3 春秋戦国と鉄器の普及

3 春秋戦国と鉄器の普及

 東周の前半にあたる春秋時代(前770年〜前403年)には、西周時代の封建制度が崩れて周王室の勢力が衰え、実力のある諸侯が互いに争う時代となった。春秋時代の「春秋」は、有名な孔子の書物の名前から来ている。「春秋」は孔子の生国である魯の国の前722年から前481年に至る歴史を書いた書物で、その扱っている時代がほぼ春秋時代と同じであるところから、この時代を春秋時代と呼んだ。

 春秋時代の初めには約200余りの国(小さな都市国家も含む)があったといわれるが、次第に有力な国に併合され、40〜50余りの諸侯国にまとめられていく。このうち特に有力な諸侯を覇者と呼ぶ。春秋時代には周王室の権威は衰えたとはいえ、まだ王として尊ばれていたので、有力諸侯は「尊皇攘夷」(周王室を尊び、周辺の異民族(夷)を討ちはらうの意味)を唱えて諸侯の同盟を指導して秩序を維持し、中原(黄河中・下流域)の支配をめぐって争った。

 覇者のうち代表的な五人は「春秋の五覇」と呼ばれる。誰々を五覇とするかについては諸説あるが、一般的には斉の桓公(位前685〜前643)、晋の文公(位前636〜前628)、楚の荘王(位前613〜前591)、呉王闔閭(こうりょ)(位前514〜前496)、越王勾践(位前496〜前465)をいい、呉と越を除いて秦の穆公(位前659〜前621)と宋の襄公(位前651〜前637)とする説もあり、楚の荘王にかえて呉王夫差(位前495〜前473)とする説もある。

 初めて覇者となったのは斉の桓公である。斉は中原から離れた東方の山東省近くにあったが、斉の国力を発展させたのが桓公を補佐した名宰相として有名な管仲である。彼は商工業を保護奨励するなどの富国強兵策をとって斉の国力を充実させた。桓公は中国の西北部に住む異民族の侵入から中原を守り、また南方の楚の北上阻止に努め覇者となった。しかし、桓公の死後、斉は内乱のため衰えていった。

 斉にかわって盟主となったのが山西省を本拠とした晋である。晋は武王(周の初代の王)の子が建てた国で前7世紀前半頃から強力となった。しかし、後継者の相続をめぐる内乱が絶えず起きていた。文公も公子のときこの内乱を避けて腹心の部下とともに19年間も諸国を渡り歩き、秦の援助のもとにやっと帰国し、62歳で即位した。そして前632年に中原に侵入してきた楚軍を城濮の戦いで撃破し、覇者となった。

 春秋時代の中期以後は晋を中心とする北方と楚を中心とする南方の国々の対立・抗争という様相を呈してくる。 中国文明はもちろん黄河流域から興り、殷から周の初め頃までは漢民族の勢力範囲はほぼ黄河流域に限られていた。

 漢民族が長江流域に進出し、長江流域が中国民族の文化的領域に入ってくるのが春秋時代からである。楚は古くから蛮夷の国とされ、楚の人々は中原の人々とは風俗習慣を異にしていたし、後に出てくる越を建てた越人は入れ墨・断髪の風習があり、当時華南からヴェトナムに分布していた南方系民族の一派であった。春秋時代は中国文化圏が長江流域を含む南方に拡大していった時代でもあった。

 前述した蛮夷の国で長江の中流域を本拠とした楚は、前632年に城濮の戦いで敗れたが荘王(位前613〜前591)の時代に再び中原に進出して洛陽に入り、前597年に 晋を破り、荘王は覇者となった。

 楚と晋の対立はその後も続いたが、勝敗はつかず、前545年に和議を結んだ。その頃長江下流域の江蘇省の蘇州を中心にまず呉が興り、次いで浙江省の紹興を中心に越が興った。呉王闔閭(位前514〜前496)は、前506年に覇者となったが、越王勾践との戦いに敗れ、臨終の床に子の夫差を呼んで「 勾践がお前の父を殺したことを忘れるな」と言い残して亡くなった。夫差は毎夜、薪の中に臥し復讐を誓った。そして2年目に越に攻め込んで越軍をうち破った。

 勾践は降伏し、西施(中国四大美人の一人)を夫差にさしだし、属国となることを誓った。このとき夫差の謀臣であった伍子胥(ごししょ)は 勾践を滅ぼすよう進言したが、夫差は聞き入れずその降伏を許した。許された勾践は座右に胆をおき、座ったり、寝る度ににがい胆を嘗めて夫差に対する復讐を誓った。そして夫差が中原に出て晋と覇を争っている隙をついて蘇州を攻めた。 そして知らせを聞いて急遽帰国してきた夫差の軍勢をうち破った。敗れた夫差は自殺した。

