3 ローマ=カトリック教会の成立
フランク王国の発展とともに勢力を伸ばしたのがカトリック教会である。教会は、元来はキリスト教徒の団体を指す言葉であったが、後には建物をも指すようになった。教会は3世紀頃までに、ローマ帝国内の各地に成立し、増大していった。その中から、ローマ・コンスタンティノープル・アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアのいわゆる五本山、総大司教座が置かれた5つの教会が重要となった。
このうち、ローマ教会は、第1の使徒であるペテロの殉教の地に建てられた教会であり、ペテロがイエスから信者の救霊を託されたとして早くから首位権(五本山中の首位教会たる権利)を主張した。ローマ帝国が東西に分裂する(395)と、ローマ教会は唯一の西方教会となり、7世紀以後アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアの各教会がイスラム教徒の支配下にはいると、ローマ教会とコンスタンティノープル教会が首位権をめぐって争った。
ローマ教会は、西ローマ帝国の滅亡(476)後、西ヨーロッパにおいて精神的権威を持つことになったが、教皇(ローマ教皇、ローマ=カトリック教会の最高首長で初代のペテロを継ぐ者とされる、ラテン語ではPapa、英語ではPope)の地位につくには東ローマ皇帝の承認が必要だったし、東ローマ皇帝がいる限り、キリスト教の保護者は東ローマ皇帝であった。しかも、西ローマ帝国の滅亡後はアリウス派を信仰するゲルマン諸族に周りを囲まれ、ローマ教会が頼れるのは東ローマだけであった。こうした状況の中で、コンスタンティノープル教会はローマ教会の首位権を認めず、東ローマ皇帝を後ろ盾としてローマ教会に対して優位に立っていた。
修道院は、修道士・修道女が共同生活しながら修行する場である。4世紀頃のエジプトにあらわれ、シリアに伝播し、さらにヨーロッパに伝えられた。この修道院を改善し、西ヨーロッパ独自の修道院制度を創始したのがベネディクトゥス(480頃〜543頃)である。 ベネディクトゥスは、イタリアの貴族の家に生まれ、ローマで哲学・法学を学んだが退廃したローマの生活に失望し、17才頃サビニ山中の洞窟で修行した。その後、祈りの他に労働や学問を日課とし、強い信仰心と高い教養をもつ聖職者の養成を目指して、ローマの南方のモンテ・カッシノに修道院を建てた(529)。
ベネディクト派修道院は、貞潔・清貧・服従を旨とし、「祈り、働け」をモットーとする聖ベネディクトゥス会則(戒律)を作り、これを厳格に守らせた。修道士達は、午前2時に起床し、午後8時に就寝するまでに、4〜5時間の祈りと6〜7時間の労働を行い、2時間の読書・写本に励んだ(シトー派修道会、6月の例)。修道院の生活は自給自足だったので、生活に必要な物は全て修道士の労働によって作り出された。そのため修道院は、民衆の教化という宗教的な面や開墾などの経済的な面だけでなく、学問研究などの文化的な面でも大きな功績を残した。
聖ベネディクトゥス会則は、その後急速に西ヨーロッパ各地に広まり、ベネディクト派修道院は多くの優れた聖職者を生み出した。彼らはゲルマン諸族の王をアタナシウス派に改宗させたり、辺境や異教の地での布教に活躍した。「大教皇」と呼ばれたグレゴリウス1世もベネディクト修道院で修行した1人であった。
グレゴリウス1世(540頃〜604、位590〜604)は、ローマの貴族の家に生まれ、ローマの総督にもなったが、後にベネディクト修道院に入り、修道院長から教皇に選出された。彼は、ローマ教会をロンバルド王国の圧迫から守り、コンスタンティノープル教会に対してはローマ教会の首位権を主張して譲らず、教皇権の確立に務めた。またゲルマン人の改宗に努力し、特にアングロ=サクソン族の改宗に力を尽くした。
これより少し前、ユスティニアヌス帝(位527〜565)治下のビザンツ(東ローマ)帝国は、東ゴート王国を滅ぼして(555)、一時イタリアを回復したが、その後イタリアに南下してきたロンバルド族によってイタリアを奪われた(568)。以後、ローマ教会もゲルマン諸族の中で最も野蛮であったといわれ、アリウス派を信仰するロンバルド族の圧迫を受けることになった。こうした状況の中で、グレゴリウス1世は東ローマ勢力がイタリアから後退したのを見て、従来の東ローマに頼る方針を改めて、ローマ教会は以後ゲルマン国家との繋がりを強めるべきだと考えるようになった。
その上、7世紀前半にイスラム教徒は東ローマ帝国からシリア・エジプトを奪い、コンスタンティノープルに迫った。さらにイスラム教徒は、北アフリカからイベリア半島を征服し、地中海は「イスラムの湖」と化した。こうした状況の中で、ローマ教会はもはや東ローマ帝国の保護・援助を期待することはむずかしくなった。
イスラム教徒によるコンスタンティノープル包囲(717〜718)に耐え、これを撃退したビザンツ(東ローマ)皇帝のレオン3世(レオ3世、位717〜741)は、726年に「聖像禁止令」を発布した。
当時、キリスト教徒の間では、イエス・マリア・殉教者の聖像(偶像)や聖遺物を崇拝する風潮が盛んとなっていた。偶像を否定するユダヤ教を母胎とするキリスト教は元来聖像(偶像)崇拝を厳禁する宗教であった。さらに偶像崇拝を禁止するイスラム教の影響を受けて、レオン3世はいっさいの聖像の制作・所持・礼拝を禁止し、破壊を命じた。これが「聖像禁止令」である。
しかし、この「聖像禁止令」は、聖像をゲルマン布教の手段に利用していたローマ教会の反発を招き、ローマ教会との対立を引き起こし、東西教会分裂の契機となった。この対立にあたり、東ローマ皇帝は強硬な態度を取り、今まで対立していたロンバルド族と結び、ロンバルド王にローマ教会に対する圧迫をますます強めさせた。
ローマ教会が、「聖像禁止令」をめぐって東ローマと対立し、ロンバルドの圧迫に苦しんでいるときに起きたのが、732年のトゥール=ポワティエ間の戦いである。イスラム軍を撃退したフランクの軍事力に目をつけたローマ教皇は、従来の政策を転換して、東ローマと手を切り、フランクと結ぶことを決意し(739)、カール=マルテルに接近をはかった が失敗に終わったことは前に述べた。
カール=マルテルの後を継いだ小ピピン(位751〜768)は、751年にメロヴィング朝の皇帝を廃し、教皇の支持を得て王位につき、カロリング朝(751〜987)を開いた。
この時、フランクに保護を求めようとしていた教皇は、「王の力のない者が王たるよりは、力のある者が王たるべきである」と述べ、小ピピンの王位を承認した。そして次の教皇はロンバルドの圧迫からローマ教会を守ってくれるよう小ピピンに頼み込んだ。
これを受けて、小ピピンは754〜755年にイタリアに出兵し、教皇のためにロンバルド族を討伐し、ロンバルドから奪い取ったラヴェンナ地方を教皇に寄進した。この「ピピンの寄進」によって教皇とフランクの結びつきはますます固くなった。