2 フランクの発展
フランク族は、3世紀頃には10いくつかの支族に分かれ、ライン川の右岸(ライン川の東)の中・下流域に定住した。そして4世紀にはライン川を越えて北ガリアに広がった。他のゲルマン諸族が現住地を離れて遠距離を移動したのに対して、フランク族は移動距離が短く、しかも現住地を維持しながら居住地を拡大していった。このことがフランク族が以後発展していく1つの理由である。
この頃、フランク族の中ではサリ族とリブリア族の2つの支族の勢力が強まっていた。フランドル地方(現在のベルギー)を支配していたサリ族の小王国の王家に生まれ、王位につくと、フランクの他の支族を次々と支配下に治め、フランク族を一つに統一したのがメロヴィング家のクローヴィス(465〜511、位481〜511)である。
クローヴィスは粗野で残忍、猜疑心が強く、陰謀と奸計に明け暮れたと言われている。彼はアッティラを撃退したローマの将軍の子、シアグリウスをソワソンの戦いで破り(486)、以後アラマン族・ブルグンド族・西ゴート族を次々に撃破し、ライン川下流からピレネー山脈にまたがる大王国を建設した。
フランク族がこのように大発展をとげた最大の理由は、他のゲルマン諸族がニケーアの公会議で異端とされたアリウス派を信仰していたのに対し、フランクはゲルマン諸族の中でいち早く正統のアタナシウス派に改宗した(496)ことである。
クローヴィスの改宗については、彼がアラマン族との戦いに負けそうになったとき、カトリックの信者であった妻の言葉を思い出し神に祈って勝利を得ることが出来たので、家臣3000人とともに洗礼を受けたといわれている。この改宗によって、ローマ系の住民と親密な関係を保つことが出来、カトリック教会の支持を得ることが出来た。
フランク族の間では分割相続の習慣があったので、クローヴィスの死後、フランク王国は4人の子によって分割された。その後、フランク王国を再統一したのは、4人の中で最後まで生き残ったクロタール1世(位511〜561)であった。クロタール1世の死後、またフランク王国は4人の子に分割された。そしてクロタール1世の孫のクロタール2世(位584〜628)によってフランク王国は再統一された(613)。
メロヴィング家には、残忍と好色の血が流れていたと言われている。クロタール1世も、2世も好色の血を受け継ぎ、以後の王も怠惰でぜいたくな後宮生活に溺れた。そのため、多くの王は10代の前半で父親となり、若死にした。彼らは「無為の王」と呼ばれている。
このため、フランク王国ではこの頃から「宮宰」(マヨル=ドムス、家政の長官の意味)の力が強くなり、行政・財政の実権を握るようになった。
カロリング家の祖である大ピピン(?〜639)は、クロタール2世の再統一を支えた有力な豪族の一人で、クロタール2世治下のアウストラシア(フランク王国の東北部を支配したフランクの一分国)の宮宰であり、アウストラシアでは大ピピン以後カロリング家が宮宰を世襲するようになった。そして彼の孫である中ピピン(ピピン2世、?〜714)の時にはカロリング家がフランク王国の実権を握るようになった。
中ピピンの子が、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラム教徒を撃退したことで知られるカール=マルテル(689〜741)である。彼は、父の後を継いでアウストラシアの宮宰となり(任714〜741)、720年には全フランク王国の宮宰となった。
その頃、アフリカからジブラルタルを渡りイベリア半島に侵入したイスラム(ウマイヤ朝)軍は西ゴート王国を滅ぼし(711)、さらに北上してガリアに侵入した(720)。そして、732年10月、ポワティエとトゥール間で7日にわたってイスラム教徒とキリスト教徒との間で一大決戦が行われた。これが有名なトゥール・ポワティエ間の戦い(732)で、カール=マルテルは重装騎兵を中心とするフランク軍を率いてイスラム軍を撃退し、ヨーロッパとキリスト教世界をイスラムから守った。この時、カール=マルテルが教会領を没収して家臣に与えたことが、封建的主従関係の成立を促進することとなった。
カール=マルテルは、イスラム軍を撃退した後、ブルゴーニュ地方(フランス東部)からラングドック地方(フランス南部)を征服した。これによってフランク王国の領土はフランスの全土に広まった。彼は、737〜742年までは正統の国王がいないという理由で国王を置かないでフランク王国を統治した。今やフランク王国の実権は事実上カロリング家に握られることとなった。
726年にビザンツ(東ローマ)皇帝レオン(レオ)3世が聖像禁止令を発布して以後、ビザンツ皇帝と対立していたローマ教皇は、ビザンツ皇帝にかわる保護者としての有力な政治勢力を求めていた。
トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク軍の強さを知ったローマ教皇は、フランクとの提携をはかった。ローマ教皇はカール=マルテルに使いを送り、彼がロンバルド族から教皇を守ってくれるなら、教皇は東ローマと手を切ってフランクをローマ教皇の保護者に認めようと申し出たが(739)、カール=マルテルはこれを断った。それから2年後に彼は亡くなった。
カール=マルテルの死後、兄とともに父の後を継いで宮宰となったのが、小ピピン(ピピン3世、714〜768、位751〜768)である。彼は兄が修道士になって隠退したあと、全フランク王国の実権を掌握した。そして、751年にメロヴィング朝の最後の皇帝ヒルデリヒ3世を廃し、教皇の支持を得て王位につき、カロリング朝(751〜987)を開いた。
この時、フランクに保護を求めようとしていた教皇ザカリアスは、「王の力のない者が王たるよりは、力のある者が王たるべきである」と述べ、小ピピンのクーデターを承認した。ザカリアスの次の教皇の時、教皇はロンバルドの圧迫からローマ教会を守ってくれるよう小ピピンに頼み込んだ。
これを受けて、小ピピンは754〜755年にイタリアに出兵し、教皇のためにロンバルド族を討伐し、ロンバルドから奪い取ったラヴェンナ地方を教皇に寄進した。この出来事は「ピピンの寄進」と呼ばれ、これが教皇領の起源となった。またこの出来事によって教皇とフランクの結びつきが強まった。