 これが有名な「臥薪嘗胆」(復讐の志を抱いて長い間艱難辛苦することの意味)の復讐の物語である。また呉と越の抗争にからんで「呉越同舟」という言葉も生まれ、現在もよく使われている。

 呉を滅ぼした越王勾践は勢いに乗じて中原に進出して春秋時代最後の覇者となった。呉と越の激しい抗争は、次第に実力抗争の時代になったことを示している。時代は戦国時代へと変わっていく。

戦国時代がいつからかについても諸説があるが、一般的には春秋時代の強国であった晋の六卿(六つの大臣の家)であった韓氏、魏氏、趙氏が晋を3分して自立し、周王室から正式に諸侯として認められた前403年から前221年までを戦国時代と呼んでいる。戦国の名称は「戦国策」という書物に書かれている時代と言うことに由来している。

 戦国時代になると、春秋時代までは衰えたとはいえまだ尊ばれていた周王室は全く有名無実化し、周辺の諸侯が強大化し、彼らは公然と王と称して、覇権をめぐって抗争するようになった。各国は自国の領土の拡大を目指して富国強兵に努め、そのために優れた人材を集めようとした。このため実力主義の時代へ、そして下剋上の時代へと移り変わっていった。前述の晋が3人の有力な家臣に国を奪われた出来事はまさに下剋上の典型である。

 こうした状況のなかで、春秋時代には200もあった国が、次第に併合され、戦国時代には7つの有力な国家に統合されていった。7つの有力な諸侯国を「戦国の七雄」と呼ぶ。東の方から燕、斉、韓、魏、趙、楚、秦の7カ国である。

 七雄を中心とする激しい抗争の中で、前4世紀に入ると、まず魏・韓・斉などが強盛となり、さらに前4世紀中頃からは秦が勃興してきた。

 秦は、はじめ甘粛省の東部にあり、前8世紀に周の諸侯となり、その後渭水(黄河の支流)に沿って東方に進出していくが文化も遅れていた後進国であった。その後進国の秦が、前4世紀の孝公(位前361〜前338)の時代に、逃亡してきた衛の国の公子商鞅(しょうおう)を用いて改革(変法)を行い富国強兵に成功し、一躍強国にのし上がった。

 商鞅は国の経済のもとを農業におき、農地の開拓を押し進め、人民を5家・10家の単位に分け、治安維持に共同責任をとらせた(什伍の制)。郡県制を採用し、従来の貴族による土地所有・支配を廃止して国の土地とし、中央政府の官吏を派遣して統治させることとし、中央集権化を進めた。またこれらの政策を実施するために厳しい刑法を定めた。

 孝公の死後、商鞅は反対派に反乱を企んでいると訴えられ追われる身となった。国境の関所の宿屋に泊まろうとしたが、「商君(商鞅のこと)の法によると、旅券のない者を泊めると、私も同罪になりますので」とことわられた。商鞅は「ああ、新法の弊害は、ついにこの身に及んだか」とため息をついて立ち去り、後に捕らえられて車裂きの刑(左右の手足を2台の車に結びつけ、その車を左右に走らせて四肢を引き裂く極刑)に処せられた。

 秦の強大化・東方への進出は、中原の諸国にとっては脅威であった。中原の六国が互いに争っていたのでは、秦に対抗できないことは明らかだった。この時、六国が連合して秦にあたろうという政策、合従(がっしょう、縦に連合する意味)策をもって諸侯を説いたのが蘇秦(?〜前317)である。彼は洛陽の人で若いとき雄弁術を学んだが、貧乏して郷里に帰り、親戚から嘲笑された。発憤した彼は「錐股(すいこ)」(眠気を覚ますために、錐をもって股を刺して一心に勉強すること)して勉強を続けた。

 そして六国の諸侯に 「六国が連合すれば、国土の面積は秦の5倍になり、軍隊の数は10倍になる。連合して秦を攻めれば必ず勝てる。それなのに秦に臣として仕えているのは何事ですか」と説いて、ついに前333年に六国の連合を成立させ、六国の宰相となったが、後に張儀の連衡策が成立すると、斉で刺殺された。

 蘇秦の合従策を破り、連衡(横に連なるの意味)策を成立させたのが張儀(?〜前309)である。彼は魏の人で若いとき蘇秦と同じ先生に学んだ。諸侯に遊説して回ったが、楚の大臣の家でご馳走になったとき、宝玉がなくなった。粗末ななりをしていた張儀が疑われさんざん鞭打たれた。家に帰ると妻から「あなたが本ばかり読んで勉強したり、遊説しなければ、こんな辱めを受けることがなかったのに」と嫌みをいわれたが、彼は「俺の舌を見てくれ、まだあるか」と尋ね、妻が「まだある」と返事すると、 「舌さえあれば十分だ」と答え、また遊説に飛び出した。

