6 漢の内政と外征

6 漢の内政と外征

 項羽を滅ぼして中国を統一した高祖(位202〜前195)劉邦は、最初は洛陽を、のちに長安を都として前202年に前漢王朝(前202〜後8)を開いた。高祖は秦の制度・法律をほとんどそのまま継承したが、秦が郡県制をはじめとする急激な改革によって反感を招き、短期間で滅亡したことを反省し、漸進主義をとった。

 劉邦は皇帝となるや、一族や功臣を諸侯に封じ、郡県制と封建制を併用する郡国制を採用した。すなわち直轄地(都の長安周辺をはじめ西部に多い)には郡県制をしいて、中央から官吏を派遣して統治させ、遠隔地(東部・南部に多い)には王国・侯国をつくり、一族や功臣を封じた。劉氏一族以外で王になった者は韓信など7人、列侯となった者は百余人を数えた。しかし、皇帝支配が安定してくると、高祖は一族以外の異姓の王・侯をほとんど除き、そのあとに同姓(劉氏)の者を配置していった。韓信も反逆の疑いをかけられ、王から侯に下げられ、後に捕殺された(前196)。

 当時、北方では匈奴が冒頓単于(ぼくとつぜんう、単于は匈奴の君主の称号、位前209頃〜前174)のもとで大帝国となり、かつて始皇帝の時に奪われたオルドス地方を奪回し、漢の北辺にしばしば侵入を繰り返していた。

 中国を統一して意気盛んな高祖は、自ら32万の軍を率いて匈奴討伐に向かった(前200)。匈奴はほとんど抵抗せずに退却していった。高祖は得意になり平城(現在の大同付近)の白登山まで進撃した。しかし、翌朝目を覚ました高祖は仰天した。周りは冒頓単于自ら率いた40万騎の匈奴軍によって包囲されていた。この包囲は7日間に及び、逃れられないことを知った高祖は莫大な贈り物を単于の妃に送り、単于に兵を引いてもらうように頼み込み、やっと危機から脱出し、命からがらに逃げ帰った。そして以後必ず漢の王室の娘を公主として単于に送り、毎年莫大な絹・米・酒・食糧を送ることを約束する和議を結んだ(前198)。これ以後高祖は対外的に消極策を取り、国力の充実に努め、漢王朝の基礎を築き、前195年に亡くなった。

 高祖の死後、呂后(高祖の皇后)の子の恵帝(位195〜188)が即位し、呂后は太后として政治の実権を握った。かって高祖は気の弱い恵帝を嫌い、晩年寵愛した戚夫人の子を太子に立てようとしたために、呂后は我が子の太子の地位を守るために努力し、戚夫人とその子を憎んだ。高祖が死ぬと、戚夫人を捕らえ後宮の獄に監禁し、子の趙王を毒殺し、戚夫人に対しては、手足を切り、目をくりぬき、耳を焼いた。声の出なくなる薬を飲ませ、厠(かわや)に投げ込み、人豚と名づけた。数日後、恵帝にそれを見せた、ショックを受けた恵帝は以後酒におぼれ、淫楽にふけり、政務を見ず、ついに病床につき、23歳で亡くなった。

 恵帝には子がなかったので、后に身ごもったふりをさせ、後宮の女官の子を立てた。少帝恭(位前184〜180)である。少帝恭は4年後に殺害され、かわってやはり女官の子であった少帝弘(位前180)が立てられた。

 呂后は摂政となり、呂氏一族の者を次々に王や諸侯に封じ、劉氏の一族は次々に殺され、 いまや呂氏の勢力は劉氏を圧倒するようになった。その呂后も前180年についに死んだ。 劉氏の者達は、この機会をとらえ、高祖の功臣であった陳平や周勃らと謀り、呂氏一族を全滅させ、劉邦の次男の代王劉恒を立てた。すなわち5代皇帝の文帝(位前180〜前157)である。

 文帝は在位23年、仁政にはげみ、連座制など苛酷な刑罰を廃止した。文帝は前漢の皇帝のなかで理想的な皇帝とされている。文帝の死後、景帝(位前157〜前141)が32歳で父のあとを継いだ。この景帝の時代に起きた最大の出来事が呉楚七国の乱である。

 高祖は郡国制を採用し、一族の者を各地に封じて王・侯としたが、諸王の勢力は強大で、この頃王国は16を数えていた。特に広大な領土を有する呉・楚・斉などは中央に反抗的であった。そこで景帝は諸王・諸侯の勢力を弱めるためその領土を削減する政策をとった。

