2 ヴァイキングの活動
ノルマン人はゲルマン民族の一派(北ゲルマン)で、スカンディナヴィア半島・ユトランド半島を原住地とし、スウェーデン・デンマーク・ノルウェーの3つの部族に分かれていた。彼らは狩猟や漁労を営んでいたが、また造船と航海に優れた技術を持っていた。
ノルマン人が遠征に用いた舟は長さ約20m、40〜60人程度の人を乗せ、高い舳先(へさき)を持ち、甲板はなく、櫂と帆で走り、時速は約10ノットを出した。吃水は約1mで河川の遡行に適していた。
ノルマン人は8世紀頃から活動を開始し(人口増加と耕地不足が原因と考えられている)、ヨーロッパ各地に侵入・移動した。初めは商業活動を行っていたがしばしば掠奪や海賊行為を働き、「ヴァイキング」(入り江の民の意味、後には海賊を意味するようになった)と呼ばれて怖れられた。彼らは、海岸を荒らし、河川をさかのぼって町や村・修道院などを襲撃・掠奪し、掠奪を免れようとする領主などからは賠償金を徴収した。彼らの襲撃を受けた人々は町や村を捨て、ひたすら奥地に逃げ込むしかなかった。
ノルマン人は、初期には西ヨーロッパ各地の海岸付近を襲い掠奪を行ったが、やがて内陸部に入り込み、土地を奪って定着し、建国するようになった。
ノルマン人の西フランク(フランス)への侵入は、8世紀末のカール大帝の頃にはすでに始まっていた。西フランクには大西洋に注ぎ込む河川が多いので彼らの侵入には好都合であった。9世紀に入るとノルマン人の侵入はいっそう活発となり、885年にはパリが包囲されたことは前に述べた。
ノルウェーのノルマン人の首長であったロロ(860頃〜933)は北フランスを荒らし、セーヌ川の河口地帯を占領した(890頃〜910)。このロロの侵入に苦しんだシャルル3世(西フランクの6代目の王、位893〜923)は、ロロがキリスト教に改宗することを条件に、セーヌ川の下流のノルマンディーに領土を与えて定住を許し、ノルマンディー公に封じた(911)。このノルマンディー公国は13世紀にフランスに併合されるまで続いた。
ノルマンディーに定着したノルマン人の下級貴族のある家に12人の武勇に優れた兄弟がいた。彼らは遠く地中海にまで進出し、最初は東ローマやロンバルドの傭兵となったが、後に自立し、掠奪と征服に乗り出し、南イタリアに地盤を築いていった。ルッジェーロ(ロジェール)1世(1031〜1101)は、教皇からイスラム教徒が支配するシチリア島の討伐を命じられた兄のロベール=ギスカールを助けて、シチリア島に侵入・征服し(1061〜)教皇からシチリア伯の称号を得(1072)、兄の死後(1085)は南イタリアをも支配した。
父ルッジェーロ1世の後を継いでシチリア伯になったルッジェーロ2世(位1130〜1154)は、南イタリアを含むノルマン諸勢力を統合してシチリア王となり、両シチリア王国を建国した(1130)。
フランスと並んでノルマン人の侵入に苦しんだのがイングランド(イギリス)である。ゲルマン民族の大移動の時、イングランドにはアングロ=サクソン族が移住し(5世紀中頃以後)、先住のブリトン人を征服し、部族ごとに多くの小王国を建設した。これら小王国は6世紀末にケント・エセックス・サセックス・ウェセックス・イースト=アングリア・マーシア・ノーザンブリアの七王国(ヘプターキー)に統合された。
七王国は、相互の長期にわたる抗争の末、ウェセックス王のエグバート(エグベルト)(ウェセックス王、位802〜839、イングランド王、位829〜839)が七王国すべてを支配下においてイングランドを統一した(829)。
イングランドが統一に向かっていた8世紀末からデーン人の侵入が始まり、9世紀に入ると、その侵入はいっそう激しさを増した。デーン人はデンマークからイギリスに侵入したノルマン人の一派を指すが、イギリスではノルマン人・ヴァイキングがデーン人と呼ばれた。デーン人は、イングランドを次々に征服し、9世紀後半には南西部のウェセックスがわずかに独立を保っているに過ぎない状態となった。
こうした状況の時にイングランド王に即位したのが、エグバートの孫のアルフレッド大王(848頃〜899、位871〜899)である。アルフレッド大王は、デーン人との激しい戦いの中から彼らの戦術を学び、それを利用してデーン人を打ち破り、彼らの勢力をデーンロー地方(イングランドの東部)の北部に限定することに成功した。また彼は海軍の拡張などの軍制改革、行政制度の整備などに尽くし、イングランド王国を再建した。このようにアルフレッド王はイングランドをデーン人から守ったアングロ=サクソン族の最も偉大な王としてイギリス国民から尊敬され、大王の名で呼ばれている。
