5 秦の統一

5 秦の統一

 中国を初めて統一したのが、中国史上最も有名な人物の一人である秦の始皇帝である。始皇帝 (姓は瀛(左の文字からさんずいをとった文字、読みはえい)、名は政)(前259〜前210)は 「戦国の七雄」の秦の第31代の王で、荘襄王の子として趙の都の邯鄲(かんたん)で生まれた。母は 邯鄲の歌妓で荘襄王の妃となる前は呂不韋(りょふい)の愛人であったため、大商人であった呂不韋が 実父であるとも言われている。

 始皇帝の父、後の荘襄王は、秦の強敵であった趙の人質として邯鄲で暮らしていた。その荘襄王に 目をつけたのが趙の豪商であった呂不韋である。彼は「奇貨居くべし」(これは掘り出し物だ、買い 入れておいたほうがよかろう)として荘襄王に取り入り、面倒を見た。二人が親しくなるなかで、 荘襄王は呂不韋の最愛の歌妓を一目見て気に入りゆずってくれと言い出した。呂不韋は内心では怒ったが、 せっかくここまで投資したのだからと考えて譲った。このときすでに歌妓は身ごもっていたのを隠して 嫁いだ。そして生まれたのが後の始皇帝だと言われている。

 呂不韋は荘襄王を趙から脱出させ、秦に帰国させるために、様々な工作を行い大金を使った。 帰国後、太子となった荘襄王は父の死後秦王となった(前250)。即位した彼は呂不韋を宰相に 任命し、洛陽の地に10万戸を与えた。  

 荘襄王は在位3年にして亡くなり、太子の政が秦王となった(前247)。まだ13歳であった ために政治は母の太后と呂不韋にまかされた。政は親政を始めた翌年(前238)に呂不韋の職を 免じ都を追放し、さらに流罪の刑に処した。追いつめられた呂不韋はついに自殺した(前235)。 この間、秦はますます東方に進出し、ついに韓を滅ぼした(前230)。ついで魏(前225)、楚 (前223)、趙・燕(前222)を滅ぼし、翌前221年には最後まで残った斉を滅ぼし、ついに 中国を統一した。

 中国を統一した秦王の政は、王の称号をやめ皇帝(伝説上の三皇五帝の徳を兼備するの意味)と 称し、自らは始皇帝(位前221〜前210)と称した。

 大帝国の統治にあたっては、丞相の李斯(?〜前210、法家の思想家としても有名)の意見を 入れて、統一前から秦で行われていた郡県制を実施した。すなわち、全土を直轄地とし、全国を36郡 (のち48郡)に分け、郡の下に数十の県(1つの県は約1万戸)を置き、皇帝に任命された官吏を 中央から派遣して統治させた。

 中央官制、地方行政については、中央に丞相(最高行政官、行政全般を統括する)、大尉(軍事を 統括する最高官)、御史大夫(ぎょしたいふ、官吏の監察を行う最高官)を置き、郡には守(民政を 担当)と尉(軍事を担当)を置いた。

 また今まで7つの国に分かれていたため、国によって異なっていた度量衡の統一など、中国を 一つにまとめるために様々な統一事業を行った。まず度量衡を統一し、国が定めた量(ます)や権 (おもり、分銅)を全国にくばった。ついで車軌を統一した。車が通ったなとに溝が出来、幅が違うと 通りにくいので車輪の幅を同じにしたのである。文字も秦の書体である篆書(てんしょ)に統一された。 貨幣も刀貨・布貨など国・地域によって異なる貨幣が使われていたが、始皇帝は円形で四角の穴の あいた半両銭(重さが半両であった)に統一した。この円形で四角の穴のあいた半両銭が後世まで 貨幣の基本の形となる。

 また民間の武器を没収し、天下の富豪12万戸を都の咸陽(現在の西安郊外)に強制的に移住 させ、都の繁栄を図った。

 始皇帝は国内の制度を整えると領土の拡大をはかり、外征に乗り出した。中国の北に広がる モンゴル高原には、古くから遊牧民族が住みつき遊牧と狩猟の生活を営んでいた。

 中国の戦国時代の頃から、蒙古高原で活躍したのが匈奴である。匈奴はトルコ系またはモンゴル系 といわれる遊牧民族で、戦国以来中国に侵入し、巧みな騎馬戦術で中国を脅かしてきた。戦国時代の 末期には盛んに南下し、趙が築いていた長城を突破し、黄河の南のオルドス地方を占領した。このオルドス 地方を奪回するために、始皇帝は名将の蒙恬(もうてん)に30万人の軍を授けて匈奴を討たせた(前215)。

