2 封建制・荘園制の崩壊
封建制は自給自足を本質とする荘園制の上に成り立っていたが、十字軍以後商業や都市が発達し、貨幣経済が進展する中で荘園制や封建制も崩れ始めた。
貨幣経済が広まると、領主層もいやおうなしにその中にまき込まれていった。領主としての体面を保つためにより多くの貨幣を必要とした領主は、賦役をやめ、直営地を農民に貸し与え、地代を生産物や貨幣で取るようになった。
賦役は、農奴が領主の直営地で、週に2〜3日、無償で働くことで、労働地代とも呼ばれた。農奴は賦役をきらったが、領主から土地を借りるためには賦役に出て行かねばならなかった。
賦役による直営地の収穫物は全て領主のものとなり、農奴達がどんなに一生懸命働いても自分たちのものにならなかったので、農奴達は本気で働こうとしなかった。そのため同じ面積当たりから取れる収穫物は、農民の保有地(領主から借りた土地)の方が多かった、言い換えると賦役は非能率であった。
そのため領主は非能率な賦役をやめて、賦役を金納化したり、直営地を分割して農奴に貸し与えるようになった。領主から土地を借りた農奴は、収穫物の一定割合を作物で納めたので、この税は貢納または生産物地代と呼ばれる。
このように地代形態は、労働地代から生産物地代・貨幣地代へと変化していった。
この地代形態の変化は、農奴にとっても有利であった。生産物・貨幣で納める場合、その割合が一定であったり定額の場合、農奴達が一生懸命働き収穫量を増やせば増やすほど、農奴の手元に残る量も多くなり、農奴の一部には貨幣を蓄えて次第に富裕になっていく者もあった。
たまたま、1348年に黒死病(ペスト)が全ヨーロッパに流行し、農村人口が激減すると領主の直営地経営は困難となり、賦役の金納化(売却)が促進され、農奴の身分的束縛がゆるんでいった。
ペストは歴史上何回も猛威をふるって多くの人々の命を奪ったおそろしい伝染病であるが、特に14世紀中頃ヨーロッパ襲ったペストの流行は歴史上最も有名である。
この時のペストはアジアで猛威をふるっていたが、東方貿易に従事していたイタリア商人らが感染し、イタリア・フランスの港に入り(1347)、1348年には全西ヨーロッパに広まった。ペストには腺ペストや肺ペストなどの種類があるが、この時ヨーロッパで流行したのは腺ペストの方で、その症状については有名なボッカチオの「デカメロン」(1348〜53の作)の冒頭に次のように書かれている。
「東洋では鼻血がでたら死が疑い無しでしたが、それとは違って罹病の初期にはこわばったはれものが出来て、そのうちのあるものは普通のりんごぐらいに他のものは鶏卵ぐらいに大きくなり・・。命取りのはれものはまたたく間に全身にわたってところかまわず吹き出し盛り上がってまいりました。こうなってからあとはそのはれものは黒色かなまり色の斑点に変わり出しました。たいていの者には両わきだの、両足だの体中いたるところにあらわれてくるのです・・・あのペストのはれものが死の到来のきわめて確かなしるしであったように、この斑点はそれが出てきた人にとって同じく死の徴候でした。こうした病気の治療には、医者の診察もどんな効能のある薬もききめがあるようには見えませんでした・・・徴候があらわれて3日以内に、多少遅い早いはあってもたいていは少しの熱も出さず、そうかといって別に変わったこともなく死んでいきました。このペストはそれは驚くべき力をもっておりました。・・・」
このペストの大流行によって、イギリス・フランスでは人口の3分の1が病死したといわれている。農村人口も激減して領主の直営地経営が困難となり、貨幣地代の普及が促進され、農奴は賦役や領主裁判権などの身分的束縛から解放されるようになった。
このような動きを農奴解放という。農奴解放によって農民の地位は向上し、かっての農奴は家族労働によって保有地を耕作し、わずかな地代を払うが、身分的にはほとんど自由になった。このような農民を独立自営農民(ヨーマン)と呼ぶ。
こうして自立化していく農民に対して、貨幣経済の進展で窮乏化した領主が再び束縛や搾取を強化しようとすると(このような動きを封建反動という)、彼らは激しく反抗し、農奴制の廃止などの要求を掲げて農民一揆を起こした。
