4 十字軍と都市の発達

1 十字軍とその影響(1)

 西ヨーロッパ世界は中世を通じて絶えず外部からの圧迫・侵入に苦しめられてきた。 特に8〜9世紀以来、イスラム勢力やアジア系のマジャール人そしてヴァイキングの侵入が 相次ぎ、西ヨーロッパは守勢を余儀なくされ、ひたすらその圧迫に耐えてきた。しかし、封建社会が安定し、 さらに発展するなかで力を蓄えてきた西ヨーロッパ世界はそれまでの守勢から反撃に転ずるようになった。

 イスラム教徒の支配下に置かれていたイベリア半島では、キリスト教徒によるイスラム勢力をイベリア半島から 駆逐する運動、すなわち国土回復運動(再征服、レコンキスタ)が早くから起こっていた。またドイツ人による エルベ川以東のスラヴ人居住地への植民活動(東方植民)も12世紀以後盛んになる。こうした西ヨーロッパ世界の 外への発展の最大のものが有名な十字軍である。

 当時、イスラム世界では、中央アジアから興ったセルジューク朝が急速に発展し、バグダードに入城し (1055)、イスラム世界における政治・軍事の実権を握るとともにさらに西進し、ビザンツ帝国軍を破って (1071、マンジケルトの戦い)、海岸地帯の一部を除く全小アジアを占領してビザンツ帝国を東方から圧迫した。 このためビザンツ皇帝アレクシオス1世はローマ教皇に救援を求めてきた(1095)。

 フランス人でクリュニー修道院出身の教皇ウルバヌス2世(位1088〜99)は、フランス東部のクレルモンで 公会議を開き有名な演説を行った。ビザンツ帝国がしばしば救援を求めてきていること、聖地イェルサレムでの 巡礼者が悲惨な状況にあることを語った後、「西方のキリスト教徒よ、高きも低きも、富める者も貧しき者も、 東方のキリスト教徒の救援に進め。神は我らを導き給うであろう。神の正義のための戦いに倒れた者には罪の赦しが 与えられよう。この地では人々は貧しく惨めだが、彼の地では富み、喜び、神のまことの友となろう。 いまやためらってはならない。神の導きのもとに、来るべき夏こそ出陣の時と定めよ」と聖地イェルサレム回復の ためにイスラム教徒に対する聖戦を起こすことを提唱した。この演説に感激した聴衆は「神、それを欲し給う」と 叫び、演説はしばしば中断されたと言われている。

 こうして翌1096年に多数の諸侯・騎士から成る第1回十字軍が出発し、以後約200年間にわたって前後7回の 十字軍が派遣されることとなる。

 十字軍はヨーロッパのキリスト教徒がイスラム教徒から聖地イェルサレムを奪回するために起こした遠征で あるが、イェルサレムがイスラム教徒の手に落ちたのは7世紀のことで、350年も前のことである。なぜこの時期に 十字軍が行われたのか、当時のヨーロッパの内部要因としては次のようなことがあげられる。

 (1)封建社会が安定し、三圃制や11〜12世紀頃から始まった有輪犂を用い数頭の馬や牛に引かせて土地を深く 耕す農法の普及など農業技術の進歩とともに農業生産力が高まり、人口が増大するなど、西ヨーロッパ世界内部の 力が充実し、対外的発展の機運が生まれてきたこと。

 (2)ローマ=カトリック教会による民衆の教化が進み、当時のヨーロッパの人々は熱心なカトリック信者と なり、宗教的な熱情が高まっていたこと、このことが背景にないと十字軍という最も中世らしい出来事は起こり 得なかったであろう。

 (3)教皇の権威が著しく高まっていたこと、このことは有名なカノッサの屈辱(1077)が、十字軍が始まる 20年ほど前の出来事であったことを思い出せばよい。教皇は十字軍を利用して東西教会を統一しようとしていたこと。

 (4)諸侯・騎士の中には、封建制の完成によってもはやヨーロッパでは領地を獲得することが困難となっていた ため、ヨーロッパの外部で領地や戦利品を獲得して領主になろうとする者もあったこと。

