝間の聖職叙任権闘争がからんでゲルフ(教皇党、教皇支持派で都市の大商人が多い)とギベリン(皇帝党、ドイツ皇帝を支持する派で貴族・領主層が多い)の党争が激しくなった。

 また11世紀以後、ノルマン人の侵入を受け、シチリア島と南イタリアにはノルマン人による両シチリア王国(1130〜1860)が成立し、さらに十字軍以後は都市が繁栄し、多くの都市共和国が成立した。

 こうして中世末期には、教皇領・ナポリ王国(両シチリア王国)・ヴェネツィア共和国・ジェノヴァ共和国・フィレンツェ共和国・ミラノ公国・サヴォイア公国など多数の王国・諸侯国・都市共和国などが分立した。

 しかもこれらの諸国家は単独ではイタリアを統一する力はなく、伝統的なドイツのイタリア政策による干渉に加えて、中央集権化を成し遂げたフランス・スペインなどの干渉も強まり、イタリアはその抗争の場となり、分裂状態が長く続き、統一は不可能となった。 政治的には分裂していたイタリアであったが、都市の繁栄を背景に14世紀以降ルネサンスが花開き、文化面では他のヨーロッパ諸国をリードした。

 ノルマン人によって建国されたデンマーク王国(8世紀頃に国家を形成)・スウェーデン王国(10世紀頃に王国形成)・ノルウェー王国(9世紀に王国形成)の北欧三国は、14世紀末にデンマーク女王マルグレーテ(位1387〜1412)のもとでカルマル同盟(1397)を結び、同君連合の王国(デンマーク連合王国、1397〜1523)を形成した。

 マルグレーテは、デンマーク王の王女として生まれ、後にノルウェー王と結婚した(1363)。父と夫の死後、子のオラーフが王位を継いだがオラーフも没したため、デンマーク・ノルウェー女王となり、スウェーデンに勢力を伸ばし、スウェーデン王を破って捕虜とし、三国が共通の君主を頂くことを認めさせ、カルマル同盟を結んで三国の王を兼ねることとなった。このカルマル同盟はスウェーデンが独立するまで(1523)続いた。

 アジア系のフィン人(現在のフィンランド人の祖)は、700年頃に現在の地に定着したが、13世紀末にスウェーデンに併合された。 




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