 前154年、呉王(高祖の兄弟の子)の領土の2郡(銅と塩の産地)を削減することが決まった。呉王は、楚王(高祖の兄弟の孫)・趙王(高祖の孫)ほか4王に呼びかけて七国が連合して反乱を起こした。これが呉楚七国の乱である。主力の呉軍は20万で、その勢力は漢を脅かした。呉楚七国軍は長安に攻め込もうとしたが、梁王に西進をくい止められ、周亜夫(周勃の子)は呉楚軍とその本国との連絡を断つ作戦に出た。糧道を断たれた反乱軍はやむなく退却しようとしたが追撃され、呉王は途中で殺され、七国の連合はくずれ、さしもの大乱も3ヶ月で鎮圧された。乱後、有力諸王が殺されたり自殺したりした結果、諸王・諸侯の領土は細分・削減され、その勢力は著しく弱体化し、逆に中央の皇帝の権力は強大となり、中央集権化が進展していくこととなった。

 景帝は貨幣の私鋳を禁止して貨幣の鋳造権を掌握し、財政の充実に努め、次の武帝の時代に現出する前漢の全盛期の基礎を築いた。

 景帝の死後、九男の劉徹が16歳で即位した。中国史上有名な、第7代皇帝武帝(位前141〜前87)である。九男の彼が即位した背景には女の争いがあったようだがここでは省略する。

 武帝の時代には、呉楚七国の乱の平定後、諸王・諸侯の領土の削減が図られた結果、その勢力は完全に抑えられ、漢初以来の郡国制は実質的には郡県制と変わらなくなり、中央集権化が進み、漢は最盛期を迎えた。

 武帝は即位早々に賢良方正の士を推薦するよう命じた。この時推薦を受けた者のなかに儒学者の董仲舒(とうちゅうじょ、前176頃〜前104頃)がいた。彼は儒学による思想統一を進言して採用され、前136年には五経博士が置かれた。五経博士は五経(当時の儒学で重んじられた古典である「詩経」「書経」「易経」「春秋」「礼記(らいき)」をさす)を教授し、文教政策を司るために置かれた学官である。以後礼と徳を重視する儒学は統一国家を支える思想となり、官学となった。

 官吏任用についても、儒学が重んじた仁・義などの徳のある者、有能な人物を地方の長官に推薦させて任用する「郷挙里選」と呼ばれる制度を始めた。この官吏任用制は次の後漢時代にも行われたが、推薦されたのは地方の豪族(大土地所有者)の子弟がほとんどを占めた。

 武帝の名を有名にしているのは、積極的な対外政策を採り、漢の領土を拡大し、中国始まって以来の大帝国を建設したことにある。高祖以来、対外的には消極策を採り、内政を重視するなかで、呉楚七国の乱はあったが、長らく太平が続いた結果、漢の国力は充実していた。この力を対外発展・領土拡大に向けたのが武帝であった。

 武帝がまず取りかかったのが、北方から中国を脅かしていた匈奴に対する攻撃である。匈奴は前述した冒頓単于(?〜前174)が父を殺して2代目の単于となり、諸部族を統一し、さらに西は月氏、東は東胡を打ち破って遊牧民族最初の大国家を建設し、匈奴の全盛期を築いた。前200年には高祖を白登山に包囲して敗走させた。冒頓単于の後を老上単于(前174〜前160)が、その後を軍臣単于(前160〜前126)が継いだ。武帝が即位した頃の単于が軍臣単于である。

 武帝が即位した頃、匈奴の捕虜から「月氏(戦国時代には蒙古高原の西半を支配する大勢力であったが、冒頓単于に敗れて、主力は甘粛方面から追い出されて西遷し、天山山脈の北に移動し、その後さらに匈奴の攻撃を受けて西遷し、アフガニスタンの北部にあったバクトリア王国を倒して、その地に大月氏国を建てた)が匈奴に敗れ、匈奴は月氏の王の頭蓋骨で杯を作り、それで酒を飲んでいる。月氏はそのことを怨み仇としている。しかし同盟して匈奴を討とうとする国がない」ということを聞き、月氏と同盟を結び、匈奴を挟撃できると考え、月氏へ使いする者を募った。これに応募してきたのが張騫であった。

