5 西ヨーロッパ中央集権国家の成立

3 イギリスとフランス

 イギリスでは、ノルマンの征服(1066)によってノルマン朝が成立した。
 ノルマンディー公ウィリアムは、イギリスでエドワード懺悔王が亡くなり義弟のハロルドが王位につくと、王位継承権を主張してイギリスに侵入し、ヘースティングズの戦い(1066)でハロルドを破ってウィリアム1世(位1066〜87)として即位してノルマン朝(1066〜1154)を開いた。

 ウィリアム1世は5年間でイギリスの統一をはたし、全国で検地を行いドゥームズデー=ブック(全国的な検地帳、土地台帳)をつくり(1086)、全国の土地所有者をソールズベリに集めて忠誠を誓わせ(ソールズベリの誓約、1086)、またカンタベリ大司教を自ら任命するなど集権的封建制でイギリスを統治した。このようにノルマン朝では初めから王権が強かった。

 ウィリアム1世はイギリス国王であるが、フランス領(ノルマンディー公国)についてはフランス王の臣下であった。このようにフランス王の臣下がイギリス王となり、主君より強大になったことが以後英仏間で抗争が続く原因となった。

 ノルマン朝は4代続いたが、ウィリアム1世の孫スティーブンの死によって断絶し、フランスのアンジュー伯アンリ(ウィリアム1世の曾孫、母はスティーブンのいとこのマティルダ)がヘンリ2世として即位し、プランタジネット朝(1154〜1399)を創始した。 ヘンリ2世は、即位する以前にすでに父からアンジュー伯領を継承し(1151)、 その翌年にフランス王ルイ7世と離婚したエレオノールとの結婚によってアキテーヌ(=ギュイエンヌ)公領等を継承していた。そのヘンリ2世がイギリス王となったためにフランスのほぼ西半分がイギリス領となり、ヘンリ2世はイングランド・ノルマンディーと合わせて当時の西ヨーロッパで最も広大な領土を支配することとなった。

 しかし、ヘンリ2世の晩年はみじめで、フランス王と結んだ息子達(のちのリチャード1世やジョン)の反乱に苦しめられ、最後はリチャードに攻められて、フランスの陣中で没した。

 リチャード1世(位1189〜99)は、ヘンリ2世の3男として生まれ、母からアキテーヌ公領を受け継いだ。父王に2度反乱を起こしたが、父の死後イギリス王となった。

 即位後間もなく、フランス王フィリップ2世・ドイツ皇帝フリードリヒ1世とともに第3回十字軍(1189〜92)に参加し、単独でサラディンと勇戦し、「獅子心王」とあざなされた。帰途、ドイツ皇帝の捕虜となったが莫大な身代金を払って釈放されて帰国した(94)。 帰国後、弟のジョンから王位を奪い返し、 諸侯の反乱を鎮圧したのちフランスに出兵してフィリップ2世と戦ったがその地で戦死した。

 リチャードは10年の治世の間、イギリスに留まったのは半年余りであったいわれ、戦いに明け暮れた。勇猛な武将で、中世騎士道の典型的な人物と称えられたが、政治的には無能であった。

 プランタジネット朝第3代の王、ジョン(位1199〜1216)はヘンリ2世の末子で兄たちにはそれぞれ領地が分け与えられたがジョンだけには与えられなかったことから「欠地王」とあざなされた。兄リチャードの死後イギリス王位を継承し、引き続いてフィリップ2世と大陸で戦ったが(1204〜06)フランス国内の領地の多くを失った。

 またカンタベリ大司教の任命をめぐって教皇インノケンティウス3世と争ったが破門され(1209)、全領土をいったん教皇に献上し改めて封土として受け、教皇の封建的臣下となった。

 翌年、再び大陸に出兵してフィリップ2世と戦ったが敗退し、国内では戦費の負担に苦しんだ貴族の反乱を招き、帰国後有名な「マグナ=カルタ(大憲章)」に署名した(1215)。 しかし、ジョンはインノケンティウス3世に訴えてマグナ=カルタの無効を宣言してもらい、また反乱を起こした貴族達を破門してもらったので、再び内乱となり、貴族軍と交戦中に病没した(1216)。  

