4 十字軍と都市の発達

2 十字軍とその影響(2)

 第3回十字軍も結局聖地イェルサレム奪回という目的を達成することは出来 なかった。それから6年後に教皇の座についたのが、教皇権の絶頂期の教皇として 有名なインノケンティウス3世(位1198〜1216)である。彼の提唱によって第4回 十字軍が起こされた。

 第4回十字軍(1202〜1204)は、北フランスの諸侯・騎士を中心に編成された。目標をアイユーブ朝の本拠地であるエジプトとし、海路による遠征を決定し、海上輸送をヴェネツィアに依頼した。ヴェネツィアは兵士・資財の輸送と1年分の食料調達を銀貨8万5千マルクで請け負った。

 十字軍士らはヴェネツィアに集結してきたが、約束の船賃が6割しか調達でき なかった。交渉が難航したが、ヴェネツィア側がハンガリー王に奪われたツァラ (アドリア海沿いの海港都市)を取り戻してくれるなら船を出す、不足分の支払いは 後でよいと提案してきた。

 十字軍士はやむを得ずこの条件を受け入れ、ツァラの町を襲い占領して略奪を 行った(1202)。十字軍が同じキリスト教徒の町を襲ったという報を聞いた教皇 インノケンティウス3世は激怒し、第4回十字軍士全員を破門した。「破門された十字軍」という前代未聞の事態となった。

 翌年、破門された十字軍士を乗せた艦隊はツァラからコンスタンティノープルに 向けて出航した(1203)。ヴェネツィアの商人と亡命中のアレクシオス (ビザンツ帝国の内紛により廃位させられたイサアキオス2世の子、後の アレクシオス4世)そして十字軍の指導者の間で、廃位させられた皇帝を復位させる、その代わりに皇帝は十字軍のヴェネツィアに対する負債を肩代わりし、さらにエジプト遠征の費用を負担するとの密約が結ばれていた。ヴェネツィアの商人達は十字軍を利用して商敵であったコンスタンティノープルに打撃を与え、東地中海へ商権を拡大することを企てていた。

 十字軍士達は強く反対したが、結局ヴェネツィアの商人と十字軍の指導者の説得にあって同意し、コンスタンティノープルを攻略し、占領した(1203)。

 幽閉されていたイサアキオス2世が復位し、アレクシオス4世と共同皇帝となり、十字軍はコンスタンティノープルに駐留することになった。ヴェネツィアの商人達は新皇帝に密約の履行を強硬に迫ったが断られた。また密約の内容が漏れ、激高した市民達は皇帝の廃位を宣言し、アレクシオスを絞殺し、イサアキオスを毒殺した。

 この宮廷クーデターを挑戦と受け取った十字軍士達は、再びコンスタンティノープルを占領し、徹底的に略奪を行った。略奪品は十字軍とヴェネツィアで折半された。

 十字軍士は「ラテン帝国(1204〜61)」を建国し、フランドル伯のボードワン1世を皇帝に選出した。ヴェネツィアはコンスタンティノープルの一部と多くの島々や沿海地域を手に入れ目的を果たした。内陸部の土地は主立った十字軍士に分け与えられた。

 ラテン帝国に対して、小アジアに逃れて抵抗したテオドロス1世を創始者として「ニケーア帝国(1204〜61)」が建国され、ビザンツ帝国は一時消滅した。

 このように第4回十字軍は、本来の目的から全くはずれてしまい、まさに 「脱線した十字軍」となり、ビザンツ帝国を消滅させ、ヴェネツィアの商権拡大と 諸侯・騎士の領土獲得欲のみを満足させる結果となった。またこれによって 東西教会の対立が深まり、十字軍に対する不信感はますます強まった。

 第4回十字軍が失敗に終わったため、教皇インノケンティウス3世は新しい 十字軍を起こすために全ヨーロッパに説教師を派遣した。こうした説教師に接して いたであろう北フランスのある村の羊飼いの少年エティエンヌはある日巡礼の姿を した神を見た。神は聖地回復を記した手紙を少年に渡した。エティエンヌは神の 使命をさとり、一心に神のお告げを説いて回った。やがて数千人の少年少女が彼の 伝道に従うようになった。

 少年達の親は、彼らの冒険を必死に思いとどまらせようとしたが脱落者は 少なく、彼らはリヨンからマルセイユへと出た。もちろん彼らは船賃も持って なかった。この時マルセイユの船主が「お前達の殊勝な心がけに免じて聖地まで無償で船に乗せてやろう」と申し出た。彼らはその甘言を信じて7艘の船に分乗してマルセイユを出帆した。7艘のうち2艘はサルデーニャ島付近で難破し、残る5艘の船に乗った少年達はアレクサンドリアに運ばれ、奴隷として売り飛ばされた。

