2 西ヨーロッパ封建社会の発展

1 フランク王国の分裂

 カール大帝には約20人の子供がいたが、男子で彼の死後まで生きたのは第3子のルートヴィヒ1世(ルイ1世、敬虔王、位814〜840)だけだったので、彼がカール大帝の後継者となった。彼は敬虔王のあだ名の通り、信仰心が厚く各地に教会や修道院を寄進したが、政治力・決断力に欠けていたと言われている。

 ルートヴィヒ1世は、817年に王国をロタール、ピピン、ルートヴィヒの3人の子供に分配したが、829年に再婚して生まれた末子のシャルルに再分配しようとしてロタールらの反乱を招き、ルートヴィヒを攻撃中に亡くなった。

 父の死後、長子のロタール1世が全土の支配を図ったのに対し、次子のルートヴィヒ2世と末子のシャルル2世(ピピンは早死した)が結んでロタール1世を破り、843年にヴェルダン条約を強制して、王国を3分割した。長子ロタール1世(位840〜855)は中部フランク(中フランク、東・西フランクの中間地帯とイタリア)を獲得し、次子ルートヴィヒ2世(843〜876)は東フランク(ドイツ、ライン川以東の地)を、そして末子のシャルル2世(位843〜877)は西フランク(フランス)を獲得した。

 ロタール1世は、西ローマ皇帝の地位と中部フランクを得たが、3人の中で一番早く亡くなり、後を継いだロタール2世も没すると(869)、ルートヴィヒ2世とシャルル2世は再び結んで、870年のメルセン条約で、兄の領土であったイタリアを除く中部フランクをほぼ均等に分割して、それぞれ東・西フランクに併合した。

 メルセン条約による国境が、その後長い変遷を経て、今日のドイツ・フランス・イタリアの国境になっていく。その意味で、このメルセン条約によって後のドイツ・フランス・イタリアの基礎がつくられたと言える。

 このフランス王国が分裂していった時期はヨーロッパが外部からの侵入に脅かされ・苦しめられた時期でもある。北からはノルマン人、東からはマジャール人、南からはイスラム教徒がヨーロッパ世界を脅かし、この外部からの侵入は以後のヨーロッパの歴史に大きな影響を及ぼしていく。

 イタリアでは、ルイ2世(ロタール1世の子)の死によってカロリング家が断絶した(875)。その後、イタリアでは諸侯や都市が分立し、北イタリアは東フランク(962年以後は神聖ローマ帝国)やビザンツの介入を受け、南イタリアはイスラムやノルマン人の侵入を受けた。このためイタリアは分裂状態に陥り、中世の「イタリア」は地理的名称にしかすぎなくなった。

 東フランクでは、ルートヴィヒ4世(東フランク第4代の王)が若死して、911年にカロリング朝が断絶すると、カロリング家と血縁関係にあったフランケン公コンラート1世が有力諸侯達によって国王に選出された。しかし、コンラート1世はマジャール人(ハンガリー人)の侵入と国内の各部族の分立に苦しめられ、王として力は弱かった。こうした状況の中で、人々は血統よりも実力のある人物が王となり、王国が再建されることを願うようになった。そこでコンラート1世は後継者に有力諸侯の1人であったザクセン公ハインリヒ1世(位919〜936)を指名した。

 ハインリヒ1世は辺境の防備に力を注ぎ、ノルマン人やマジャール人・スラブ人の侵入を撃退して、国内の結束を固め「ドイツ王国」の名称を用いたので、ハインリヒの即位をもって国家としての「ドイツ」が成立したと見なしている。彼は国内の各部族の分立を抑えることはできなかったが国民の信頼を得ていたので、彼の死後、子のオットー1世が諸侯の選挙によって東フランク王に選ばれた。

 オットー1世(912〜973、東フランク王(位936〜973)、神聖ローマ帝国初代皇帝(位936〜973))は即位すると、国家の統一に力を注ぎ、外敵のマジャール人を討ち、国内では敵対する諸侯を抑えて中央集権体制の確立に努めた。

 マジャール人は、アジア系の遊牧民で、現在のハンガリー人の祖先である。ウラル語族に属し、原住地はウラル山脈の西南部の辺りと考えられている。5世紀頃から西南方に移動を開始し、カフカース地方(黒海とカスピ海に挟まれた地方)に数世紀間定住していたが、9世紀の初め隣接民族の移動に刺激され、再び西方に移動しハンガリー平原に入り、以後ここを拠点としてドイツ・イタリア・ギリシアに連年にわたって侵入した。彼らは騎馬戦術に優れ、その凶暴さと残忍さで周辺の人々に恐れられた。

 オットー1世は、933年と特に955年のレヒフェルトの戦いでマジャール人を撃破し、その西方進出を阻止するとともに、オストマルク辺境領(後のオーストリア)を置いてその後の侵入に備えた。

 国内では大諸侯を抑えるために一族の者を諸侯として各地に配置したが、一族の者が各地の部族勢力と結んだため目的を果たすことができなかった。そこで「帝国教会政策」を採用して中央集権体制の確立をはかろうとした。帝国教会政策は、教会や修道院領を王領とし、司教や修道院長の任命権を握り、聖職者を国王の官僚とし、彼らを王権の支柱とする政策である。

 オットー1世は、帝国教会政策を進めるために、3回にわたってイタリア遠征を行った(951〜952、961〜964、966〜972)。この2回目の遠征の時、教皇ヨハネス12世から「ローマ皇帝」の帝冠を授けられた(962)。ヨハネス12世(位955〜964)は、トスカナ公家の出身で、教皇領の拡大をはかり、イヴレア侯と争い、オットー1世に助けを求め、彼が軍を率いてイタリアに入るとローマ皇帝の冠を授けた。

 これが「神聖ローマ帝国」(962〜1806)の起源となった。この国は最初は単に「ローマ帝国」と呼ばれていたが、13世紀の中頃以後「神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになった。

 ここにドイツからイタリア中部にまたがる大帝国が出現したが、その後のドイツ王は代々「ローマ皇帝」の称号を受けたことから、歴代の神聖ローマ皇帝(ドイツ王)は本国の統治よりもイタリア支配に熱中した。このためドイツ国内は分裂状態に陥っていく。この歴代の神聖ローマ皇帝のイタリア支配政策は「イタリア政策」と呼ばれている。

 西フランクは、8世紀末以来のたび重なるノルマン人の侵入に苦しめられていた。特に885年から86年に、約700隻の船に分乗した約3万人のノルマン人の大軍がセーヌ川をさかのぼりパリを包囲した。この時、無能なカロリング家の西フランク王に代わってパリを死守し、名声をあげたのがパリ伯ウードであった。

 ウードの甥、パリ伯ユーグの長子として生まれたのがユーグ=カペー(938頃〜996、位987〜996)である。ルイ5世の死によってカロリング家が断絶すると、カロリング家の女を妻としていたユーグ=カペーは、国王選挙で対立候補であったロレーヌ公シャルル(ルイ5世の叔父)を破って王位に就き(987)、カペー朝(987〜1328)を開いた。

 しかし、カペー家の王領はパリとオルレアンを含む狭い地域に限られ、また各地に分散していたため、王権は弱く、振るわなかった。




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