 張騫(?〜前114)は武帝からつけられた100余人の従者を連れて、前139年頃に長安を出発した。ところが張騫一行は河西(甘粛省の黄河以西の地)で匈奴に捕まり、そのまま拘留された。その間匈奴の妻をあてがわれ、子供まで産まれた。しかし、彼は武帝の命令を忘れてしまったわけではなく、すっかり匈奴の人になった思わせて油断させ、監視がゆるんだすきを見て、10余年後に妻・仲間とともに脱出した。西に走ること十数日で大宛(現在のウズベキスタン共和国のフェルガナ)にたどり着いた。ところが月氏はすでに そこからさらに西に移動していた。フェルガナ国王が付けてくれた道案内によってやっとソグディアナ地方(現在のウズベキスタン共和国のサマルカンド付近)に移住していた大月氏国にたどり着いた。張騫はその地に1年あまり留まって大月氏に漢との同盟を結ぶことを説得したが、肥沃な土地に安住していた大月氏には遠い漢と同盟して匈奴と戦う気持ちは全くなく、説得は失敗に終わった。目的を果たせぬままに帰国の途についた張騫はまたも匈奴に捕まり、拘留された。しかし、軍臣単于の死による匈奴の内紛にまぎれてかろうじて脱出し、13年ぶりに長安に帰ってきた。出発時の100余人の一行は、張騫と匈奴の妻と従者の3人になっていたと言われている。

 張騫の大旅行の目的は達成されなかったが、彼がもたらした貴重な情報によって西域(当時の中国では、中央アジア及びそれ以西の地をこう呼んだ)の事情が分かるようになり、後にシルク・ロードが開かれるきっかけとなった。

 武帝は、張騫の帰国前の前129年に衛青(?〜前106)に1万騎の兵を援けて出撃させた。 衛青は武帝の2番目の皇后衛氏の弟で才能に恵まれ武帝の寵愛を受けた。彼は長城を越えて甘粛省に攻め込み匈奴を破った。前127年にはオルドス地方を奪回し、前119年までに7度遠征軍を率いて匈奴と戦い、多くの軍功をあげた。

 衛青と並んで匈奴征討に活躍したのが、彼の甥の霍去病(かくきょへい、前140〜前117)である。霍去病は18歳で武帝に仕え、叔父の衛青の匈奴征討に従って軍功をあげた。前119年には衛青とともにそれぞれ5万の兵を率いて匈奴の本拠地を襲い、約7万の匈奴兵を斬殺した。敗れた匈奴は遠く漠北に去り、以後20年の間、漢と匈奴の大規模な衝突はなかった。しかし霍去病は前117年にわずか24歳で病死した。

 中央アジアの大宛(フェルガナ)は、汗血馬(血の汗を出すまで走る馬の意味、当時の中国の馬に比べて、背が高く大型の馬で早く走った)の産地として知られていた。張騫の報告でこのことを知った武帝は匈奴との戦いに必要なこの良馬を獲得するために李広利(?〜前90)に大宛遠征を行わせた。李広利は、武帝が寵愛した李夫人の兄で、武帝に重用された。李広利は前104年の遠征には失敗したが、前102年の遠征には成功し、目的の多くの汗血馬を得て帰国し武帝を喜ばせた。以後、中国の名産の絹と汗血馬を交換する「絹馬貿易」がシルク=ロードを利用して盛んに行われることになる。

 李広利は、前99年・前97年に匈奴遠征を行ったが失敗に終わり、前90年の第3回遠征の時に外モンゴルまで攻め入ったが敗北し、匈奴に捕えられて殺された。前99年の遠征の際、李陵は8日間にわたる単于の本隊との戦いで部下のほとんどを失い、匈奴に降った。この李陵の罪が論議されたとき、李陵を弁護して武帝の怒りをかい、宮刑(去勢される刑)を受け、出獄後執筆に専念し、名著「史記」を著したのが司馬遷(前145頃〜前86頃)である。李陵については、中島敦の名作「李陵」をぜひ読んでほしい。

 前119年、匈奴に大打撃を与えて漠北に追いやった漢は以後南方と東方に領土を拡大して行く。

 南方では、秦末の混乱に乗じて、南海郡慰(軍事の最高官)であった趙陀(ちょうだ)が南越(前203〜前111)を建国し、華南からヴェトナム北部を領有し、越族を支配していた。南越は漢に服属していたが、事実上独立国で漢の入朝の命令に従わなかった。武帝は南越の内紛に乗じて前111年に南越を滅ぼし、9郡を設置した。これにより、漢の領土はヴェトナム北部にまで及ぶようになった。

 東方の朝鮮では衛氏朝鮮(前190頃〜前108)が続いていた。この国は漢初の燕王の臣であった衛満が北朝鮮に亡命し、箕子朝鮮の王の信任を受けていたが、前190年頃に国を奪って建てた国である。漢は衛満を遼東太守の外臣として周辺の諸部族を服属させた。

