2 西ヨーロッパ封建社会の発展

4 教会の権威

 フランク王国と結びついて発展をとげてきたローマ=カトリック教会は、ノルマン人やマジャール人の侵入によって大打撃を受けた。特に彼らの侵入を受けた地域の多くの修道院は、その富をねらう掠奪の格好の餌食となり、破壊された。しかし、その後の修道士達の布教活動によって10〜11世紀にマジャール人やノルマン人もキリスト教化し、ローマ=カトリック教会は西ヨーロッパの全域にわたって精神的な権威を確立していった。

 この間、多くの領主が、来世での救済を願って土地を寄進したので、教会や修道院は広大な所領(荘園)を所有するようになり、大司教や修道院長らは支配階級として、政治的にも大諸侯に匹敵する力を持つようになった。また、封建社会の発展にともない、ローマ=カトリック教会内にも、教皇を頂点とし大司教・司教・司祭と続く聖職者の階層制度が生まれ、修道院でも修道院長を頂点とする序列が出来た。

 教会や修道院が広大な荘園を持ち、そこから得られる税収入や、信者からの寄進・賽銭・供物などによって経済的に豊かになるにつれて、教会の世俗化・聖職者の腐敗・堕落が大きな問題となってきた。

 当時のヨーロッパでは、いかなる建造物も、それが建てられている土地の所有者に帰属する、教会や修道院を管理する権限も、その土地の所有者に属すべきであるという考え方があった。従って司教や修道院長の任命権(聖職者叙任権)や教会や修道院の財産管理権も世俗の支配者(国王や諸侯)が握っていた。聖職者叙任権を世俗の支配者が握っていたことが教会や聖職者の腐敗・堕落の根本的な原因であった。

 国王が領主として大司教などを任命する場合、聖書に対する学識よりも武勇や政治的な能力が重んじられた。こうした世俗の支配者に任命された聖職者の生活は俗人と変わりなく、多くの聖職者達は妻帯していた。また当時の聖職者は社会的な地位が高く、その上収入がよいので、大司教・司教の地位を金で買い取ることが行われ、聖職が財産の一部として扱われ、世襲も盛んに行われていた。こうして金で聖職の地位を手に入れた聖職者の中には聖書もろくに読めない人もいたといわれている。

 こうした聖職売買や聖職者の妻帯などの弊害を取り除こうとする教会粛正運動の中心となったのがクリュニー修道院である。

 クリュニー修道院は、910年にアキテーヌ公が、その所領であるフランス東部のクリュニーに建設した修道院である。クリュニー修道院は、あらゆる世俗権力の支配から自由であること、修道院長の選挙は自由に行われることなどの権利をフランス王・教皇の特許状で獲得し、ベネディクト戒律を厳格に励行、し、典礼(祈り)と読書・研究などの知的活動に励んだ。

 「ベネディクトへ帰れ」を基本とし、厳格な修行に励むクリュニー修道院の名は、当時多くの教会や修道院が腐敗・堕落していた西ヨーロッパの宗教界に新風を吹き込み、その名声がヨーロッパ中に広まり、多くの人々がクリュニー修道院で学び、その中から多くの優れた人材が生み出された。各地の国王や諸侯は資財を寄進して、クリュニーの支修道院をつくり、その会則を取り入れたため、最盛期の12世紀初めには約1500の分院を擁するヨーロッパ第1の修道会に発展した。

 このクリュニー修道院と並んで教会刷新運動の中心となったのが、1098年にブルゴーニュに建設されたシトー修道院である。シトー修道院もベネディクト戒律の厳格な実行と清貧・労働を重視した。クリュニー修道院では祈りや読書などの知的活動が重んじられ、労働に当てられる時間がほとんどなかったのに対し、シトー修道院では自らの労働で自らの生活を維持するための労働が重視された。彼らは荒野の開墾に従事し、開拓者の役割を果たし、経済的な面でも注目された。12世紀に全盛期を迎え、シトー派修道会は約1800の修道院を擁する一大修道会となった。

 クリュニー修道院出身で、後に教皇となったのがグレゴリウス7世(1020頃〜1085、位1073〜1085)である。彼はイタリアのトスカナ地方の市民の家に生まれ、聖職者になり、のちにクリュニー修道院に入って修行し、その影響を強く受けた。教皇レオ9世に従って教皇庁に入り、6代20年間にわたって教皇を補佐し、教皇に選出されるとレオ9世以来の改革を徹底する、いわゆる「グレゴリウス改革」を断行した。

 まず聖職売買と聖職者の妻帯を禁止し、違反者を容赦なく追放した。最初の頃、聖職売買で追放されたのは金銭の授受によって聖職者となった者であったが、聖職売買は聖職叙任権を世俗の支配者が握っている限りなくならないと考え、金銭の授受とは関係なく俗人によって任命は全て聖職売買であるとして、聖職の叙任を世俗人から受けることを禁止し、聖職叙任権は教皇に帰属すべきであることを主張した(1075)。これによって世俗勢力による支配と干渉から教会を解放するのが目的であった。

