4 古典思想の開花

4 古典思想の開花

 春秋末から戦国時代にかけて、中国社会は大きく変化した。そのなかで古い秩序は崩壊し、 新しい時代にあった秩序・思想が求められてくる。また諸侯は各国の富国強兵をはかり、有能な人材を 求めた。さらに実力主義の風潮が広まる中で、多くの思想家・学派が現れ、多くの書物が書かれた。 これらを総称して「諸子百家」と呼ぶ。諸子の子は一家の学説を立てた人の尊称で先生の意味である。 男子の尊称として使用され、日本にも取り入れられた。小野妹子(初めての遣隋使として有名)などは この例である。但し、日本では後に女子の名前に使われるようになった。最近は少なくなったが以前は ほとんどの女子の名前に使用されていた。いつ頃からどのような理由でそうなったかは勉強不足で分からない。 百家の百は多いの意味、家は学派の意味に理解している。諸子百家のなかで特に重要なのが儒家・墨家・ 道家・法家の4つの学派である。

 諸子百家の中で、以後の中国のみならず、朝鮮・日本などの東アジアの歴史に大きな影響を 及ばしたのが儒家である。儒家は有名な孔子を祖とする徳治主義に立つ学派である。

 孔子(前551頃〜前479)は、春秋末の魯(周公の子孫が封じられた国)の曲阜の人である。 孔子は魯の国の祖先である周公旦を理想の人物として尊敬し、魯に伝わる周の制度・文物を学び、 周公がつくった周の制度を復興し、周の礼に帰ることで当時の混乱の世を救おうとした。54歳の時魯の 司寇(司法をつかさどる大臣)となり、国制改革に取り組むが豪族の反対によって失敗に終わり、 前497年頃に衛・陳・蔡・楚などの諸国を巡遊したが、孔子の政治理念は理解されず、実現を断念して 帰国し、以後は弟子の教育と古典の整理に専念した。

 孔子は混乱した社会秩序(礼)を回復するために周の礼に帰ることが必要であり、そのためには 個人の道徳(仁)の修養が必要であると考えた。そして、「修身・斉家・治国・平天下」(天下を 治めるには、まず自分の身を修め、家庭を平和にし、国を治めれば、天下は治まるの意味)を説いた。 平和な天下を実現するもとは、一人一人が身を修め、立派な人間になること、そして「修身」とは、 「仁」という徳を身につけることだと説いた。

 有名な「論語」は、弟子達が孔子の言行を記録した書物である。その中にも「仁」という言葉が 盛んに使われているが、孔子は弟子の質問に対して様々な言葉で説明している。あるところでは 「忠恕」と言う言葉で、また「孝悌」と言う言葉で説明している。忠恕はまごころと思いやりの心、 孝は親孝行、悌は兄または年上の人につかえて従順なこと。つまり、親孝行をし、兄弟仲良くし、 思いやりの心を持つことが仁の徳のもとだということで、一人一人が仁の徳を身につければ、その 集まりである家庭はうまくいく、そうすれば家庭の集まりである国が、そして天下がうまく治まると 説いた。

 孔子の考えは、徳をもって天下を治めるという徳治主義であるが、春秋末から戦国時代と いう軍事力で覇権を握ろうと考えている諸侯に受け入れられなかった。 孔子の弟子は3000人と言われている、これはもちろん誇張であるが、多くの弟子達によって 孔子の思想は受け継がれていった。孔子の弟子の曾子は、その学を子思(孔子の孫)に伝えた。

 その子思の門人に学んだのが、孔子の教えを継承して大成したとされる孟子(前372頃〜前289頃) である。孟子が幼少の頃、厳格な母のしつけを受けたという話は有名である。墓の近くに住んでいた とき、孟子が葬式ごっこばかりして遊ぶので、母親は市場の近くに引っ越した。ところが今度は 商人のまねばかりして遊ぶので、再び引っ越しをし、今度は学校の近くに住んだところ、孟子は熱心に 勉強するようになったという。これが有名な「孟母三遷」の教えである。

 子思の門人に学んだ後、梁・斉・宋などの諸国を遊説し、王道政治を説いたが受け入れられず、晩年は隠退して弟子と政治や人間について問答した。その言行を集めたのが四書の一つの「孟子」である。

 孟子は、人間は誰でも他人の悲しみを見過ごすことの出来ない同情心(人に忍びざるの心)を 持っている、よちよち歩きの子供が井戸に落ちそうになっているのをみたら誰でも助けるであろう、 つまり全ての人間は生まれつきよい心を持って生まれてきていると説く。これが有名な孟子の性善説で ある。そして生まれつき持っている人に忍びざるの心(惻隠の心)、羞恥の心(羞悪の心)、謙遜の 感情(辞譲の心)、善悪を判断する心(是非の心)は、それぞれ仁、義、礼、智の徳のもとである (この思想は四端説と呼ばれる)とし、特に仁・義の徳を重視した。