 (5)当時次第に勃興してきた都市の商人達は十字軍を利用して商権の拡大をはかり、香辛料をはじめとする 東方の商品を獲得して利益を得ようとしていたこと。

 (6)農民達は十字軍に参加することによって負債の帳消しや不自由な農奴身分から解放されることを望んでいた ことなどがあげられる。 

 十字軍はこのような様々な要因・人々の利害が複雑に絡み合っていたので、経過とともに宗教的な要因が薄れ、 経済的な要因によって動かされるようになった。

 ウルバヌス2世の演説は大きな反響を引き起こした。こうした状況のなかで隠者ピエール(1050〜1115)と 呼ばれた北フランス生まれの修道士・説教士は各地で十字軍への参加を呼びかける熱烈な説教を行った。 彼の元には数万の熱狂者が集まり、ピエールはこの群衆を率いて、バルカン半島を南下し、コンスタンティノープル から小アジアに渡ったが、トルコ軍に殲滅された。第1回十字軍に先立つこの十字軍は民衆十字軍(1096〜97)と 呼ばれている。民衆十字軍の失敗は、聖地の回復には烏合の衆でなく、武力を持った軍隊が必要であることを教えた。

 第1回十字軍(1096〜99)は、フランスの諸侯・騎士を主力として、4軍団に分かれて出発し、翌年 コンスタンティノープルで合流し、ビザンツ皇帝に臣従の礼をとった後、ビザンツ軍と共に小アジアに渡った。

 騎兵5千・歩兵1万5千の大軍は、緒戦で勝利をおさめ、トルコ軍と小競り合いを繰り返しながら小アジアを 横切り、北シリアのアンティオキアに至り、半年に及ぶ攻城戦の末にここを陥れた(1098)。

 アンティオキア攻略に功があった南イタリアのノルマンの騎士ボエモンはアンティオキア公国(1098〜1268) の君主に治まり、もはやイェルサレムには行こうとしなかった。これより前、エデッサを攻略したボードアンも エデッサ伯国(1098〜1146)を建ててそこに留まった。十字軍の要因の一つに諸侯・騎士達の領土獲得欲があるが この例によく現れている。

 アンティオキアからイェルサレムに向けて進撃し、6週間にわたる攻囲戦の後についに イェルサレムを陥れた(1099)。この時、十字軍兵士達は殺戮と掠奪をほしいままにし、老若男女を問わず住民 約7万人を虐殺した。虐殺と掠奪が終わると彼らは血にまみれた手を洗い、衣服を改めて喜びの涙にむせびながら 聖墓に詣でたとキリスト教徒の年代記家が記している。

 当時のイスラム教徒がキリスト教徒に寛大であったのに対し、キリスト教徒の狂信・不寛容ぶりが際だって いる。この違いは当時のヨーロッパが異文化に接する機会に乏しく、封鎖された世界の中にあったので、 キリスト教の隣人愛はキリスト教徒に対するものだけであったことが原因である。

 ともあれ、第1回十字軍は聖地の回復に成功した数少ない十字軍であった。回復した聖地を確保するために イェルサレム王国(1099〜1291)が建設された。

 イェルサレム王国は、フランスに範をとり、ロレーヌ(ロートリンゲン)公ゴドフロアを統治者に選び、 残留した戦士達に封土を与えて建てられた封建国家であった。イェルサレム王国は、前述したエデッサ伯国・ アンティオキア公国・トリポリ伯国(1102〜1289)に対して宗主権を持っていたが、この三国は事実上独立していた。

 イェルサレム回復後、多数の十字軍兵士達は目的を達成したとして帰国し、また西ヨーロッパから来る増援隊は 少数だったので、現地軍は絶えず兵員不足に悩まされた。このために設立されたのが宗教騎士団である。

 聖地の守護を目的として設立された(1119)テンプル騎士団の団員は騎士と修道士の役割を兼ね、武器を 持ってキリストに奉仕する誓いを立てていた。第1回十字軍時代に成立し、ロードス島を本拠地に活躍したヨハネ 騎士団、そして第3回十字軍の際に組織され活躍したドイツ騎士団は合わせて三大騎士団と呼ばれている。

