7 後漢の再統一

7 後漢の再統一

 王莽(前45〜後23、位後8〜23)は、いわゆる「禅譲」の形をとって皇帝の位につき、国号を「新」と称した。

 王朝の交替には「禅譲」と「放伐」の2つの形式がある。「禅譲」は孟子の「易姓革命」説による有徳者に位を譲る、平和的な政権の移譲の形式を言い、これに対して「放伐」は武力による政権奪取の形式を言う。今までの中国史での政権交代は「放伐」で、「禅譲」の形式を用いたのは王莽が最初であった。

 王莽は、周の政治の復活を掲げ、復古主義的な改革を行った。まず土地制度については天下の土地をすべて「王田」とし、「奴婢(ぬひ)」(奴隷)を「私属」と改め、その売買を禁止し、一定以上の土地を持っているは余分の土地を分け与えよと命じた。

 前漢末以来、大土地所有制が進み、各地の地主は豪族化していた。豪族とは広大な土地と多くの奴婢・農民を支配下におき、自分の土地を守るために私兵を所有した有力者で、彼らは官職を独占し、経済的・社会的・軍事的な有力者となり、地方の政治の実権を握るようになった。

 豪族による土地の兼併が進み、多くの農民は土地を失い、土地を離れて流民となり、また身を売って奴婢となった。王莽の改革は、このような現状を改めようとしたものであったが理想的にすぎ、豪族の強い反発にあった。

 また貨幣制度も、何度となく改め、様々な種類の貨幣を発行したので、物価の変動が著しく経済は大混乱をきたした。

 さらに儒教思想により、周辺異民族の「王」の称号を奪い、すべて「侯」に改めたので、各地の諸部族が反乱を起こし、王莽は、匈奴に対しては30万、南方に対して20万の大軍を送ったが戦果はあがらず、軍事費は増大し、農民の負担を重くし、各地で農民の暴動がおこった。

 18年に山東で起こった農民反乱は、たちまち華北一帯に及んだ。反乱軍は眉を赤く染めて目印としたので、この農民反乱は「赤眉の乱」(18〜27)と呼ばれた。その頃、南方でも「緑林軍」と称する農民反乱が起こった。

 劉秀(前6〜後57)は、前漢の6代皇帝景帝の6代目の子孫で、一族は前40年頃に南陽郡(湖北省)に移封され、その地で豪族化していた。赤眉の乱が起きると、劉秀も南陽で挙兵し、同族の劉玄を擁立した。王莽の大軍を破り(前23)、河北に進出した。

 前23年に緑林軍は長安に入り、王莽を殺した。「新」はわずか15年で滅亡した。

 前25年には赤眉軍が長安に入り、劉玄を殺し、掠奪と暴行を繰り返し、人心を失うなかで、河北の平定にあたっていた劉秀は人望を集め、劉玄が殺されると、豪族の支持を得て、洛陽で皇帝の位について漢を復活した。これが後漢(25〜220)で、劉秀は後漢の初代皇帝となった。すなわち光武帝(位25〜57)である。光武帝は、その後赤眉の乱を討ち(27)、各地に割拠した群雄を破って、全土を統一した(36)。

 統一後、光武帝はヴェトナムに出兵し、徴(チュン)姉妹の乱(40〜43)を平定し、北ヴェトナムを制圧し、またこの頃、匈奴が南北に分裂(48)したのに乗じて、南匈奴を服属させた(49)が、その後は対外的には消極策をとった。

 内政では、豪族と結んで外戚の力を抑え、豪族との衝突を出来るだけ避ける政策をとった。後漢の官僚や軍人の大部分は豪族出身者で占められていて、後漢は豪族の連合政権という性格が強かった。

 光武帝は、民生の安定をはかり奴隷解放令を何度も出した。また儒学を復興・奨励したので、儒教の道徳思想が一般にゆきわたった。

 光武帝は在位33年、57年に63歳で亡くなり、明帝(位57〜75)が即位した。倭の奴国王が朝貢し、漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)を授かったのはこの年(57)のことである。この金印は江戸時代に博多沖の志賀島で発見された(1784)。  

 明帝の時代には国内が安定し、国力は隆盛に向かい、明帝は従来の対外消極策から積極策に転じた。

 73年、竇固(とうこ)らが大いに北匈奴を破った。この匈奴討伐に従軍して軍功をあげたのが班超(32〜102)である。彼は同年西域招撫の任を受けて西域に赴いた。

 班超は、以後西域に留まること31年、この間、西域都護(西域統治機関である西域都護府の長官)に任じられ(91)、パミール高原の東西にある50余ヶ国を服属させ、後漢の勢力を西域に及ぼした。102年に老齢のために帰還を許され、洛陽に帰ったが1ヶ月後に亡くなった。すでに4代和帝の時代になっていた。

 班超は、97年に部下の甘英を大秦国(ローマ帝国のこと)に派遣したが、甘英は安息(パルティア)を経て条支国(シリア)に達したが、大海(地中海説とペルシア湾説の両方がある)の航海困難を聞き、引き返したと記録にある。

 明帝の時代の67年に仏教が中国に伝わったと歴史書にはあるが、最近の研究では前2年頃に伝来したことになっている。

 明帝の次の章帝(位75〜88)までは、外戚が遠ざけられていたが、第4代の和帝(位88〜105)が10歳で即位したため、竇太后や外戚の竇憲(とうけん)が実権を握るようになった。竇憲は89年に北匈奴を討って大功を立てその専横は目に余るようになった。和帝は宦官と結んで 竇氏一族を滅ぼし(92)、親政を行った。