 そして匈奴の侵入に備えて有名な「万里の長城」を築かせた。長城はすでに戦国時代に趙や燕 などで築かれていたが、始皇帝はそれを修築・連結して築いたといわれている。西は甘粛から東は 遼東に及んだ。現在私たちが見ることの出来るそれは明の時代の15・16世紀に修復されたもので、 秦のそれよりかなり南にある。世界史の教員でありながら外国へ行ったことのなかった私は1995年に 初めて中国に旅行し、八達嶺の万里の長城に登った。初めて見たときの感激はいまだに覚えている。 八達嶺のそれは煉瓦造の堂々たるものだったが、秦代のそれはもっと簡単な土塁であった。騎馬民族で ある匈奴の侵入に備えるには、馬が飛び越せない程度のものであればそれでよかったのである。実際に 登ってみて感じたのは写真で見るよりはるかに傾斜が急であるということで、この強制労働に狩り 出された人々のつらさが少し分かるような気がした。

 南方遠征も行われた。漢民族は当時、長江流域まで居住地域を拡大していたが、長江流域から南、 現在の浙江省・広東省・広西省からヴェトナムにいたる地域には「越」と呼ばれる民族が住んでいた。 戦国時代の越も彼らが建てた国と考えられている。現在の華南からヴェトナム北部は、当時「南越」と 呼ばれていた。ちなみにヴェトナムは漢字では「越南」と書かれていた。50万人と称する大軍が 南越に攻め込み、その地を征服した(前214)。始皇帝はこの地に南海(現在の広東)・桂林・象郡 (この位置についてはいくつかの説がある)の3郡を設置した。

 今や秦の領土は、殷や周の時代に比べると比較にならないほどに拡大し、漢民族の居住の範囲も 広まった。この中国最初の統一王朝であり、巨大な帝国となった秦(Chin)が中国の代名詞となり、 その音が周辺民族に伝わり、シナ(支那)あるいは英語のChinaの語源となった。

 始皇帝は、丞相李斯の建策をいれ、有名な「焚書・坑儒」と呼ばれる思想言論統制を行った。 前213年に「焚書」、すなわち医薬・卜筮(ぼくぜい、占い)・農業などの実用書を除く全ての 書物を焼き捨てた。儒学者が封建制度復活論を説いたのがきっかけとなったといわれている。これに よって秦以前の貴重な古書の多くが失われてしまった。

 ついで翌年には「坑儒」が行われた。多くの 儒学者が捕らえられ、そのうちの460人が大きな穴に生き埋めにされて殺された出来事である。 始皇帝が不老長生の薬を求めて東海に探索隊を送ったが、もちろん見つかるはずがなく、失敗に 終わった儒学者が始皇帝の悪口を言い触らしたことがきっかけとなったという話しが伝えられている。

 上に述べてきたようなことが、統一後のわずか10年程の間に行われてきたのである。その あまりにも急激な改革に対する保守派の人々の反感、またたび重なる外征や大土木事業に動員された 人々の反発が強まるのは当然のことであった。

 大土木事業としては、まず万里の長城があげられるが、そのほかにも六国平定後に始まり未完成に 終わった阿房宮の建設がある。阿房宮は、東西700メートル、南北150メートルで、1万人を 収容できる壮大な宮殿であったといわれ、70万人の囚人が働かされたといわれている。秦の滅亡後、 項羽によって焼き払われたが、燃えるのに3ヶ月もかかったと伝えられている。さらに始皇帝陵 (当時は生前から自分の墓を造る習慣があった)の地下墳墓は死後も生前と同じ生活が送れるように 造られ、地上の陵墓は高さ76メートル、周囲2キロメートルに及ぶといわれ、やはり70万人の 囚人が動員されたといわれている。

 さらにその始皇帝陵の東方の地下に、死後の始皇帝を守る秦の 大軍団が7000余体の実物大の陶製の人馬像(俑、よう)で再現されていた。これが1974年に、 付近の農民が畑の中に井戸を掘っていて偶然に発見し、世界的に有名となった「兵馬俑」である。 「兵馬俑」も幸いに実物を見たが、巨大なドームに入場し多くの俑の前に立ったときの震えるような 興奮もいまだに忘れることができない。

 始皇帝は、前210年に5回目の行幸を行ったが、江南地方をまわり、北上して山東に至って 急病で亡くなった(50才)。李斯は反乱をおそれ、死を隠し、首都咸陽に着いて初めて喪を発した。 その間宦官の趙高は詔書を書き換え、賢明であった長男の扶蘇(ふそ)を自殺に追いこみ、以前から 親しくしていた凡庸な弟の胡亥(こがい)を太子とした。こうして即位したのが二世皇帝である。 二世皇帝は趙高の言うままに、蒙恬を自殺に追いやり、李斯を腰斬の刑に処し、趙高を宰相とした(前207)。