 張儀は「六国が同盟しても秦には勝てないでしょう。それより秦と同盟を結び、その援助を受けるほうがよろしい」と蘇秦の合従策を壊していった(前311)。そして秦の大臣となったが、後に連衡も破れて失脚し、魏に逃れて死んだ。

 戦国時代になると戦闘の様子も大きく変わってきた。従来は貴族を主とする戦車戦が中心であったが、戦国時代には歩兵の占める役割が増大した。武器も鉄製の武器が広まり、大きな弩(いしゆみ、ねじのような仕掛けで弓を引き絞って発射するので、貫通力が高まった)も発明された。さらに趙の武霊王が北方の遊牧民と戦う中で、北方遊牧民族の騎馬戦術を取り入れたが、これにより戦争の様相が一変してくる。そして各国が動員する兵力も30万人を越えてくる。春秋時代では大国の兵力が15万人位で、 普通は2,3万人といわれている。当然死傷者の数も飛躍的に増加していった。

 前259年、秦は趙を攻めて、40万人の趙兵を穴埋めにした。秦はますます強盛となり、前256年に周を滅ぼした。その後、秦が韓・趙・魏・楚・燕・斉の順に六国を滅ぼし、前221年に初めて中国全土を統一したのは始皇帝の時のことであった。

 春秋時代の末期から戦国時代にかけては中国の社会が大きく変化した時期であった。中国史の上で、社会が大きく変化する時期が3回ある。1回目は春秋時代の末期から戦国時代にかけてであり、2回目は唐末から五代十国の時代(8世紀後半から10世紀前半)にかけてである。そして3回目は20世紀の初め清朝の滅亡から中華民国の成立の時期である。

 春秋時代の末期から戦国時代にかけて中国社会が大きく変化した最大の理由は、中国で鉄器が使用されるようになったことである。中国では錫の産出が少なく、銅と錫の合金である青銅器は貴重品で、主に祭器・武器に使われ、農具としては使用されなかった。従って春秋時代になっても農具は石器・木器であった。ところが前6世紀から前5世紀頃、鉄の製法が西方から伝わると、鉄の生産は急激に増大していく。しかし、鉄の生産には大量の木炭が必要なため、多くの木が切られたために華北一帯の緑が失われていったといわれている。 ともあれ鉄の生産が行われるようになり、しかも初期の鋳鉄はもろくて武器に適さなかったため農具に使われた。

 戦国時代には鉄製農具が一般に普及するようになり、また牛に犂(すき)をひかせる牛耕農法が発明されたことと相まって、農業生産力が急速に増大した。鉄製農具の使用により、1つは従来よりはるかに土地を深く耕すことが可能となり、深耕によって作物の出来がよくなり、単位面積あたりの収穫量が増えたこと、2つ目は大規模な荒れ地の開墾や治水・灌漑用水路を引くことが容易になり、耕地が飛躍的に増大した、これによって農業生産力がおおいに高まったのである。多くの農作物が取れるようになると、余剰が出てくる、 この余剰農産物は当然自分の必要な物と交換されるようになり、交換経済が始まってくる。最初は小規模で物々交換であったろうが、やがて規模が大きくなり、商業が盛んとなり、交換の手段として貨幣が使われるようになってくる。

 貨幣経済の発展はますます商業を、そして鍬・鎌などの農具や陶器を生産して販売して生計を立てる手工業者も現れてくる。さらには商人や手工業者の住む都市が発展をしてくる。このように中国社会は大きく変化してきた。

 貨幣としては古くは貝貨(東南アジアで取れる子安貝など)が使われてきた。 そのため経済に関係のある漢字には貝扁の文字が多い。貨・債・財・賃・買・貯・費・預など、まだまだ沢山あるので思い出してほしい。ところが貨幣経済の発展とともに、大量の貨幣が必要となり、新しく青銅貨幣が登場してくる。特に有名なのが刀の形をした刀貨と農具の犂を形取った布貨である。刀貨は主として燕・斉などで使用され、布貨は韓・魏・趙などで使われた。その他に楚で使われた蟻鼻銭(ぎびせん)や秦などで造られた中央に丸い孔(のちに四角の孔になる)のあいた環銭などがある。

 商工業や貨幣経済の発展は王侯とならぶほどの富を持った富豪を生み出した。従来の農業を中心とする社会では土地が最大の財産であったが、商工業の発達は貨幣という新しい財産形態を生み出した。また各地に大都市が出現してくる。春秋時代の大都市は人口5万人程度であったが、戦国時代になると商工業の発達により農村の人口が都市に集中し、斉の都の臨しは人口50万人以上の世界的な大都市であった。趙の都の邯鄲(かんたん)も大都市として有名である。

 こうした社会の変化の中で、周代の封建制度を初めとする古い制度は崩壊し、それまで公有であった土地は私有となり、後に大土地所有者である豪族を生み出すことになる。




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