 孟子は上の思想を発展させ、仁・義の徳を備えた立派な人物が支配者となって政治を行なえば 理想的な政治が実現できるという「王道政治」を唱えた。そして天子(天帝の子の意味、皇帝)は、 天帝(中国人は天帝がこの宇宙を支配していると考えた)の命令によって天下を治めているが、もし その支配者が徳を失えば、別の徳を備えた立派な人物(有徳者)が天命を受けて新しい王朝を開くと いう「易姓革命」の思想を唱えた。

 私たちがよく使う「革命」という言葉はここに由来している。革命は命(天命)が革(あらたまる) の意味である。「易姓」は姓が易(かわる)の意味で、王朝の交替によって支配者(皇帝)の姓が 変わることを意味している。孟子が活躍したのは戦国時代の中頃にあたり、「王道政治」という徳治 主義の思想は当時の諸侯に受け入れられるはずがなかった。しかし、「易姓革命」の思想は以後の 中国の歴史の中で大きな役割を果たすことになる。

 戦国の末期の荀子(前298頃〜前235)は趙の国に生まれ学問修業を続け50歳過ぎて初めて遊説し 斉に仕えた、後には楚に仕えた。荀子は孔子の説を継承したが、孟子の性善説に反対して性悪説を唱えた。 「人の性は悪にしてその善なる者は偽なり(人の生まれつきは悪で、善は後からの作為的な矯正に よるものだ)」と述べ、人間は生まれつき自分の利益を追求する傾向がある、また嫉(ねた)んだり 憎んだりする傾向がある、だからそのままにしておくと必ず争い・奪い合うことになり、世の中は混乱に 陥ると主張した。

 だから礼による教化が必要であり、礼によって社会秩序や道徳を維持し、混乱した 社会を再建しないといけないと説いた。荀子が強調する礼は法に近いものを言っており、法家の思想に 大きな影響を及ぼしている。法家の代表的な思想家である韓非・李斯は荀子の門下である。 

 儒家の思想を批判し、儒家から攻撃された墨子(前480頃〜前390頃)を祖とする学派が墨家である。 墨子も孔子と同じ魯の国に生まれた。彼も最初は儒家の思想を学んだが満足せず、儒家を去って一派を 開いた。墨家の墨は入れ墨の意味である。古くは入れ墨は刑罰の1つで徒刑者は顔に入れ墨された。 墨家の思想に勤倹節約がある。彼らはぼろをまとい、夜も昼も休まずに働いた。その有様が徒刑者の ような暮らしだと言うことで墨家と呼ばれるようになったと言われている。墨家の思想の中で特に注目 されるのが「兼愛」と「非攻」である。

 墨子は儒家の仁愛は家族愛であり、自分の親や兄弟に向けられる愛であり、不徹底な愛であり、 差別愛であると批判し、家族愛を越える無差別平等の愛を説いた。これが兼愛である。そして「我が 身を愛するように他人を愛し、我が家を愛するように他家を愛し、我が国を愛するように他国を愛して いけば、世界は平和になる」と説いた。

 兼愛思想は、当然のことながら、国家間の戦争を否定する反戦思想に発展していく。人間を 人間として愛していくと言う兼愛を否定し、人間が人間を殺し合うのが戦争である。一人の人間を 殺しても死刑になるのに、戦争では何千人・何万人と殺して賞賛される、戦争は罪悪だと主張する。 但し、墨子は戦争に反対したが、防御の戦争・自衛のための戦争はやむを得ないものとし、そのための 軍備も認めた。つまり自分の方からは絶対に戦争を仕掛けない、それを「非攻」と名付けた。

 当時にあっては異端とも言うべき、特徴ある思想を展開した墨家は孟子の頃にはとても盛んで あったが、支配者にとっては都合の悪い思想であったなどの理由からか、秦・漢以後は全く衰微して しまった。

 道家は老子を祖とする学派である。老子については孔子と同時代の人と考えられているが実在を 疑う説もある。老子は儒家や墨家の説を人為的な虚礼を説くものとして否定した。

 「大道廃れて仁義有り」(本当の大道がすたれると仁とか義とかがとりざたされる)、「六親和せず して孝慈あり」(親子・兄弟・夫婦の六親の間に不和が生じてくると、初めて親孝行とか慈愛とかが とりざたされる)「国家昏乱して忠臣あり」などの有名な言葉でこのことを述べている。

 老子は孔子のいう親孝行だとか墨子のいう兼愛など人間として当たり前のことではないか、 それをわざわざ「仁」とか「孝」とかと騒ぎ立てることはない、それらはすべてわざとらしい、 人為的なものであるとして否定したのである。