 始皇帝の死後まもなく各地で反乱が起きた。その中で有名なのが「陳勝・呉広の乱」(前209 〜208)である。陳勝も呉広も、ともに河南省の日傭百姓であったが、万里の長城の工事に徴発され、 北に向かう途中で大雨にあい道が通れず、決められた期限までにはとうてい間に合わなくなった。 当時の秦の厳しい法では期限に遅れれば斬罪である。このまま行っても殺される、逃げても見つけ 次第殺される。同じ死ぬなら大きな事をやって死のうと反乱を起こすことを決意し、引率の秦の軍人を 殺し、反乱に踏み切った。

 そのとき陳勝が同じ立場の仲間を集めて言った言葉が「王侯将相いずくんぞ 種あらんや」である。王も諸侯も、将軍も丞相も別種の者ではない(血筋に別はない)、俺たちだって 時を得ればなれるんだの意味で生まれを問題にしない戦国時代の下剋上の実力主義の風潮を示す言葉で あるとも、平等主義を示す言葉であるとも解釈されている。陳勝・呉広らは、楚の最後の都であった 陳を目指したが、そこへ着く頃には秦の政治に反発を抱く人々が加わり数万の大軍にふくれあがって いた。そこで陳勝は王位についた。一時は反乱に加わるもの数10万に達したが、統制のとれてない 寄せ集めの軍は秦軍の反撃にあって敗れ、陳勝を見限るものが続出する中で呉広は軍中で殺され、 陳勝は乱軍のなかで死んで、反乱は6ヶ月で鎮圧された。

 中国最初の大規模な農民反乱であった陳勝・呉広の乱は鎮圧されたが、この反乱をきっかけに して秦に対する反対勢力は各地で立ち上がっていた。その中でもっとも大きな勢力であったのが項羽と 劉邦の軍であった。

 項羽と劉邦の抗争は中国史上最も有名な出来事の一つであり、司馬遷の「史記」のなかでも最も 劇的なところである。高等学校で学ぶ漢文のなかでも「鴻門の会」「四面楚歌」は最も印象に残る 名文中の名文と言っても過言ではないと思う。項羽と劉邦については、司馬遼太郎氏をはじめ多くの 人が優れた作品を書かれているのでぜひ読んでいただきたい。ここでは概略をたどっていきたい。

 項羽(前232〜前202)は、代々楚の将軍の家に生まれた。彼の祖父は秦軍と戦って戦死 している。秦の時代になって叔父の項梁とともに呉(蘇州)に住んでいたが、陳勝の挙兵を聞いて 挙兵し(前209)、8000の楚兵を率いて北上し、山東に至って陳勝の死を知った。項梁は楚を 再興し、西に進んで大いに秦軍を破ったが、増強された秦軍に不意を打たれて敗死した。項梁の死後、 楚の懐王は諸将を集めて「最初に咸陽(秦の都)に入った者が王たるべし」との約束をさせた。 項梁のあとを受け継いだ項羽は、全軍を率いて北方に向かい、函谷関(かんこくかん、河南省の北西部に あり東の中原と西の関中とを結ぶ要衝で、秦はここに関を設けた)から関中へ入ろうとしたが、この方面で 秦の主力軍を相手に激戦を重ねながら進撃することになり、劉邦に先を越されることとなる。

 劉邦(前247〜前195)は、江蘇省の沛(はい)の中流の農家に生まれた。若いときは ほとんど家の仕事はせず、遊侠の徒と交わり、壮年になって沛県の亭長という下級の役人となった。 公道の宿舎を管理し、その近辺の警察のような仕事をするのが役目であった。前209年、陳勝の 挙兵の知らせが沛の町にも伝わって、町は動揺していた。県の役人であった蕭何(しょうか)が劉邦を 役所に招いた。劉邦が100人ほどの手下を引き連れて役所へ行くと、沛の人々は県令(県の行政の長、 秦の役人)を殺して劉邦を迎え入れ、彼を沛公(県令の尊称)に立てた。以後、劉邦は沛公と呼ばれる。 やがて沛の若い男子が集められて数千の軍ができたので、その兵をもって周辺の地域を攻略していった。 この時期、名参謀の張良も加わり、劉邦軍は次第に勢力を拡大して行き、項梁が諸将を招いたのに 応じてその軍に加わった。そして項梁の死後、項羽と競いながら秦の都を目指した。

