2 西ヨーロッパ封建社会の発展

3 封建社会の成立

 中世西ヨーロッパは、イスラム・マジャール人・ノルマン人などの圧迫によって絶えず苦しめられていた。こうした状況の中で、西ヨーロッパに封建制度・封建社会が成立した。人々は外民族の侵入から自分の土地を守るために、今までのように遠くの王や皇帝を頼るのではなく、近くの有力者に保護を求め、主従関係を結ぶようになった。このため有力者は多くの家臣を従えて勢力を持つようになり、各地で自立していき、その一方で王や皇帝は、地方の一有力者に過ぎなくなっていった。

 封建制度という言葉は、狭義では封土(ほうど)の授受を中心に形成された主従関係を指す言葉として使われ、そして広義では、荘園制を基礎とする社会組織一般を指す言葉として、封建社会と同義に使われる。

 西ヨーロッパでは、8〜9世紀頃までに、封土の授受によって結ばれた主従関係による階層組織をもつ社会、封建制度に基づく社会、すなわち封建社会が成立した。

 西ヨーロッパの封建制度は、ローマの恩貸地制度とゲルマン人の従士制度が結びついて成立したとされている。恩貸地制度は、土地所有者が自分の土地を守ってもらうために、有力者に土地を献じてその保護下に入り、改めてその土地を恩貸地として受け、土地の使用権を与えられるかわりに有力者に奉仕する慣習でローマ帝国末期に形成された。

 一方、古ゲルマンの慣習である従士制度は、自由民の子弟が有力者のもとで、衣食・武器など(これを封という)を与えられて扶養と保護を受けながら、一人前の戦士に育て上げてもらう、そのかわりに一生涯その有力者に対して服従し、奉仕・忠誠をつくすというものである。

 これらの制度がもとになり、フランク王国のもとで長期間のうちに、王・諸侯・騎士の間で、主君が臣下に封土を与え、臣下は主君に忠誠を誓い、軍役(従軍)などの義務を負うという封建的主従関係が幾層にも出来上がっていった。特に、カール=マルテルがイスラム教徒の侵入に対抗するために騎士軍を創設する際、教会領の土地の一部を騎士に与えたことが西ヨーロッパでの封建制度の成立に大きな影響を与えたと言われている。

 この封土の授受を媒介とする主従関係は次第に世襲化されていき、封土も世襲化されていった。しかし、西ヨーロッパの場合、この主従関係は個人と個人の双務的な契約関係であって、一方的な支配と従属の関係ではなかった。このことが西ヨーロッパの封建制度の特色である。

 双務的な契約関係とは、主君と臣下の双方に契約を守る義務があるということで、主君といえども臣下に絶対的・無条件の服従を強いることは出来ず、臣下には主君の無理な要求には服従を拒む権利があったということである。

 臣下の義務の中で最も重要な義務である軍役についても、12世紀のフランスの場合、遠征は年40日、近隣の諸侯との戦闘は歩いて24時間で行ける距離までで1週間が原則であった。また臣下は義務さえ果たせば複数の主君を持つことが出来、2人以上の主君を持つ場合も多く、なかには45人の主君を持った例もあったといわれている。

 イスラムをはじめとする外民族の侵入による混乱によって交通や商業が衰え、人々は農村で自給自足の生活を営むようになり、西ヨーロッパは自給自足(自然経済)による農業中心の社会に移っていく。言い換えると、西ヨーロッパ全体が巨大な農村になっていった。

 こうした中で、諸侯・騎士は封土として与えられた土地を所領として支配する領主として、そこに住む農民を支配するようになった。彼らが領主として支配した土地は荘園と呼ばれた。中世ヨーロッパでは教会や修道院も寄進や開墾によって多くの荘園を持つようになったので、大司教や修道院長らの聖職者も、諸侯や騎士とともに領主として荘園の農民を支配した。

 一般的な荘園の場合、領主の館(大諸侯の場合は城)・教会・農民の住居などが中心にあり、その周辺に領主の直営地・農民の保有地からなる耕地と農民が共同で使用できる牧草地や森林が広がり、水車小屋やパン焼き小屋などの施設もあった。

 荘園内の農民の大多数は農奴と呼ばれる不自由な隷農であった。農奴は移転の自由がなく、生涯その土地に縛り付けられ、職業選択の自由もなかった。また領主裁判権に服さねばならないなど様々な身分的な束縛を受けた。しかし、奴隷とは違って、家族を持つことが出来、住居や農具などの所有は認められていた。

 このような農奴になったのは、ローマ末期のコロヌスや解放奴隷、そして民族大移動の混乱の中で土地を失ったり、有力者に隷属するようになった没落したゲルマンの自由民などであった。

 農奴は、身分上の束縛を受けるとともに、領主に対して様々な経済的な義務(税の負担)を負っていた。そのうち特に重要なのが賦役と貢納であった。

 荘園の耕地は領主が直接経営する直営地と、農奴に貸し与えた農民保有地からなっていた。その領主の直営地で週のうち2〜3日間労働するのが賦役である。しかし、その全収穫物は領主の物となる。農奴はただで働くことによって税を負担しているのと同じことになるので、賦役は労働地代とも呼ばれる。農奴はこの賦役をきらったが、この賦役と引き替えに領主から保有地を支給された。農奴は保有地を耕作し、その収穫物の一部や鶏卵・チーズなどを現物を納めた。これが貢納である。貢納は生産物地代とも呼ばれる。

 さらに十分の一税があった。これは農奴が荘園内にある教会に納めた貢納である。その名の通り、あらゆる収穫の十分の一を納めた。この他、結婚税・死亡税を納めた。死亡税によって保有地の世襲が認められた。そして水車小屋・パン焼きかまど使用料(小麦を粉にしたり、パンに焼くには領主が経営する水車小屋・パン焼きかまどを使用せねばならなかった)の負担など有りとあらゆる税負担を強いられた。この農奴からの搾取によって領主階級の生活が成り立っていた。それが荘園制であり、その上に成り立っていた封建社会であった。

 このような中で農奴たちは必死に働いた。特に保有地での労働は、領主に納めたあとの残りは自分の物になるので、賦役に比べて労働意欲が高く、直営地に対して保有地の方が生産性が高かった。さらに生産性の向上に様々な工夫が為された。その中で特に有名なのが三圃制である。これは耕地を三分し、春耕地・秋耕地・休閑地とし、3年で一巡する農法である。休閑地を設けて、そこでは家畜などを飼った。休ませることと家畜のふんなどで地力の回復をはかった。この三圃制は、二圃制(1年おきに休閑する)に代わって、10〜11世紀頃から始まり、地力の低いところでは19世紀の初めまで続いた。また牛馬に犂(すき)を引かせるために、各耕地は細長い地条に分けられていた。

 本来、封土であった荘園には、国王の官吏が立ち入り、裁判や課税などを行ったが、封建制(荘園制)の発展とともに、その権限が荘園の領主の手に渡り、国王の官吏は荘園にはいることが出来なくなり、徴税も行えなくなっていった。つまり、荘園領主が不輸不入権を手に入れ、その結果ますます封建社会の分権化が進んだ。このため11〜13世紀の封建制度の最盛期には、一般に権力が分散して分権化し、王権は弱かった。

 封建社会の支配階級である王・諸侯・騎士の間には、キリスト教の発展とともに、騎士道と呼ばれる新しい道徳が生まれてきた。日本の武士道にあたるが、戦士としての騎士の性格から、武勇と忠誠を中心にキリスト教的な神への奉仕、弱者への保護、特に婦人への献身的な奉仕が強調された。 




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