 章帝から和帝の時代は、班超の活躍により西域に領土が拡大し、対外的には後漢の勢威が最もふるった時期であったが、国内では以後幼少皇帝が相次ぎ、外戚と宦官の対立・専横がはなはだしくなり、政治は乱れ、後漢は次第に衰退して行くことになる。

 外戚は、ふつう母方の親戚をいうが、今までに出てきた外戚は皇后の一族の意味で使われている。多くの場合、皇帝が亡くなり、若い(幼い)子が皇帝になった時、皇后の父あるいは兄弟(皇帝から見て、祖父・伯父・叔父)がその地位を利用して実権を握るケースが以後ますますひどくなっていく。

 宦官は後宮に仕える去勢された男子のこと。古代より西アジア・インドの後宮には多くの宦官がいた。中国でも古くは宮刑(去勢される刑)に処せられた罪人や異民族の捕虜が宦官として使われた。後に宦官が皇帝の身辺にいて、権力を握るようになると、自ら志願して手術を受けて宦官となる者も出てくる。中国史上では特に後漢と明でその弊害が激しかった。古代日本は中国から様々な文化を取り入れたが、幸いにもこの宦官の制度だけは取り入れられなかった。

 後漢では、4代和帝(10歳で即位)以来、幼少皇帝が相次いだ。5代殤帝(生後100余日)、6代安帝(13歳)、8代順帝(11歳)、9代冲帝(2歳)、10代質帝(8歳)、11代桓帝(15歳)、 12代霊帝(12歳)、14代献帝(9歳)という具合であった。

 皇帝の交替の度ごとに、外戚が権勢をふるい、外戚が排除されると宦官が権力を握った。 この間、安帝の即位の翌年に西域都護は廃止された(107)。後漢の勢力はもはや西域には及ばなくなった。

 桓帝(位146〜167)の治世の終わり頃の166年に、大秦国王安敦(ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌス)の使者と称する者が、日南(ヴェトナム中部)に到着し、入貢したことが歴史書に書かれている。

 8代順帝の皇后の梁(りょう)氏が外戚としてほぼ20年間にわたって権力を握ってきたが、桓帝の時に一族が滅ぼされ(159)、以後宦官の勢力が強まり、朝廷は宦官と宦官の推薦で役人となった者によって占められるようになった。この宦官の横暴に対して儒教学派の清廉な官僚たち(党人)が朝廷で宦官を攻撃した。しかし、逆に宦官によって逮捕され、出身地での終身禁錮を申し渡された(166)。この出来事を「党錮(とうこ)の禁」と呼ぶ。

 第2次「党錮の禁」は霊帝の時代の169年に起きた。宦官の皆殺しの計画を知った宦官は軍隊を動かして機先を制して首謀者の陳蕃(ちんばん)を襲って殺し、竇武(とうぶ)を自殺に追い込み、さらに党人100余名を殺し、600〜700名を禁錮とし、党人を支持した太学の書生(学生)1000人以上を逮捕・投獄した。

 二度にわたる「党錮の禁」によって、党人派は壊滅し、宦官全盛の時代となった。

 宦官に操られた霊帝(167〜189)の治世の184年に、ついに大農民反乱が起きた。「黄巾の乱」である。

 有名な「三国志演義」は最初の方で「この度の乱の源をただせば、およそ桓・霊二帝より始まったといえる。桓帝は正義の士を弾圧し、宦官を重用した。桓帝崩じ、霊帝即位するや、大将軍竇武・太傳陳蕃両名が相ともに輔佐に当った。折しも宦官曹節らが権力を壟断しており、竇武・陳蕃これを誅せんと謀ったが、事破れて却って殺害され、これよりして宦官はいよいよ専横をきわめることとなった。」と「党錮の禁」についてふれ、ついで張角が黄巾の乱をおこし、その討伐に劉備・関羽・張飛が立ち上がる「桃園の義」へと進んでいく。

 政治の乱れ、国家財政の窮乏は租税の増徴となって農民にかかってくる。多くの農民が土地を捨てて逃亡し、流民となっていった。彼らをとらえたのが「太平道」である。

 黄巾の乱の指導者張角は、河北省に生まれ、秘密宗教結社の「太平道」を組織した。張角は、神仙説を受けて、呪文で病人に懺悔させ、護符を沈めた水を飲ませて、病気を治すと称して信者を集めていった。太平道は生活に苦しむ河北・山東の農民の間にたちまち広まり、10年余りで数十万人の信者を集めた。

 184年、張角は河北で政府打倒を掲げて挙兵した。彼は自ら天公将軍と称し、信者を36の軍隊組織に編成し、目印に黄色の布(巾)を着けさせたので、この反乱は「黄巾の乱」と呼ばれた。張角自身はこの年に病死し、乱の中心勢力は同年末までに後漢に協力した地方豪族によって鎮圧されたが、その残党や呼応した反乱が各地で起こり、討伐に従事した諸将が各地に割拠し、後漢は崩壊に向かった。

 曹操の長子、曹丕が魏王になると、後漢最後の皇帝献帝(14代、位189〜220)は曹丕に禅譲し、曹丕は魏王朝を樹立し、14代約200年間続いた後漢は、220年についに滅亡した。  




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