 項羽が秦の主力軍を相手に戦い進撃が遅れたのに対し、劉邦は南を進み裏口の武関をねらい、 項羽よりも先にしかも楽に関中に入った。秦ではその直前に二世皇帝が殺され、三世皇帝が即位して いたが、劉邦に降伏してきた。前206年、秦は滅亡した。

 都に入った劉邦は三世皇帝の命を助け、軍には略奪を禁じ、秦の財宝には封印し、主だった者を 集めて次のように言い渡した。「法は三章のみとする。人を殺した者は死刑、人を傷つけた者は罪せられ、 物を盗んだ者は罰せられる」。今までの秦の刑罰はとても厳しかったので人々は安心し喜んだ。

 劉邦が都に入って2ヶ月ほど遅れて、項羽はようやく函谷関に達した。関の門は固く閉ざされて おり、劉邦はすでに都に入ったことを聞き大いに怒り、函谷関を破って関中に入り、鴻門に陣をひいた。 項羽の部下の范増が劉邦を殺すように進言した。そこで鴻門で宴会を開いて暗殺する計画が立てられた。 劉邦は百余騎を従えて鴻門に入り、項羽に敵対する気持ちのないことを釈明した。その後酒宴が開かれるが、 このときの様子を実にリアルに書いているのが前述した司馬遷の「史記」の「鴻門の会」である。 なかでも樊かい(はんかい)の行動を描いた場面は圧巻である。結局、劉邦は途中で退席して逃げ帰り、 命拾いをした。

 項羽は数日後、咸陽に入り、三世皇帝(子嬰)を殺し、阿房宮を焼き払った。阿房宮は3か月に わたって燃え続けたと言われている。さらに秦の財宝を略奪して、東に帰り、彭城(後の徐州)を 都とし、西楚の王となった。

 先に都に入った劉邦であったが、当時の兵力は項羽の40万人に対して10万人では如何とも しがたく、項羽が一時覇権を握り、劉邦は巴蜀(四川省)と漢中の地を与えられ、漢中王に封じられた。

 覇権を握った項羽であったが、狭量な性格が災いし、評判は悪く、不人気であった。彼に対する 不満は日に日に高まり、その一方で度量の広い劉邦の人気はますます高まった。後に劉邦の危機を 救い、項羽との戦いに大活躍する有名な韓信もこの時期に項羽を見限り、劉邦陣営に加わっている。

 劉邦が漢中王になって5年後、項羽に対する反乱が起こった。その機をとらえて劉邦も挙兵した。 関中に出撃し、函谷関を越えて、半年で洛陽に達して、項羽が東方に遠征しているすきをねらって 本拠地の彭城を突いた。しかし、項羽はすぐさま取って返し、劉邦軍を破った。以後2年あまりの 戦いでは項羽は常に優勢を保ったが、項羽の優勢をみて項羽側についた魏・趙・斉を次々に破り、 劉邦の危機を救ったのが韓信であった。

 前202年、劉邦はついに項羽軍を垓下(がいか)に追い詰めて取り囲んだ。項羽軍10万人、 劉邦軍30万人、主力は韓信が率いた。以下、「史記」の「四面楚歌」の名場面になる。「四面楚歌」 は周りがすべて敵で孤立無援の状態を表す言葉としてよく使われる。垓下を取り囲んだ劉邦軍から 聞こえてくるのは楚の歌ばかりだった、項羽は驚き、漢はすでに楚の地をすべて取ったのか、何と 楚人の多いことよといい、帳のなかで酒を飲み、虞美人(項羽の寵姫)に舞うよう命じて、歌を 読んだ。「力は山を抜き、気は世を蓋(おお)う、時に利あらず、騅(すい、愛馬の名)逝(ゆ)かず、 騅の逝かざるは奈何(いかん)すべき、虞や、虞やなんじを奈何せん」。ちなみに虞美人草はひなげしである。

 項羽は夜陰にまぎれて脱出した。800余騎が従った。ついに長江の北の烏口に達した。わずか 26騎になっていた。烏口の亭長が江東(長江下流の南)に逃げて再起をはかれと勧めたのに対し、 「かって自分は江東の子弟8000人とともに渡った。今は一人も帰る者がいない、たとえ江東の 父兄が自分を憐んで王にしてくれても、自分は何の面目あって見(まみ)えん」と言って、追っ手の 中に討ち入り、最後は自分で首を切って死んだ。

 劉邦は、中国を再び統一し、前202年に漢(前漢)王朝を開き、のちに長安(現在の西安)を 都とした。中国史上、農民出身で皇帝になったのは、劉邦と明の太祖(朱元璋)の二人だけである。




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