 宗教騎士団は、帰国後は護教活動や辺境の開拓に活躍した。特にドイツ騎士団は、ドイツの東方植民の先頭に 立ち、後のプロイセンの基礎となった。

 第1回十字軍が成功をおさめたのは、セルジューク朝が分裂し内紛のために連合して十字軍と戦うことが 出来なかったことが大きな理由であった。しかし、セルジューク朝はその後勢力を回復し、モスル太守のザンギーが 北シリアを回復し、エデッサ伯国を滅ぼした(1146)。その翌年に第2回十字軍が派遣された。

 第2回十字軍(1147〜49)には、ドイツ皇帝・フランス王が参加し、救援におもむき、アッコンに到達し、 ダマスクスを攻撃したが失敗に終わり、解散して帰国した。

 この後のイスラム側の失地回復はめざましくザンギーの子ヌレディンがダマスクスを奪回した。この ザンギー朝に仕え、のちエジプトのファーティマ朝の宰相となり、ついで ファーティマ朝を倒してアイユーブ朝を興したのが有名なサラディン(サラーフ=アッディーン、1138〜93 (位1169〜93))である。彼はエジプト・シリア・イラクを支配下におさめて十字軍国家を包囲し、ついに イェルサレムを奪回した(1187)。

 イェルサレム陥落はヨーロッパに大きな衝撃を与えた。こうした状況の中で、ドイツ皇帝フリードリヒ1世 (位1152〜90)・フランス王フィリップ2世(位1180〜1223)・イギリス王リチャード1世(獅子心王、位1189〜99) というそうそうたる君主が教皇の求めに応じて十字軍士の誓いを立て、豪華な顔ぶれがそろった、もっとも十字軍 らしい十字軍といわれた第3回十字軍(1189〜92)が起こされた。

 しかし、当時英仏は本国で領土をめぐって激しく争っていたので協定が整わず出発が遅れ、フリードリヒのみが 小アジアのルートをとって進んだが、小アジア東南部を流れるサレフ川渡河の際に溺死した。このため一部は アンティオキアに進んだが大部分は帰国してしまった。

 フィリップ2世とリチャード1世は、同時に出発し(1190)、シチリア島で落ち合いそこで冬を過ごしたが、 その時も反目しあい、その後は別行動を取り、再びアッコンで合流してアッコン攻城戦に加わった。アッコンは イェルサレムの北方に位置するシリアの港市でイェルサレム王国の事実上の首都であり、十字軍の最後の拠点と なった町である。第1回十字軍が占領したが、サラディンが奪回し、英仏王が再び占領した。しかし、アッコンが 陥落すると、フィリップ2世は病気を口実に帰国してしまった(1191)。

 リチャード1世だけがイェルサレムを目指した。サラディンはリチャードと各地で戦い、 リチャード軍に悩まされながらもイェルサレムを死守した。この時のリチャードサラディンと勇敢な戦いぶりは 後世に長く語り継がれた。

 リチャードは「獅子心王(Lion-hearted )」の異名をとり、中世騎士道の典型的人物とされた。 一方のサラディンもその武勇・勇猛さを知られたばかりでなく、その博愛・寛容の 精神によってヨーロッパ人に多大な感銘を与えた。

 結局リチャードとサラディンは和を結び、リチャードは聖地イェルサレムへの巡礼のための自由な通行権を 得て帰国の途についた(1192)。

 リチャードは、帰途ウィーン近くでオーストリア大公の捕虜となりドイツ皇帝に引き渡されて幽閉され、 莫大な身代金を払って釈放され(1194)やっと帰国した。帰国後、弟のジョンを逐って王位を取り戻し、 国内の反乱を鎮圧した後、フランスに出兵しフィリップ2世と戦ったが、流れ矢にあたって戦死した(1199)。 一方のサラディンはそれより6年前にすでに病死していた。

 かくして第3回十字軍もイェルサレムを回復することは出来なかった。   




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