5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立

4 百年戦争とばら戦争

 イギリスは、ノルマン朝・プランタジネット朝の成立によってフランスに広大な領土を持つこととなり、その奪回をはかるフランスとの間で抗争が繰り返された。

 フランスでフィリップ2世からフィリップ4世の時代に王領の拡大と中央集権化が進むとフランス国内のイギリス領をめぐる英仏の抗争はますます激しくなった。

 フィリップ4世はフランドル・ギュイエンヌ地方に対するイギリスの影響力を排除し、その王領化を企ててエドワード1世と両地方をめぐって激しく争った。

 フランドル地方は中世ヨーロッパで最大の毛織物の産地であったが、その原料の羊毛の大部分を当時のヨーロッパ第一の羊毛生産国であるイギリスから輸入していた。

 フィリップ4世は、フランス国王の封建的臣下であるフランドル伯領を直接支配下におこうとしたが、イギリスは経済的に緊密な関係にあったフランドルにフランス王の勢力が及ぶことを阻止しようとした。百年戦争のきっかけは王位継承問題であったが、最大の原因はこのフランドルをめぐる英仏の争いであった。

 またギュイエンヌ地方はぶどう酒の特産地として知られ、ボルドーからイギリスに輸出され、イギリスの王侯・貴族に愛飲されていた。

 フランスではカペー朝が断絶した後、フィリップ4世の甥のフィリップ6世(位1328〜50)が即位し、ヴァロア朝(1328〜1589)を創始した。

 フィリップ6世は、イギリス王がギュイエンヌに関してはフランス王の封建的臣下であることを利用し、口実を設けてギュイエンヌの領地の没収を宣言した(1337)。

 これに対してイギリス国王エドワード3世(位1327〜77)は、母イサベラがフィリップ4世の娘であることから、甥のフィリップ6世に王位継承権があるなら、孫の自分にも当然王位継承権があると主張して挑戦状を突きつけ(1337)、その一方でフランドル諸都市に対しては羊毛輸出の禁止で脅し、対仏反乱を起こさせた。

 こうして百年戦争(1339〜1453)が始まった。

 挑戦状を送った翌年にイギリス軍がノルマンディーに上陸し、その翌年に戦争が開始された。近年、この戦争開始の年(1339)をもって百年戦争の開始としている。

 百年戦争と呼ばれているが、百年間絶えず戦争が続けられたわけでなく、休戦の期間が長く、時折決戦が行われた。

 百年戦争の最初の決戦となったのがクレシーの戦い(1346、クレシーは北仏、カレーの南)である。この戦いではエドワード黒太子(エドワード3世の長男、黒い鎧を着用していたことからBlack Princeと呼ばれた)の率いるイギリス長弓隊が活躍し、重装騎兵とジェノヴァの傭兵からなる弩(いしゆみ)隊に完勝した。またイギリス軍が初めて大砲を使用した戦いとしても有名である。クレシーの戦いの翌年、イギリス軍はカレーを占領してこの町を大陸への足がかりとした。 

 エドワード黒太子は、1355年にイギリス領ギュイエンヌに渡り、翌年北上してロワール川流域に進出し、その地を荒らしまわり戦利品を獲得して引き上げようとしていた。その時、ノルマンディーから南下してきたフランス国王ジャン2世(位1350〜64)の軍勢と遭遇し、ここにポワティエの戦い(1356)が始まった。この戦いは激戦の末にイギリス軍の勝利に終わった。そして敗れたジャンは捕虜となった。

 これより前に西ヨーロッパではペストが大流行し(1346〜50)、フランスでも人口の3分の1が病死したと言われている。さらに大農民反乱であるジャックリーの乱(1358)が起こるなどフランス国内は大混乱に陥った。

 こうした状況の中でブレティニーの和約が結ばれ、イギリスはポワトゥー・ギュイエンヌ・ガスコーニュ・カレーを獲得する代わりに王位継承権を放棄し、ジャン2世を釈放し、一時休戦した。

 フランスでジャン2世の死後、名君シャルル5世(位1364〜80)が即位すると、イギリスに占領された地を次々に奪回し(1369〜75)、75年にはイギリスはカレー・ボルドー・バヨンヌ(フランス南西部)を残すに過ぎなくなった。

 シャルル5世の死後、長男シャルル6世(位1380〜1422)が11歳で即位したが、不幸にもブルターニュ地方に遠征した際に発狂し、以後長い狂気と短い正気を繰り返したのでブルゴーニュ公が摂政となった。

 以後、フランス国内の諸侯は、オルレアン公(シャルル6世の弟)を中心とするアルマニャック派(国王派)とブルゴーニュ公(シャルル6世の叔父)を中心とするブルゴーニュ派に2分され、対立・抗争を続けた。ブルゴーニュ公は、当時フランドルを併合し、フランス東部に強大な勢力を打ち立てていたが、後にイギリスと手を結んだ。

 一方、イギリスではエドワード3世の後、リチャード2世(位1377〜99、エドワード黒太子の子)が即位したが、一族のランカスター家のヘンリ(後のヘンリ4世)と争い、捕えられて廃位後に暗殺され、プランタジネット朝は断絶し、ランカスター朝(1399〜1461)が成立した。