 この出来事は少年十字軍(1212)と呼ばれている。同じような動きはドイツでも見られた。度重なる十字軍の失敗、その度に説教士達によってかきたてられた社会の興奮から引き起こされた悲劇的な出来事であった。  

 教皇インノケンティウス3世は、第4回ラテラノ公会議(1215)で新たな十字軍を提唱したが、その翌年に亡くなった。

 インノケンティウス3世の支持を得て神聖ローマ帝国皇帝となった フリードリヒ2世(位1215〜50)は、教皇から十字軍を派遣するように迫られて いたが、口実を設けては引き延ばしていた。グレゴリウス9世が教皇になると、 新教皇はすぐに実行するように強く迫った。フリードリヒ2世はやむを得ず 出発したが、マラリアにかかり引き返した。教皇はこれを仮病として彼を破門した。 破門をもって脅されたフリードリヒ2世は翌年聖地におもむいた。

 こうして始まったのが第5回十字軍(1228〜29)である。フリードリヒは、 アイユーブ朝の内紛につけいり、外交交渉によってスルタンと協定を結び、 一戦も交えることなくイェルサレムを回復した。協定の内容はイェルサレムは 返還するが信仰上は共同統治とし、10年間の休戦を約束したものであった。

 しかし、その後イェルサレムは再びイスラム教徒の手に落ち(1244)、イェルサレムは 20世紀までイスラム教徒の支配下に置かれることとなった。

 敬虔なキリスト教徒で「聖王」と呼ばれたフランス王ルイ9世(位1226〜70)は、国内ではアルビジョワ十字軍(1209〜29)を起こし、南フランスの異端アルビジョワ派を討伐し、根絶した。ルイ9世は単独で第6回十字軍(1248〜54)・第7回十字軍(1270)を起こした。

 第6回十字軍は、目標をアイユーブ朝の都カイロに定め、ダミエッタを占領してカイロに進撃したが、イスラム教徒の反撃にあって包囲され、捕虜となった(1249)。莫大な身代金を支払って釈放されたルイ9世は帰国後も聖地回復の夢を捨てず第7回十字軍を起こした。

 第7回十字軍は、北アフリカを攻めて、そこに十字軍の新しい拠点を築こうとしてチュニスに上陸したが、彼はそこで病没し、これが最後の十字軍となった。

 これより前、マムルーク朝(1250〜1517)は、アイユーブ朝を滅ぼし、エジプト・シリアを領有し、アンティオキア公国を滅ぼし(1268)、トリポリ伯国も滅ぼした(1289)。さらに十字軍の最後の拠点アッコンも1291年に陥落し、シリア・パレスチナの地は完全にイスラム教徒の支配下に置かれた。この年をもって十字軍時代の終わりとする。

 約200年の間に前後7回の十字軍が派遣されたことは、当然のことながらヨーロッパ世界に大きな影響を及ぼし、中世ヨーロッパ世界を大きく変化させることとなった。

 宗教面では、十字軍が教皇の提唱で起こされ、一時的にせよ聖地を回復したことから、教皇の権威はますます高まり、13世紀初めのインノケンティウス3世の時に教皇権は絶頂期を迎えた。しかし、結局聖地を回復できなかったことは逆に教皇に対する信頼を失わせることとなり、宗教熱は冷却し、さらには教皇権の衰退を招くことになった。

 政治面では、諸侯・騎士が没落する原因となった。長期間の遠征によって多くの 諸侯・騎士が命を落とし、家系の断絶が起こった。また莫大な遠征費の負担は彼らの 経済的な没落の原因となった。その一方で国王による中央集権化が進展した。 国王は十字軍の指揮者として活躍し、諸侯・騎士の没落によってその地位は相対的に 強化された。また諸侯・騎士が戦死し、家系が断絶した場合はその遺領を王領に 編入し財政面での強化をはかった。こうして各国では国王による中央集権化が進展 した。  

 経済面では、十字軍によって最大の利益を得たヴェネツィア・ジェノヴァなどの 北イタリア海港都市がイスラム世界との遠隔地貿易(東方貿易)によって大きな利益を 得て発展した。またヨーロッパ内部でも遠隔地商業や貨幣経済が発展し、都市が発達した。

 文化面では、十字軍によって多くの人々が東方との間を往来したためヨーロッパ人の視野が広まり、ビザンツ文化やイスラム文化が流入し、特にイスラムから未知の学問や技術がもたらされ、近代以後のヨーロッパ文化発展の基礎がつくられた。




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