 「マグナ=カルタ(大憲章)」はジョンの悪政に対して貴族が団結して王に認めさせたもので全63条から成っている。権利の請願(1628)や権利章典(1689)とともにイギリス憲法を構成する重要な文書で「イギリス憲政のバイブル」ともいわれている。

 主な条項をいくつか列挙してみると次のようである。
 第1条 まず第一に、朕は、イングランドの教会は自由であり、その権利を減ずることなく、その自由を侵されることなく有すべきことを、神に容認し、この朕の特許状によって、朕及び朕の後継者のために永久に確認した。・・・
 第12条 いかなる軍役免除金または御用金も、王国全体の協議によるのでなければ、朕の王国において課せられるべきでない。・・・
 第13条 またロンドン市は、全てのその古来の特権と、水路陸路を問わず自由な関税とを有すべきである。さらに朕はすべての他の都市、市邑、町、港がすべてその特権と自由な関税を有すべきことを望み、また認可する。
 第16条 いかなる者も、騎士の封、またいかなる自由な封の保有についても、その封に付帯する以上の奉仕をおこなうことを強制されることはない。
 第39条 いかなる自由人も、彼と同輩の者の判決によるか、または国法による以外には、逮捕され、監禁され、また自由を奪われ、また法の保護外におかれ、また追放され、またいかなる方法にてもあれ侵害されることはなく、また朕は彼に敵対することなく、彼に対して軍勢を派遣することはない。
 第41条 あらゆる商人は、古来の正当な慣習により、いかなる悪税をも課せられることはなく、売買のため、水路陸路を問わず、安全かつ無事にイングランドに入国出国し、イングランド内に滞在し、通行することが出来る。・・・                      (山川出版社「世界史史料・名言集」より)

 第39条のように国民の権利に関する条項もあるが少なく、大部分は封建社会において教会・貴族・都市などが慣習的に持っていた特権を再確認させたものであった。しかしマグナ=カルタは国王が臣下の要求に屈した最初ものであり、イギリス憲政史上画期的な出来事であった。

 ジョンの死後、子のヘンリ3世(位1216〜72)が幼少で即位した。当初は摂政が国内をよく治めたが、親政を始めるとフランスから王妃を迎え、フランス人を重用した。また対仏戦での戦費がかさんだためにマグナ=カルタを無視して重税を課したので貴族の不満を招き、一度はオックスフォード条令(58)で貴族の特権を認めたが、 まもなくこれを無視したのでシモン=ド=モンフォールの率いる貴族の反乱が起き、敗れて捕らえられた(64)。 のちに王太子エドワード(のちのエドワード1世)に救出されたが(65)、以後政治の実権はエドワードに移った。

 シモン=ド=モンフォール(1208頃〜65)はノルマンディーでフランスの名門貴族の家に生まれた。父はアルビジョワ十字軍に参加して功績があった。母がイギリス人であったことからレスター伯領を相続してイギリスに渡った(29)。 ヘンリ3世の妹と結婚したが(38)、ヘンリ3世に対する貴族の不満が増大すると、その指導者に選ばれ、オックスフォード条令を王に認めさせた。

 ヘンリ3世がこれを無視すると反乱を起こし(63〜65)、王を捕らえ、翌1265年に従来の大貴族・高位聖職者の集会に州騎士(地方の小領主)と都市の市民代表を加えて諮問議会を召集した。この諮問議会(シモン=ド=モンフォールの議会)はイギリス議会(下院)の始まりとされている。しかし彼は王太子エドワードとの戦いで敗死した(65)。

 エドワード1世(位1272〜1307)は即位すると多くの法令を発布し、制度を整えた。彼が1295年に召集した議会は模範議会(大貴族・高位聖職者の他に、各州2人の騎士・各都市2人の市民で構成)と呼ばれ、その後の議会構成のモデルとなった。

 そしてエドワード3世(位1327〜77)の時に、議会は上院(大貴族・高位聖職者で構成)と下院(騎士と市民構成)に分かれ、課税には下院の承認を必要とすることになり、議会は諮問議会から立法機関へと発展していった。
 このエドワード3世の時に有名な百年戦争が勃発した。

