2 スラヴ民族の自立
インド=ヨーロッパ語族に属するスラヴ民族は、6世紀頃、原住地のカルパティア山脈から、ゲルマン民族が移動した後の東ヨーロッパ各地に、東スラヴ族・西スラヴ族・南スラヴ族に分かれて移住・定住した。
このうち西方に拡大したポーランド人・チェック人・スロヴァク(スロヴァキア)人等の西スラヴ族は、ゲルマン民族の移動で空白となったドイツに隣接する地域に移住した。このため西スラヴ族は、西ヨーロッパの影響を受け、ローマ=カトリックを信仰した。
ポーランドでは、10世紀にポラーニ人(農耕の人々の意)を中心に統一され、ピアスト朝(960〜1370頃)が成立した。ピアスト朝は、神聖ローマ帝国に接近し、ポーランド人はローマ=カトリックに改宗した(966)。
13世紀に入ると、モンゴル人の侵入とドイツ人の東方植民による進出に苦しめられた。特にポーランドのリーグニッツの東南で、ドイツ・ポーランド連合軍がバトゥの率いるモンゴル軍に大敗したワールシュタットの戦い(1241)は有名である。
しかし、14世紀に入るとカジミェシュ(カシミール)大王(位1333〜70)のもとで王権が伸張し、ポーランドは大いに栄えたが、彼の死によってピアスト朝は断絶した。
この頃、バルト海東南岸に居住していたバルト系のリトアニア人は、ドイツ騎士団の進出に対抗して統一国家を形成し、14世紀には大公国となった。
リトアニア大公ヤゲウォ(ヤゲロー)(1351〜1434、位1386〜1434)は、ポーランド女王と結婚し(1386)、ポーランド王とリトアニア大公を兼ね、ヤゲウォ(ヤゲロー)朝(1386〜1572)を創設した。彼はドイツ騎士団を破り、リトアニア=ポーランド王国の全盛期を築き、リトアニア=ポーランド王国は東欧の強国として栄えた。
同じ西スラヴ族のチェック人とスロヴァク(スロヴァキア)人は、6世紀頃現在のチェコ共和国とスロヴァキア共和国地方に定着した。チェック人とスロヴァク(スロヴァキア)人は、東欧革命後の1993年に、現在のチェコ共和国とスロヴァキア共和国に分離独立するまでチェコ=スロヴァキア連邦を形成していた。
10世紀初めにチェック人を中心にベーメン(ボヘミア)王国が建てられたが、11世紀には神聖ローマ帝国に編入された。チェック人は、7世紀頃にローマ=カトリックに改宗していた。
14世紀末にプラハ大学神学教授となり、後に同大学の学長となったボヘミアのフス(1370頃〜1415)は、イギリスのウィクリフの説に共鳴し、ローマ教会を攻撃したために、当時開かれていたコンスタンツの公会議で異端とされ、火刑に処せられた(1415)。
フスの処刑後、神聖ローマ皇帝ジギスムントがプラハ市とプラハ大学に対して迫害を加えると、チェック人はフスの説の承認を求めて反乱を起こした。この反乱はフス戦争(1419〜36)と呼ばれるが、宗教上の争いであると同時に、チェック人のドイツ人の支配に対する反乱でもあった。
一方、スロヴァク人は、10世紀以来マジャール(ハンガリー)人の支配下に置かれた。
南スラヴ族のセルビア人は、6世紀にバルカン半島を南下して、半島の南西部に定着したが、東ローマ帝国の支配下に入り、9世紀頃までにギリシア正教に改宗し、ビザンツ文化を吸収した。
12世紀中頃、東ローマ帝国から独立し、14世紀前半にはバルカン北部を統合して大セルビア王国を形成して最盛期を迎えた。しかし、コソボの戦い(1389)に大敗し、以後オスマン=トルコ帝国の支配下に置かれた。
同じ南スラヴ族のクロアティア人は、9世紀頃ローマ=カトリックに改宗し、10世紀には東ローマ帝国から独立して侯国を形成したが、12世紀以後はハンガリーに従属した。
同じく南スラヴ族のスロヴェニア人もローマ=カトリックに改宗し、14世紀以降はオーストリアのハプスブルグ家の支配下に置かれた。
アジア系のブルガール人は、7世紀末にバルカン半島東南部に侵入し、東ローマ皇帝の許可を得て自立し、9世紀にギリシア正教に改宗した。9世紀末にマケドニア・アルバニア・セルビアを征服し、第1次ブルガリア王国(893〜1018)を建国し、10世紀前半に最盛期を迎えたが、内紛で衰え、東ローマ帝国に併合された。
12世紀末に再び独立し、第2次ブルガリア王国(1187〜1393)が建国されたが、14世紀末にオスマン=トルコ帝国に敗れ、以後その支配下に置かれた。この間ブルガール人は先住の南スラヴ族に同化されていった。
ロシア人・ウクライナ人などの東スラヴ族が定着したロシアの地には、リューリク(ルーリック)(?〜879)に率いられたノルマン人(ヴァイキング)の一派が、9世紀にノヴゴロド国、次いでキエフ公国を建てた。
スラヴ人が住む地域に入ったノルマン人をスラヴ人はルーシ(ルス、Rus’)と呼んだ。Russiaの名はRus’に由来すると言われている。しかし、ルーシはまもなく同化され、スラヴ化していった。
キエフ公国(9〜13世紀)は、ウラディミル1世(位980〜1015)の時に最盛期を迎えた。ウラディミル1世は、周辺の東スラヴ諸族を討って領土を拡大し、土着勢力にかわってルーシ族を各地に封じ、農民の移動の自由等を奪い、農奴制を強化していった。
ウラディミル1世は、ビザンツ皇帝の妹アンナと結婚し(988)、ギリシア正教に改宗し、国教とした。そしてビザンツ文化を盛んに受け入れて、文化面で後進地域であったロシアの面目を一新した。
その後もキエフ公国は、ヤロスラフ1世(位1019〜54)の時代にかけて繁栄したが、その死後は、領土の分割相続をめぐって内紛が続き、国内は多くの諸侯が分立して封建化・農民の農奴化が進んだ。また周辺の遊牧民の侵入もあって国力は衰退した。
こうした状況のなかで、13世紀にバトゥ(チンギス=ハンの孫)の率いるモンゴルの侵入を受け、キエフを占領され(1240)、キエフ公以下の諸侯はこれに従属し、ロシアの地は以後250年にわたってモンゴルの支配に服することとなった。
しかし、14世紀頃からモスクワ大公国が強力となり、モスクワ大公イヴァン3世(位1462〜1505)の時にモンゴルの支配から完全に自立していく(1480)。