4 中国の古典文明

8 漢の社会と文化

 戦国時代頃から始まった大土地所有制は漢代に盛んとなり、各地に広大な土地を所有し、多くの奴婢(ぬひ、奴隷、奴は男奴隷・婢は女奴隷)や小作人を使って耕作させる豪族があらわれた。漢代の農民の多くは彼らの支配下に入り、半奴隷的な状態となった。

 前漢の末、哀帝の時(前7)に、大土地所有の制限と奴婢を制限し、小農の保護を目的とした限田策がつくられたが、反対が強く、実施されなかった。

 当時の官吏任用制度は「郷挙里選」(有徳者を地方長官が推薦し官吏とする方法)と呼ばれたが、「郷挙里選」で推薦されたのは、ほとんど地方豪族の子弟であった。

 こうして豪族は経済的・社会的だけでなく、政治的にも官職を独占して権力を握るようになった。特に後漢は地方豪族が劉秀を押し立ててつくった連合政権という性格が強かった。

 漢代の文化の上で特に重要なのは、儒学の官学化・歴史書の編纂・製紙法の発明である。

 漢代の初めには、法家・道家思想が支配的であったが、前漢の武帝は、董仲舒の献策をいれ儒学を官学とし、当時儒学の重要な古典とされた五経(「詩経」「書経」「易経」「春秋」「礼記」(らいき))を教え、文教をつかさどるために五経博士を置いた。

 儒学が官学とされ、官吏になるためには儒学の教養が必要とされたので漢代を通して儒学が盛んであった。学者達は儒学の古典(特に五経)の復旧と訓詁学(古典の字句解釈・注釈を主とする学)に努めた。後漢の馬融(79〜166)や鄭玄(じょうげん、127〜200)はその代表的な学者として知られている。

 中国は歴史の盛んな国で、古くから多くの歴史書が書かれてきた。そのなかで「正史」と呼ばれる歴史書は、中国の古代から明までの各時代について正統と認められてきた紀伝体の歴史書で25種あり、「二十五史」と呼ばれている。中国では、一般的に前の王朝の歴史を次の王朝が書いた。唐以後は勅命で前王朝の正史が編纂されるようになった。

 正史は、「史記」、「漢書」、「後漢書」、「三国志」・・・と続くが、このうち漢代に書かれたのは「史記」と「漢書」である。

 「史記」の著者は司馬遷(前145頃〜前86頃)である。陜西省西安の人、代々の史官の家に生まれ、10歳頃から古典を読み、20歳で修史の記録収集のため各地を旅行し、23歳頃武帝に仕えた。父の遺志に従って太史令(天文・暦学・修史を扱う役所の長官)となった(前108)。しかし、前述した李陵を弁護して、武帝の怒りにふれて死刑判決を受けたが(前99)、宮刑(去勢されて宦官になる刑)によって死を免れ、出獄後修史に励み、「史記」130巻を完成させた(前91)。

 「史記」は、五帝から武帝の時代までを、「本紀」、「表」、「書」、「世家」、「列伝」に分けて書いている。この記述の形式を「紀伝体」といい、以後の「正史」はこの形式で書かれた。

 「本紀」は、王・皇帝の事績をもとに王朝の歴史を描いたもので、「五帝本紀」、「夏本紀」、「殷本紀」、「周本紀」、「秦本紀」、「始皇本紀」、「項羽本紀」、「高祖本紀」、「呂后本紀」、「孝文本紀」、「孝景本紀」、「孝武本紀」の12から成っている。項羽は皇帝にはならなかったが、司馬遷はあえて本紀に入れている、ここに司馬遷の項羽に対する評価が見える。2代皇帝の恵帝でなく実権を握っていた呂后本紀を入れ、以後の文帝・景帝・武帝と続いている。

 「表」は系図・年表で10巻から成り、「書」は、制度・音楽・兵法・暦・天文・治水土木技術・貨幣を主とする経済史などが8巻にまとめられている。「世家(せいか)」は、列国や諸侯の歴史を30巻にまとめたものであり、「列伝」は重要人物の伝記で70巻から成っている。「史記」のなかでも特に面白いのが「列伝」である。 

 「史記」は正史の第1とされ、司馬遷は「中国の歴史の父」と呼ばれる。

 班固(32〜92)は、陜西省出身で、先祖は楚の名族、司馬遷と並ぶ後漢の有名な歴史家であり、西域経営に活躍した班超の兄である。父の遺志(司馬遷の「史記」に続く歴史書の編纂)を継いで、20余年の歳月をかけて「漢書」(かんじょ)120巻を著したが、獄死したため妹が補って完成させた。班固は和帝の時代に行われた竇憲(とうけん)の匈奴征伐に従軍し(89)、後に竇憲以下、外戚の竇氏が滅ぼされるなかで、連座して捕らえられて獄死した。

 「漢書」120巻は、前漢の高祖から王莽滅亡までの前漢一代の歴史のみを扱っているが、1つの王朝の歴史だけを書くという記述形態が以後の正史に受け継がれることになる。

 この「漢書」の地理志にはじめて倭のことが書かれている。「夫(そ)れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時を以って(定期的に)来たり献見すと云う」。これが日本に関する最古の記録である。

 蔡倫(さいりん、?〜121頃)は、紙の発明者として知られている。彼は明帝の時、宦官として宮廷に入り、宮中の諸道具製作の長官となった。樹皮・麻布・漁網・ぼろきれなどで紙をつくり、105年に和帝に献上した。これが紙の始まりとされてきた。それ以前にも原始的な紙が造られていたらしいが、筆記用の紙は蔡倫に始まる。従って最近の教科書には、蔡倫は製紙法の改良者として記載されている。

 それまでは書写の材料としては木簡・竹簡が使われていた。薄く削った木片や竹片の表面を平らにし、両側に小さな穴をあけ、ひもで繋ぎ合わせ、保存するときは巻いて束にした。そこから巻1とか1巻という言葉が生まれてきた。

 書体としては、隷書が漢代を通じて広く使われたが、後漢末に隷書から楷書が作られて一般化していった。   




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