 フランスでは10世紀末にカペー朝(987〜1328)が成立したが王室領はパリ周辺に限られていて王権は弱く、典型的な封建制のもとで国王よりはるかに広大な領地を持つ大諸侯(ノルマンディー公、ブルターニュ公、アンジュー伯、アキテーヌ公など)の勢力が強かった。

 カペー朝第7代の王が有名なフィリップ2世(尊厳王、位1180〜1223)である。フィリップ2世は王領の拡大と中央集権化に努め、封建諸侯と戦って王権を伸張し、フランス王権の基礎を固めた。

 前王ルイ7世(位1137〜80)の時代にイギリス領となったフランス西半分の領土の奪回をはかり、ヘンリ2世・リチャード1世と抗争を繰り返した(1187〜)。

 第3回十字軍(1189〜92)に参加したが、リチャードと対立して途中から帰国し、のちノルマンディーの領有をめぐってリチャードと戦った(1194〜99)。

 さらに次王ジョンとも戦い、ノルマンディー・アンジューなど大陸のイギリス領の大半を奪い返し、王領を一挙に拡大した(1204)。その後ジョンはドイツ皇帝と結んで失地の奪回をはかったが、フィリップ2世は連合軍を破って領土を確保した(1214)。

 当時、南フランスのアルビ地方を中心にアルビジョワ派が盛んとなり、南フランスの諸侯の間に信仰された。アルビジョワ派は、マニ教の影響を受け現世は苦と罪のみであると考えて肉体を罪悪視し禁欲を唱えたカタリ派系のキリスト教の一派で異端の宣告を受けていた。 フィリップ2世はアルビジョワ派討伐のためにアルビジョワ十字軍(1209〜29)を起こし、アルビジョワ派の諸侯を討って南フランスにも王権を拡大した。

 フィリップ2世の孫でカペー朝第9代の王位についたルイ9世(位1226〜70)は敬虔なカトリック教徒で聖王とあざなされた。12才で即位したので最初の10年間は母后が摂政を務め、この間南フランスのアルビジョワ派を根絶して(1229)、南フランスに王権を拡大した。

 イギリス王ヘンリ3世との間にパリ条約を結び(1259)、ノルマンディー・アンジュー・ポワトゥーなどの諸地方を獲得し、かわりにギュイエンヌ地方を与えて英仏間の紛争を解決した。内政にも力を尽くしたので、長い治世の間国内は安定し、カペー朝の全盛期を現出した。

 ルイ9世は第6回十字軍(1248〜54)・第7回十字軍(1270)に参加したが、第7回十字軍の際チュニスで病没した。

 ルイ9世の孫でカペー朝第11代の王が中世フランスを代表する偉大な王フィリップ4世(位1258〜1314)である。彼は王権の強化と国家統一を強力に押し進め、当時のヨーロッパで最初に国家統一を実現した。

 フィリップ4世は、当時親英・反仏的だったフランドル諸都市(イギリスから羊毛を輸入していたのでイギリスとの繋がりが強かった)とギュイエンヌ(ボルドーを中心とする地方でイギリスにぶどう酒を輸出していた)へのイギリスの影響力を排除し、王領化をはかるために出兵したが失敗に終わった。

 フィリップ4世はこの戦争の戦費による財政難を打開するために聖職者への課税を企てて教皇ボニファティウス8世と対立し、三部会を召集し(1302)、国民の支持を背景にアナーニ事件(1303)を引き起こし、ボニファティウス8世をアナーニに幽囚して憤死させた。 さらにフランス人教皇を擁立して教皇庁をアヴィニョンに移し(教皇のバビロン捕囚、1309〜77)、教皇をフランス王の監視下に置く端緒を開いたことは前述した。

 フィリップ4世の死後、3人の子ども達が後を継いだがシャルル4世の死(1328)によってカペー朝は断絶し、ヴァロア朝のフィリップ6世即位したがこのことが有名な百年戦争(1339〜1453)が起こる発端となった。  




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