 このグレゴリウス7世の俗人による聖職者の叙任禁止が、神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世(1050〜1106、位1056〜1106)との衝突を引き起こした。

 ハインリヒ4世は、父の後を継いで6歳で即位したため、最初の10年間は母后が摂政となった。やがて親政したが(1065)、ドイツ(神聖ローマ帝国)は成立当初から大移動の際の単位であったかっての部族の勢力が強く、ザクセン・フランケン・ロートリンゲン・シュヴァーベン・バイエルンなどの部族公領の勢力が強かった。そのため、オットー大帝以来の歴代の皇帝は、国内に多くある教会や修道院を利用し、世襲のおそれのない(妻帯が禁止されていたので独身であった)司教や修道院長らを王国の要所に置いて皇帝の忠実な官僚としてドイツの統一を維持しようとした。 皇帝は帝国内の司教・修道院長の任命権を握っていたので、信頼できる家臣を司教・修道院長に送り込むことが出来た。そして絶えず教会や修道院に土地を寄進し、それに対して経済的・軍事的な義務を負わしていた。

 従って、教皇が聖職叙任権を握り、教皇の息のかかった人物がドイツの司教・修道院長に任命されるようになると、ドイツの教会支配政策は崩壊し、皇帝権力の弱体化を招くことになる。そのためにハインリヒ4世は、グレゴリウス7世の改革に強く反対した。

 ハインリヒ4世はヴォルムスで国会を開き、グレゴリウス7世の廃位を決議させた(1076.1)。これに対してグレゴリウス7世は逆にハインリヒ4世の破門を宣告した(1076.2)。

 破門はローマ=カトリック教会の罰則の1つで、破門されると教会共同体から除外される。君主が破門された場合は、臣下の封建的義務が解かれるので、破門は事実上の君主の廃位を意味した。

 ドイツ諸侯は、マインツの南のトリブールに集まり、ハインリヒ4世の破門が1年以内に解除されなければ、ハインリヒ4世は教皇が主催するアウグスブルグの国会で王位を追われると決議した(1076.10)。

 窮地に追い込まれたハインリヒ4世は、王妃や王子をともない、数名の従者を連れて 厳冬のアルプスを越えてロンバルディアに入った(この年は異常な寒波がヨーロッパを襲った年だったのでアルプス越えは命がけであった)。この地は反教皇派の勢力が強かったので、ハインリヒ4世に付き従う軍勢の数が増え、遠征軍と変わらないほどになった。

 グレゴリウス7世は、アウグスブルグの国会に赴く途中で、イタリアを北上していたが、ハインリヒ4世が攻めて来るという噂を聞いて、トスカナの女伯マティルダの要害であるカノッサ城に入り閉じこもった。1077年1月25日、ハインリヒ4世は少数の家来を連れてカノッサ城を訪れ、教皇への面会を求めた。しかし、教皇はこれを拒絶した。 しかし、マティルダとクリュニー修道院長の取りなしで、悔悛の実を示すことを条件に譲歩した。 ただ一人で三重の城門の第二門の中に入ることを許されたハインリヒ4世は、無帽・はだし・粗毛の修道衣をまとい、降り積もった雪の上に3日間立ちつくし、涙ながらに教皇に赦免を乞い求めたといわれている。こうしてハインリヒ4世はやっと城内で接見を許され、諸侯との争いの解決を教皇の裁定にゆだねることを条件に破門を解かれた。

 これが聖職叙任権闘争の過程で、皇帝権が教皇権に屈した事件として、歴史上有名な「カノッサの屈辱」(1077)である。

 破門を解かれたハインリヒ4世は直ちにドイツに帰り、グレゴリウス7世のドイツ来訪を阻止し、反国王派の諸侯が立てた対立国王のルドルフと戦った。ハインリヒ4世はグレゴリウス7世にルドルフの破門を要求したが、グレゴリウス7世はハインリヒ4世を再び破門した(1080)。これに対してハインリヒ4世はドイツとロンバルディアの司教を集めて公会議を主催し、グレゴリウス7世の廃位を決議させ、対立教皇を立てた。そして国内で反国王諸侯と戦い、ルドルフを敗死させた(1080)。

 翌年、軍を率いてアルプスを越え、イタリアに出兵したハインリヒ4世は、ローマの聖アンジェロ城に立てこもったグレゴリウス7世を取り囲んだ。そして自分の意のままになる聖職者を教皇の位につけ、クレメンス3世と名乗らせ、彼の手からローマ皇帝の帝冠を授けられた(1084)。グレゴリウス7世は、その後南イタリアのノルマン人の騎士ロベール=ギスカールに救出されたが、配流地のサレルノで翌年没した。こうしてみると最終的な勝利者はカノッサで屈服したハインリヒ4世の方であるように思える。もっとも、ハインリヒ4世も、一時ドイツで権威を回復したが、教皇ウルバヌス2世(十字軍を提唱した教皇)からも破門され(1094)、諸侯と結んだ子供の反乱に苦しめられ、失意のうちに世を去った(1106)。