 衛氏朝鮮も入朝しなかったので、前109に大軍を陸海路から送り込み、苦戦したが、前108年に衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟(げんと)郡の4郡を設置した。このうち楽浪郡は中国文化が東方へ伝播する拠点として栄え、ここを経由して中国文化が古代の日本に入ってきた。

 このようにして漢は東は朝鮮、南はヴェトナム、西は中央アジア、北は長城の北にまで及ぶ中国始まって以来の大帝国となった。しかし、この発展をもたらしたたび重なる対外遠征により、豊かであった国の財政も苦しくなった。この財政難を解決するために武帝は様々な政策を行った。

 前119年には、塩と鉄を専売とした(後に酒も専売となる)。同年、「五銖銭」(銖は重さの単位)を鋳造させ、貨幣の私鋳と物価高騰を防ごうとした。

 前115年には、均輸法が発布された。均輸法は、均輸官を郡国におき、特産物を税として強制的に貢納させ、これを不足地に転売して物価の平均を図る政策で、物価調節の名の下に国庫の収入増をねらった政策である。前110年には平準法を実施した。平準法は、物資が余り価格が下がったときに政府が購入して貯蔵しておき、物価が不足し価格が高騰したときに放出して、物価の維持を図るものだが、これも物価調節の名の下に国庫の収入増を図った政策であった。さらに売位・売官まで行ったので社会不安が増大していった。

 武帝の死後、昭帝(位前87〜前74)が8歳で即位し、若くして亡くなった霍去病の弟の霍光が政敵を倒し、摂政となり独裁権を握った。昭帝は在位13年で死去し、子がなかったので甥にあたる廃帝が跡を継いだがわずか27日で廃位され、武帝の曾孫が宣帝(10代、位前74〜前49)として即位した。宣帝は18歳で即位し、43歳で亡くなるまで25年間在位した。宣宗は賢明で民間の事情にも通じていて人望も高かった。

 当時、匈奴では内紛が起こり5人の単于が並び立った。これを統一したのが14代呼韓邪(こかんや)単于である。やがて兄も単于を称したため、兄と匈奴を東西に二分した(前54)。のち兄と戦って敗れた呼韓邪単于は南下し、宣帝に拝謁して援助を求めた(前51)。

 2年後に宣帝は亡くなり、元帝(位前49〜前33)が即位した。東匈奴の呼韓邪単于は内モンゴルで漢に服属していたが、漢と東匈奴は同盟して西匈奴を攻めて滅ぼした(前36)。喜んだ呼韓邪単于は前33年にも来朝し公主を賜り、漢と姻戚になりたいと請うた。この時、元帝が匈奴との和親を保つために呼韓邪単于に与えたのが王昭君である。

 元帝の頃、後宮には多くの宮女がいて、皇帝は全ての女を見ることが出来ないので、画工に宮女の姿を描かせ、それを見て美しい女を召した。王昭君は絶世の美女であったが、画工に賄賂を送らなかったので醜く描かれ、元帝は匈奴に与える女に王昭君を選んだ。別れに際して現れた王昭君を見て、元帝は驚き後悔したと伝えられている。王昭君は泣く泣く匈奴に嫁しその地で亡くなった。この悲話は後に多くの文学作品に取り上げられたが、特に元代に書かれた戯曲(元曲)の「漢宮秋」は有名である。

 漢では、武帝の頃から皇帝の秘書の長官(尚書令)が重用され、実権を持つようになった。それに伴い、皇帝に近侍する者が政治の実権を持つようになった。その代表が外戚と宦官である。特に年少の皇帝が即位したときや皇帝が政治に関心を持たないときなどに、そのことが顕著となる。

 元帝のあとの成帝(12代、位前33〜前7)が治世の後半に女色におぼれた頃から、元帝の后(成帝の生母)の王氏一族が外戚として権勢を持つようになり、王氏一族の10人が諸侯に封じられた。

 王莽(おうもう、前45〜後23)は、父が早く死んだので、外戚の王氏のなかでは最初は不遇であったが、その間に儒学を学び、後に実力が認められて高官となり、王氏を代表する人物になった。

 王莽は、成帝の次の哀帝が在位6年で死ぬと、9歳の平帝(前1〜後5)を立てたが、後に毒殺し、わずか2歳の孺子嬰を立てて摂政となり、事実上実権を握り、後8年に天命が下ったと称して、孺子嬰を廃して自ら皇帝の位につき、国号を「新」と称した。ここに15代、約200年間続いた劉邦以来の前漢(前202〜後8)はついに滅びた。




目次へ戻る
次へ