アルフレッド大王の死後、約1世紀はデーン人の侵入も比較的少なく平和な状態が続いたが、11世紀の初め、イングランド王が反乱を口実に国内のデーン人を虐殺したことから、再びデーン人の大規模な侵入が始まった。
デンマーク王の第2子、クヌート(カヌート)(イングランド王、位1016〜1035、デンマーク王、位1018〜1035)が父とともにイングランドに侵入・征服し(1013、1015)、1016年にはイングランド王となり、デーン朝(1016〜1042)を開いた。彼は兄の死によりデンマーク王を兼ね、さらにノルウェー とスウェーデンの一部を征服し(1028)、北海を取りまく大海上帝国を建設したが、彼の死後、大帝国はまもなく崩壊し、デーン朝は3代で滅びた。
その後、イングランドでは再びアングロ=サクソン王朝が復活したが(1042)、1066年の「ノルマンの征服」(ノルマン・コンクェスト)によって再びノルマン人に征服され、ノルマン朝(1066〜1154)が建てられることになる。
ノルマンディー公ウィリアム(1027頃〜1087、ノルマン朝の創始者、イギリス王としてはウィリアム1世(位1066〜1087)は、ノルマンディー公ロロの5代目の子孫で、父の後を継いでノルマンディー公となった(1035)。イングランドでエドワード懺悔王(位1042〜1066、デーン朝が断絶するとノルマンディーから帰国して即位した、ウェセックス家最後のイングランド王、母はノルマンディー公家の出)が亡くなり、義弟のハロルドが即位するとノルマンディー公ウィリアムは、エドワード王の従兄弟の子として王位継承を要求してイングランドに侵入した。彼は約750隻の船に約15000人の兵を分乗させ、ヘースティングス付近に上陸し、ヘースティングスの戦い(1066)で大勝してハロルドを敗死させ、イングランド王に即位してウィリアム1世と称し、ノルマン朝を創始した。これが「ノルマンの征服」と呼ばれる出来事である。
ウィリアム1世は約5年でイギリスを統一し、フランスの封建制度を移入し、ノルマン貴族を各地に封じて統治させた。そして全国的な検地を行い、ドゥームズデー=ブックと呼ばれる検地帳(土地台帳)を作成させ、全国の土地所有者を集めて王への忠誠を誓わせた(「ソールズベリーの誓約」、1086)。またカンタベリー大司教を任命するなど、集権的封建制度でイギリスを統治した。
「ノルマンの征服」によって、ノルマンディー公国はイギリス領となり、イギリスはヨーロッパに領土を持つこととなった。またフランス王の家臣であったノルマンディー公がイギリス王になり、主君のフランス王よりも強大な力を持つことになったことが、以後の英仏関係複雑にし、長期にわたる英仏抗争の原因となった。
北ヨーロッパでは、スウェーデンのノルマン人であるルーシ(ルス)族の族長であったリューリク(ルーリック)(?〜879)に率いられたノルマン人の一派(ルーシ族)が、スラヴ系の諸部族の要請を受けて兄弟でロシアに入り、ロシア最古の都市の1つであるノヴゴロドに入り、ノヴゴロド公国を建てた(862)。これがロシア最初の国家とされる。なおロシア(Russia)の呼称はルス(Russ)に因むと言われている。
その後、リューリクの一族のオレーグに率いられたルーシ族はさらに南下し、ロシア最大の都市キエフを中心にキエフ公国を建国した(882)。
ノルマン人の現住地にはデンマーク・スウェーデン・ノルウェーの3王国が成立した。デンマークでは、8世紀頃、デーン人がユトランド半島を中心に王国を形成した。11世紀前半のクヌート王の時代にはイギリス及びスウェーデン・ノルウェーの一部を統一し、北海帝国を建設した。ノルウェーでは、ノルマン人によって9世紀末に初めて統一国家が形成された。しかし、11世紀前半にはデンマークのクヌートの支配下に置かれた。スウェーデンにも、10世紀頃ノルマン人によって統一国家が形成された。
ノルマン人の一部は、9世紀にアイスランドを発見して、そこに移住した。アイスランドは13世紀末にノルウェーに併合された。ノルマン人の一部は大西洋を越えて、10世紀末にグリーンランドに達し、また1000年頃には北米のヴィンランド(カナダの東部)にも達したと言われている。とすると、コロンブスの発見よりも500年も前のことになるが、名前も伝わってないし、記録もないため、最初にアメリカ大陸に到達したヨーロッパ人はコロンブスと言うことになっている。