 老子は宇宙の根源・宇宙を動かす力を道と呼んだ。道は知性や感覚ではとらえることの出来ない ものであるとして無とも呼んだ。私たち人間はこの道=無の前ではまったく無力である。だから何事に もこざかしい人為・作為をろうせず、偉大な・絶対的な道に逆らわず、素直に従っていきること、 このことを「無為自然」と言う言葉で表し、これこそが人間の理想的な生き方であると考えた。そして 柔和でへりくだり、人と争わない心を持った少数の人々が住む小国家、「小国寡民」こそが理想の 社会であると考えた。

 老子の思想を継承発展させ、道家の思想を確立したのが荘子(前4世紀頃)である。荘子は宇宙を 動かす偉大な力である道は比喩で直感的にとらえるしかないと考えた。「北の冥(うみ)の魚、名は 鯤(こん)、鯤の大きさ幾千里かはかり知れぬ。変じて鳥となる。名を鵬(ほう)という。鵬の背中は 幾千里かはかり知れぬ。」は荘子の著書の「荘子」の中の有名な一説で、かっての大横綱「大鵬」の 名はここから取られている。

 さらに荘子は道は絶対・無差別であると説き、自然のままの世界ではいっさいの対立・差別が なく、すべてが同一であると説いた。「荘子がある時、夢の中で胡蝶となり、楽しく飛び回った。 そして夢から覚めたとき、荘子が夢の中で胡蝶になったのか、胡蝶が夢の中で荘子になったのか分から なくなった」という有名な「胡蝶の夢」でこのことを比喩的に説いている。そしていっさいの欲望や 知から自由になり、無心・無我となり、自然と一体になることが理想的な生き方である説いた。

 道家の思想は老子と荘子の名前を取って老荘思想とも呼ばれ、後に神仙思想や様々な民間信仰と 融合して道教となり、民衆の中に深く浸透し、中国人の思想に大きな影響を及ぼしていくことになる。

 法家は他の学派が説く礼とか道徳は、実際に国家を統治していく上では無力であると考え、法を 重んじ信賞必罰に基づき、君主に権力を集中して国家を統治して行くことを説いた学派である。管仲を 祖とし、秦で改革を行った商鞅や韓非(韓非子)(?〜前233)、李斯らが有名である。

 法家思想を大成したと言われるのが韓非である。彼は韓の王族として生まれ、李斯とともに 荀子に学んだ。韓ではしばしば王を諫めたが用いられず、学問に打ち込み「韓非子」(55編)を 著した。後に秦に使いし、李斯に計られて自殺した。彼は乱世にあっては仁義礼智などの徳では支配で きない、法律や刑罰を重視し、それによって悪人を取り締まらないと世の中は治まらないと主張した。 法家思想は秦の始皇帝に採用され、李斯は宰相として秦の統一事業を実施していくこととなる。

 この儒家・墨家・道家・法家のほかにも多くの学派が現れた。

 兵家は用兵や戦術を説いた。孫子・呉子などが有名である。孫子は呉の闔閭・夫差に仕えた。 「彼を知り己を知れば、百戦殆(あや)うからず」とか「其の疾(はや)きこと風の如く、其の徐 (しず)かなること林の如く、侵掠は火の如く、動かざること山の如し」などの言葉はよく知られている。 後者の言葉から取った「風林火山」は武田信玄が旗印に掲げた言葉として有名である。

 前述した合従策を唱えた蘇秦と連衡策を説いた張儀に代表される外交策を講じた人々は総称して 縦横家と呼ばれる。

 農家の許行は、君主も民も平等に農耕に従事し、勤労により天下平等であるべきことを説いたが、 この平等思想は彼の死後消滅してしまった。

 公孫竜に代表される名家は、名(言葉)と実(実体)の関係を明らかにしようとする論理学派で、 原初的な弁論術や論理思想がみられるが、後には言葉の概念にとらわれ、「白馬は馬にあらず」 (白い馬は白い馬であって馬とは違うの意味)などの詭弁に陥った。

 陰陽家は陰陽五行説を説く派であるり、鄒衍(すうえん)は陰陽説と五行説を集大成した代表的な 陰陽家とされる。陰陽説は自然及び社会のあらゆる現象を陰と陽で説明する説であり、五行説は木・火 ・土・金・水の運行によって万物の変化を説明する説である。

 陰陽家は天文・暦学に通じ、天体の運行によって起きる現象と人間生活の関係を結びつけて 説明しようとしたので迷信や禁忌とも結びついた。特に陰陽五行説は、後世まで中国人の生活・思考に 溶け込んで大きな影響を及ぼすことになる。

 この時代には「詩経」や「楚辞」などの文学作品もまとめられた。

 「詩経」は中国最古の詩集で、後にいわゆる「五経」のひとつとされる。地方の民謡や周の祭祀 ・儀式の歌などから成り、主に黄河流域の歌が集められている。

 戦国時代の楚の王族であった屈原(前340〜前278)は王のもとで内政・外交に活躍していたが 讒言によって退けられ、都を追放された。流浪のうちに祖国の滅亡を前に投身溺死したといわれ、 詩人としても有名だが、この屈原らの詩を集めたのが「楚辞」である。




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