 ハインリヒ4世の子、ハインリヒ5世(位1099〜1125)の時、教皇カリクトゥス2世との間で「ヴォルムス(ウォルムス)の協約」が結ばれ、聖職叙任権闘争は一応終結した。ヴォルムスの協約の内容は、「司教選挙において俗権と聖権を分離し、皇帝側には選挙への出席と選ばれた者への俗権の授与を認め、教会側には選挙の自由と司教職への叙任権を認める」ということだが、まさに妥協の産物で、とても分かりにくい。要は皇帝は司教を任命する権利(叙任権)を放棄するが、司教領を皇帝の知行とし、これを司教に授封する権利を確保したということで、「皇帝(カエサル)のものは皇帝(カエサル)へ、神のものは神に」の精神に帰ったということになる。

 その後、教皇権はウルバヌス2世が提唱した十字軍の初期の成功により、ますます隆盛に向かい、13世紀の初頭のインノケンティウス3世(位1198〜1216)の時、教皇権は絶頂期に達した。

 インノケンティウス3世(1160頃〜1216、位1198〜1216)はイタリアのアナーニ出身で、ボローニャ大学・パリ大学で学んだ後、若くして枢機卿(ローマ=カトリック教会の高級聖職、教皇の最高顧問として教皇庁内で要職を占めた)となり、わずか37歳で教皇に選出された。彼は、教会内部の改革を断行し、教皇至上権を唱え、ラテラノ公会議(1215)では「教皇は太陽、皇帝は月である。月が太陽に従うように、皇帝が教皇に従うのは当然である」という有名な演説を行っている。

 この間、ドイツの帝位争いに介入し、自分の後見下にあったフリードリヒ2世を帝位につけ、フランス王のフィリップ2世には離婚問題とからんでインターディクト(ローマ=カトリック教会における罰則の一つ、祭式や洗礼などの秘蹟の授受を停止する、破門とは異なり、教会の一員である資格は失わない)を下し、アルビジョワ十字軍(後出)を強要し続けた。またカンタベリー大司教の叙任権をめぐってイギリス国王ジョンと争い、ジョンを破門して(1209)、封建的臣下とした。さらに第4回十字軍(1202〜1204)を提唱したが、これは「脱線した十字軍」になってしまった。

 インノケンティウス3世が行った政策の中で最大の成功は、托鉢修道会(乞食僧団)を修道会として認可したことであるいわれている。イタリア人のフランチェスコ(1181頃〜1226)が始めたフランチェスコ修道会、スペイン人のドミニコ(ドミニクス、1170頃〜1221)が始めたドミニコ修道会がこれである。

 フランチェスコは、富裕な織物商人の子供としてアッシジに生まれた。若い頃は放蕩の生活を送っていたが、あることで投獄され、重病を患ったことから回心し、以後一切の財産・所有物と家族を捨て、清貧の共同生活に入った(1206)。あばら小屋に住み、乞食やハンセン氏病の患者の世話をしていたが、3年後に粗末な農夫の服を着て、縄の帯を締め、はだしの姿で、12人の仲間とローマに出て教皇インノケンティウス3世に面会を求め、修道会設立を願い出た(1209)。そして教皇の認可を得て「小さな兄弟たち」という団体をつくり、労働と清貧の修道生活を始めた。彼らは労働の報酬として食べ物を求めただけで、食べ物がないときは喜捨を乞うて歩いた。所有しているものは首からかける袋とお椀1つだけで、その他の物は一切持たなかった。このため彼の創設した修道会は托鉢修道会とか乞食僧団と呼ばれた。彼らはフランス・スペイン・遠くはエジプトまで、民衆の中に入り込んで説教・布教活動をして回った。

 同じ頃、スペインのカスティリア地方に生まれたドミニコも、司祭となってローマに出て、教皇の命令を受けてアルビジョワ派(当時南フランスで盛んとなった異端の一派)の説得に努めた。その後、フランスのトゥールーズ付近にドミニコ修道会を創設し(1215)、翌年教皇から認可を受け、施し物によって衣食を得るという托鉢修道会に改め(1220)、 フランチェスコ派と並んで、民衆の信仰に新しい風を吹き込み、学問研究の面でも優れた業績を残し、カトリック精神の支柱となった。

 こうして教皇権は、11末から隆盛を続け、13世紀初頭インノケンティウス3世の時代に絶頂期を迎え、以後やや衰えながらも、14世紀の初め頃まで教皇権の強い時代が続くことになる。 




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