 ランカスター朝の第2代国王ヘンリ5世(位1413〜22)は、フランスの内乱に乗じてフランスでの勢力回復をはかりノルマンディーに出兵した(1415)。そしてアザンクールの戦い(1415)で大勝し、トロアの和約(1420)を結び、フランス王太子シャルル(後のシャルル7世)の王位継承権を否認し、イギリス王太子ヘンリのフランス王位継承権を認めさせた。

 1422年にヘンリ5世とシャルル6世が相次いで没し、イギリスの幼王ヘンリ6世(位1422〜61)が英仏両王を称した。

 フランス王太子シャルル(後のシャルル7世)は、アルマニャック派によって王位継承者とされたが、ブルゴーニュ派の反対もあって非合法の王であり、その勢力範囲はロワール川流域とギュイエンヌを除くロワール以南の南フランスに限定されていた。

 イギリスは、このような情勢をみて、ロワール川以南への領土拡大をはかり、ブルゴーニュ公と結んでアルマニャック派の拠点オルレアンを包囲した(1428)。もしオルレアンが陥落すればフランスは滅亡の危機にさらされるという時に現れたのが、有名なジャンヌ=ダルクである。

 ジャンヌ=ダルク(1412〜31)は、フランス東部のドンレミ村の農家に生まれ信仰心の篤い少女であった。13歳の時に「フランスへ行け、フランスに行って国王を救え」という神のお告げを聞いた(1425)。

 オルレアンが包囲された後、「フランスへ行け、オルレアンを救え」という神の声にせき立てられたジャンヌ=ダルクは、近くの守備隊長の所へ出かけ、王太子シャルルのもとへ送り届けてくれるよう頼み込んだ。最初は全く相手にしてもらえなかったが、少女の信仰心と熱意は隊長を動かし、 その援助によって500km離れた王太子の居城へ到達し、シャルルに謁見し、シャルルの許可を得て数百の兵を率いてオルレアンに向けて出発した。

 ジャンヌ=ダルクの熱烈な信仰心はフランス軍兵士の士気を鼓舞し、ついにオルレアンの包囲を破ってイギリス軍を撤退させた(1429)。ジャンヌの軍勢はその後破竹の進撃を続け、ランス(代々フランス国王の戴冠式が行われた町)に進撃し、そこでシャルルの戴冠式が挙行され、シャルル7世(位1422〜61)は正式にフランス王になることが出来た。

 しかし、その後コンピエーニュへの救援に赴いたとき、ブルゴーニュ派に捕らえられ、シャルル7世が身代金を支払わなかったためにイギリス側に引き渡された。この時、ジャンヌに大恩のあるシャルル7世は「小娘一人の命ですめば安いものだ」と言ったといわれている。

 ジャンヌ=ダルクはルーアンの宗教裁判で「異端・魔女」の判決を受け、1431年5月31日にルーアン市の広場で火刑に処せられた。ジャンヌ=ダルクについては、後に名誉復権裁判が行われ、無罪・復権の判決が出され(1456)、1920年には聖者に列せられた。

 その後の戦局は、フランスが各地で圧倒的な勝利をおさめ、ノルマンディー(1449)、ギュイエンヌ(1451〜53)を回復し、1453年にはボルドーを占領し、カレーを除いてフランス国内から完全にイギリス勢力を駆逐し、百年戦争はついに終結した(1453)。

 シャルル7世は、百年戦争末期から戦後にかけて大商人ジャック=クールを財政監督官に起用して財政改革を行い、また常備軍の創設や官僚制の整備を行い、王権の強化と中央集権化を進めた。

 百年戦争に完敗してカレーを除くフランスの領土を全て失ったイギリスでは、間もなくランカスター家とヨーク家による王位争奪の大内乱が始まった。この内乱はランカスター家が赤ばらを紋章とし、ヨーク家が白ばらを紋章としたので、ばら戦争(1455〜85)と呼ばれている。ばら戦争は、この両家の王位争いに国内の諸侯が両派に分かれて争ったので30年に及ぶ大内乱となった。

 ランカスター家(ヘンリ3世の子エドモンドを祖とする)のヘンリ4世(位1399〜1413)は、従兄のリチャード2世の圧政に反抗し、これを破って議会の承認を得て即位し、ランカスター朝(1399〜1461)の創始者となった。その後ヘンリ5世・ヘンリ6世と続くが、ヘンリ6世(位1422〜61)とヨーク公リチャードとの争いをが契機となってばら戦争が始まった。

 ヨーク家(エドワード3世の5男エドモンドが祖)のエドワード4世(位1461〜70)は、父ヨーク公リチャードの戦死後、ランカスター派を破り、ヨーク朝(位1461〜85)を創始した。

 ヘンリ=テューダー(後のヘンリ7世)は、ランカスター家の血を引いていたので、ヨーク朝の成立以来フランスに亡命していたが、フランス王の援助を受けて帰国し、ボズワースの戦い(1485)でリチャード3世(ヨーク朝第3代の王)を破って敗死させ、即位してヘンリ7世(位1485〜1509)となった。これによってばら戦争は終結し、テューダー朝(1485〜1603)が成立した。

 ヘンリ7世は、翌年ヨーク家のエリザベス(エドワード4世の娘)と結婚したので、ランカスター家とヨーク家の合同がなった。

 ヘンリ7世はばら戦争によって没落した貴族の領地を没収して王領を拡大し、また星室庁(国王直属の特別裁判所、ウェストミンスター宮殿の星の間に設置されたのでこう呼ばれた)を利用して貴族を抑圧し、イギリス絶対王政の基礎を築いた。




目次へ戻る
次へ