フランスでは、1358年にジャックリーの乱と呼ばれる大農民反乱が起こった。
百年戦争初期のポワティエの戦い(1356)後の無給傭兵達の村荒らしや領主の身代金調達のための重税賦課が直接の原因となり、フランス北東部の農民達がギョーム=カール(カイエ)を指導者として立ち上がった。ジャックとは当時の貴族が農民達を軽蔑して呼んだ呼び方である。しかし、反乱軍は諸侯軍に破れ、カールは処刑され、徹底的に弾圧された。この反乱は規模や処刑の厳しさでフランス史上最大といわれている。
イギリスでも、1381年にワット=タイラーの乱が起こった。
百年戦争の戦費調達のために15才以上の国民に人頭税がかけられると、これに反対してワット=タイラーはイングランドの東南部の農民・手工業者を率いて立ち上がった。ロンドンに進撃し、国王に農奴制の廃止や地代の引き下げを約束させた。しかし、さらに教会財産の没収や農民への土地分配などの新たな要求を行った際に殺害され、指導者を失った反乱軍は各地で敗れて一揆は鎮圧された。
このワット=タイラーの思想的指導者で、巡回説教師としてウィクリフの教会革新の説を広めていたジョン=ボールは「アダムが耕し、イブが紡いだ時、誰がジェントリ(郷紳、地主)であったか」と唱え、社会的平等思想を説いて、農民や下層民を引きつけたが、一揆の失敗で処刑された。
このようにジャックリーの乱やワット=タイラーの乱は鎮圧されたが、再発防止のために農民の要求の多くは次第に実現され、自由化が進んでいくことになる。
荘園制・封建制の崩壊は諸侯・騎士を没落を促進した。諸侯・騎士は十字軍による軍事的・経済的な負担によって没落しつつあったが、荘園制の崩壊は彼らの経済的な基盤を失わせ、また火砲の使用などによる戦術の変化は諸侯・騎士の没落を決定的にした。
14世紀に出現した弩(いしゆみ)と長弓は戦争の様相を大きく変えた。弩はハンドルで弓弦を引きしぼり、引き金を引いて矢をとばす武器で、矢の飛ぶ力が強く殺傷力は格段に高まったが、発射までに時間がかかるのが難点であった。一方の弓の長さが1.7mもある 長弓は速射が可能で、鎧(よろい)を突き通す力も備えていた。
このような武器の出現とともに重装騎士が出現する。彼らは強い矢に対抗するために、全身を鋼の板金を重ねた鎧に身を包んだが、鎧の重さは50〜60kgに達したと言われている。 そのためまっすぐに立つことも難しく、一人で馬に乗ることも出来ず、落馬すれば起きあがることも出来なかった。そのため重装騎士は限られた力しか発揮できず、騎士による一騎打ちは意味を失い、軽装騎兵や歩兵が戦闘で大きな役割を果たすようになった。
さらに14世紀以後の火砲の出現は戦術を一層大きく変化させていった。
14世紀の中頃には大砲が使用されるようになった。初期の大砲は、砲身の長さ1mほどの鉄製の筒で、弾丸は石や鉄・鉛などで作られていた。筒の一端に火薬をつめ、長い棒の先につけた種火で点火して発射した。しかし、平均10発で砲身が破裂し、発射速度は1時間に1発位であったといわれ、破壊力・飛距離はあまりなかったが大音響で人馬を驚かせて混乱させるのに効果があった。15世紀になるとかなり進歩し、射程距離は約1kmに伸び、砲身の寿命も約100発に向上した。
鉄砲は、大砲より遅れて15世紀の後半に使用されるようになった。初期の鉄砲は発射と照準を合わせることが面倒で命中率も悪かった。16世紀初めにはいわゆる火縄銃が発明され、発射と照準が容易になり急速に普及していった。射程距離は約300mあったが、100m以内が有効とされ、重装騎士に対しても十分に威力を発揮した。しかし、2分に1発程度と発射に時間がかかることと、雨によって火縄が濡れて不発火になる欠点があった。
日本には1543年に種子島にポルトガル人によって伝えられたが、ヨーロッパで鉄砲が盛んに使われるようになって間もないことで、鉄砲の使用が織田信長・豊臣秀吉などの天下統一に大きな役割を果たしたことはよく知られている。
火砲の使用などによる戦術の変化は騎士の役割を低下させ、彼らの没落を早めた。諸侯や騎士は、当時中央集権化を進めていた国王の廷臣となり、農民からは地代を取り立てるだけの地主になっていった。